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神社ガールと新しい時代の信仰

信仰は個人的な体験であるということ

先の記事で「宗教は包括的な物語を提供する」と書いたけど、「信仰」は、宗教の物語と切り離して考えることができると、わたしは思う。

信仰というのは、神や仏やそのほか、名前はなんであれ、人間的存在を越えた存在にすべてを投げ出して向き合うという「体験」だし、そういった姿勢を持って生きることへのコミットメントだ。

そして、信仰を通して得られる最善のものは、その人の中に確実にあらわれる、完全無欠の恵みと愛への確信という体験だ。

それを「救い」と呼んでもいいし「ゆるし」と呼んでも「恩寵」と呼んでもいいけれど、きっと同じものだとわたしは思う。とにかく「自分は全面的につながっている」「愛の中にいる」という確信。

わたしは、これは人間が持つユニバーサルな機能だと思う。

そんなことを言うと正統な宗教者の人に怒られるかもしれない、と思っていたら、先日観た動画でカトリック教会の神父である晴佐久昌英さんが同じようなことを言ってらしたので感動した。少なくともわたしにとってはそのつながり感が、信仰の本質だ。

これはほんとうに内的で身体的な感覚も含む体験なので説明することはできないけれど、要するに、<完全無欠の愛>である。内から湧き上がり、同時に受け取っていることが実感できる愛。自分が世界から愛されていて、自分も世界を愛しているという、相思相愛の実感だ。

これはきっと、家族とかパートナーとか、あるいは犬でも猫でも、ある場所や情景でも、自分にとって本当に大切な誰かや何かと精神的につながる体験、身近で純粋な愛と、本質的には同じ力なのだと思う。本当の愛には人の考え方や生き方、現実そのものや身体のあり方までも決定的に変える力がある。「神は愛である」とは、新約聖書の福音書にも書かれているとおりである。

わたしは、こうした信仰体験は必ずしも物語を、つまり宗教を、必要としないのではないかと思う。19世紀にはおそらくほとんど選択肢はなかったけれど、もはや21世紀の現在、自分自身を超えた存在への信頼と帰依を実現するのに、必ずしもかっちり決まった一定のストーリーもドグマも決まった導師も必要ではないと思うのだ。むしろ、「物語の解体」(つまり、自分の住んでいる世界をよく見直して、それが偏見に満ちた幻想であることを体験すること)を通して、信仰の土台ができるのではないかと思う。

といのは、愛の妨げになっているものは、たぶんどんな場合にも、自分で気づいていない物語(偏見)だからだ。

実際に、いま「スピリチュアル系」と呼ばれている人たちやいわゆるニューエイジの流れを汲む人たちが共有しているのは、新しい宗教体系ではなくて、ゆるい共通認識のようなもの。それぞれが神話体系を持っているように見えるけれど、「あなたがそう思うならあなたにとってはそうなんでしょ」というように、他人がどんな神話を信じているかを気にしないので、神学論争みたいなことにはならない、という傾向があると思う。(もちろん他人の神話を攻撃する人はいるし、どちらが多いかというとそっちのほうが多数派なのかもしれないけど)

いい加減だともいえるし、オープンだともいえる、新しいスピ系の人たちのそういうゆるい態度こそが、新しい時代の信仰の可能性をひらくのではないかと、わたしはひそかに思っている。

神社ガールたち

わたしが幼いときに神道や神社をなんだかちょっと怖いものだと感じたのは、その背景に馴染みがなかっただけでなく、おそらく社会のなかにわだかまり残っていた国家宗教と敗戦のつらい記憶も働いていたのだと思う。

神をいただく権威に同化を求められること、巨大な物語にからめとられてしまう恐怖と無念さの記憶が切実さをもって語られていたのが戦後の日本で、精算されるはずもない戦争責任の物語や亡くなった方々にまつわる怨嗟とともに、消化しきれないまま神社という存在そのものに影を落としていたんじゃないかと思う。靖国とかだけでなく、一律におおざっぱに、戦争とも明治以来の国家神道ともまったくかかわりのない小さな神社にまで。

神道が帝国主義の道具に使われたのはほんの数十年のことだけれど、そのために戦後の日本人と神社のあいだにはずいぶん冷たい距離があいてしまったのだと思う。(もちろん、そんな中でも津津浦浦の神社を守ってきた人びとがたくさんいるからこそ、今でも何万という神社が長い歴史を守り続けているわけだけれど)

ここ10年ばかりのあいだに日本で起きている神社仏閣&スピリチュアルブームは、戦後70年以上たって機が熟した「リバイバル」といえるのではないかと思う。もちろんキリスト教のリバイバルとはずいぶん性格が違うけれど、ある意味、信仰のありかたの再生といっていい気がする。

それはもちろん三島由紀夫が目指したような、天皇を中心とする物語のリバイバルではない。もっとゆるやかな、個人的な神様とのつきあいが始まっている。

20代のワカモノたちから50代のおばさんたちまでが、神社という場所を、日本古来の新鮮な聖域として再発見している。それも、神社庁とはぜんぜん関係ない文脈で。御朱印ガールやスピリチュアルガールたちが神社仏閣にややメルヘンなキラキラした期待を持って押し寄せ、神々や仏とコンタクトをしようとしている。そして神社や仏教寺院のほうでも、それを受け止めて少しずつ変化している、ように見える。

そして、神社にドグマは要らないのだ。

なにしろ神社にはもともと教義など存在していなかった。津津浦浦の大小の神社は、その土地の神、精霊、息吹といったものと人間が交歓する場所だったのだから。あとから入ってきた仏様たちも一緒に。

今、「この神社の神様にこういうメッセージをもらった」というような発信をしている人たちの中には、一昔まえまでの霊能者や新興宗教教祖たちとはまったく違う軽やかさが感じられる人もいる。

もちろん、書籍やブログや動画など、いわゆるスピリチュアル関係の情報には気分が悪くなるようなものも多い。とにかくセンスが悪い人、社会常識を欠いた人、陰謀論に喜んで飛びつく人も多いし、誹謗中傷も目にする。

有象無象の「スピリチュアルリーダー」がいる中で、わたしが好きなのは、エゴが低く、人を攻撃せず、恐怖を煽らない姿勢を貫いている少数の人たちだ。

精神世界に恐怖が入りこむと、そこは途端に地獄になるから。

彼らの言うことが「真実」かどうかは、わりとどうでも良い。信仰は個人の体験なのだから。むしろその動機がどうであるかを知りたい。

動機善なりや、私心なかりしか」というのは稲盛和夫さんの経営哲学のひとつだけれど、スピリチュアル界で何ごとか言う人の動機が完全に善でないなら、近寄らないに越したことはない。わたしがここで言う「善」とは、我欲よりも他者をさきにおいているかどうか、というごくシンプルなことに尽きる。

恐怖が解体できれば

宗教の物語には、たぶん、宿命的に恐怖が含まれるのだろう。
トランプ支持者が強烈な潜在的恐怖に動かされてパワフルな指導者をもとめるように、そして福音派教会が進化論などの「理性」による世界把握の物語を脅威だと感じるように、物語が確立すると、それを守る力がはたらく。

その恐怖を解体できるといいと思うけれど、それは宗教に対する攻撃では決して実現するわけがない。

一人ひとりが自分の生きている「物語」をすこし離れたところから客観視できれば、そして、自分の世界を規定するものではなくむしろ「どう使うか」という実用性重視の視点から、物語を見ることができれば、ヒトの社会はものすごく風通しが良くなるだろうし、ほとんどの問題がするすると解決するに違いないと思うのだけど。

他人の信仰のあり方を、批判することも恐れることもなしに、自分のものと同じように敬い、信仰の核にあるもっとも重要なものだけを純粋に共有できるような態度を持つことができたら、それほど平和なことはない。

物語に依存しない信仰は、神(またはそのほかの名で呼ぶ絶対的存在)との個人的つきあいを深めながら、全人類(および全地球環境)に対して自分に向けるのと同じ愛を持ち、敬意を持って最善を選んでいくこと、の中から実現するのだと思う。

自分たちの信仰が攻撃されていると感じて感情的になり、攻撃するというのは、つまり自分の神様を全面的に信頼していないっていうことではないのでしょうか。


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