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【戦国】織田信長(1534年~1582年)

超有名人なのではないかと思います。天下統一まであと一歩というところで家臣である明智光秀に背かれ、本能寺にて没します。最期に舞ったとされる舞が幸若舞『敦盛』の人間50年でした。「人間50年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり 一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」人間界の50年は一瞬である、であれば、その一瞬一瞬を楽しまなければ損である。そんな信長の魂の叫びが聞こえてくるようです。

信長は、非常にリアリストで迷信や伝統といったものに懐疑的で、宗教権力を打破します。かわって合理的なものをもたらしてくれる宣教師を取りたてて、既存の宗教権力と対抗させます。伝統と権威にあぐらをかく宗教権力を打破しようと信長は考えていたのでした。

織田信長の生まれは尾張国でした。織田信長の父、信秀は尾張国の守護斯波氏の守護代である織田本家のさらに分家の家柄であり、つまり尾張国一カ国すら支配していない状況から信長の天下統一の道のりはスタートします。1552年に父信秀が没し、わずか18歳にして家督を継承します。

1560年、桶狭間の戦いで大金星を挙げ、今川義元を討ち取り、全国にその名を轟かせます。その後、1567年にようやく隣国である美濃を平定、信長は家督を継いで15年かけてようやく愛知県と岐阜県の二カ国を切り取ったことになります。その後、1570年代に近江の浅井、越前の朝倉、甲斐の武田などを倒し、比叡山延暦寺や一向宗勢力と対決していきます。その間に織田信長の勢力はめきめきと拡大し、柴田勝家を筆頭に、丹羽長秀、滝川一益、羽柴秀吉、明智光秀、佐々成政、池田恒興などが各方面軍司令官として天下統一事業に王手をかけます。(関東方面軍と北条氏の対決、北陸方面軍と上杉氏の対決、中国方面軍と毛利氏との対決、四国方面軍と長宗我部氏との対決)

信長は、勢力拡大を図るために、楽市楽座を宣言し、座とよばれる特権商人による営業の独占を禁止とし、自由商売を奨励します。座は既得権益でしたが、信長はこれを否定したのでした。そして楽市楽座とすることで新規参入が可能となり、多くの商人が城下町にやってきます、人が集まるところにお金が落とされていきます。そして、戦国大名が喉から手が出るほど欲しかった情報も集まります。信長は楽市楽座という立て札一枚を立てることで、人と物と金と情報を城下町にもたらしたのでした。

そして、信長のリアリストな一面は、勝てない敵とは決して闘わないということでした。武田信玄や上杉謙信に対しては恭順の姿勢を示し、先に没してくれるのを辛抱強く待ちました。そんな織田信長が望まない決戦に挑まなければならなかったのが桶狭間の戦いでした。

当時の織田軍に対する敵兵力は10倍でした。織田軍としては絶体絶命のピンチでした。東海地方の覇者今川義元は、上洛するために静岡県から愛知県を通って入京を目指しており、闘わざるを得ない状況でした。織田信長は絶体絶命のピンチを前にして少しでも形勢を良くするため、『天地人』を得ようとします。

『天地人』とは、天の時、地の利、人の輪です。孫子の兵法に基づきますが必勝の戦略としてこの天地人を得た側が勝つとされます。しかし、天の時、つまり勝利のタイミングは計れません。準備も整わないまま敵が攻めてきているからです。地の利、人の輪を得るため、信長は一人考えます。

そして、1560年5月19日の明朝、信長は突如居城の清洲城から出陣していきます。午前4時頃、熱田神宮に到着し、緊張の面持ちの武将たちに檄を飛ばします。「者ども聞けい、我が手にある永楽通宝の表が出れば我が軍勝利、裏が出れば敗北よ!!」と叫び、永楽通宝と呼ばれる硬貨をトスしました。

そして、者どもの面前に突き出したのは表の永楽通宝でした。

「表なり!」と言うと、武将から歓声が上がりました。そして熱田神宮の社殿に向かい、「神よ、我らに味方せよ!」と信長が言うと、社殿の閉ざされた扉がガタガタと音を立て、信長の言葉に応えました。

「者ども、神も味方ぞ!」と言うと、さらに武将は歓声を上げ、士気を高めました。これで信長は人の輪、チームワークを高めたのでした。そして、桶狭間という狭い場所に敵を誘導し、敵兵力・重点攻撃で兵力差をものともせず、地の利を得て今川義元を撃破したのでした。

織田信長が、桶狭間に臨む際に、明朝たった一人で舞ったのが幸若舞の『敦盛』だったのです。絶体絶命の時に、人間50年を舞い、自分自身を鼓舞したのでした。そして、本能寺の変の時にも『敦盛』でした。人間界の50年は一瞬である、であれば、その一瞬一瞬を楽しまなければ損である。そんな信長の魂の叫びが改めて聞こえてくるようです。信長は最期の最期その人生を楽しめたのではないかと、なんとなく感じます。


歴史を学ぶ意義を考えると、未来への道しるべになるからだと言えると思います。日本人は豊かな自然と厳しい自然の狭間で日本人の日本人らしさたる心情を獲得してきました。その日本人がどのような歴史を歩んで今があるのかを知ることは、自分たちが何者なのかを知ることにも繋がると思います。