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「宗教的ではないがスピリチュアル」

宗教の「物語」

信仰は、実際に経験したことのない人にとっては薄気味悪いものだ。

宗教は、個人が神や宇宙とつながるしくみを説明する包括的な「物語」を提供する。そのひとつの物語のなかに存在のすべてを預けることで、個人の実存的不安が解消する。

このしくみは、その外側から見るとたいへん薄気味悪く見える。
外から見ると、その物語は、明確に語られれば語られるほど、その共同体の人だけが本当だと思いこんでいる「おとぎ話」か幻想にしか見えない。

でもよく考えてみれば、世の中の常識というものは、すべてある種の「物語」なのだけど。

自分の住んでいる「物語」(つまり自分が正常だと思っている世界の常識)とまったくかけ離れた前提に立つ話を聞かされたら、誰だって居心地が悪くなるはずだ。


米国の信仰と無神論者のポジション

わたし自身、30歳頃まで東京近辺で生活していたときには、敬虔な信仰を持っている人を「ちょっと気の毒な人」くらいに思っていた。

実家のすぐ近くにプロテスタントの教会があったので、当然のようにそこの幼稚園に通い、小学校のときには日曜学校にもときどき通って、キリスト教に親しみと憧れを持っていた。仏教にもとても興味があったけれど、葬式以外に接点はなかった。神社は逆にまったく馴染みがなく、すこし不気味に感じ、どうつきあったらいいのかわからなかったのであまり近寄らなかった。



とくに学問として宗教を学ぶこともなく、のんべんだらりと20代を送って30代になって米国に来てみて、まず驚いたのは、「しっかりした信仰を持つこと」が、この国では「ちゃんとした人間」の資質のひとつとみなされていることだった。

もちろんそう考えない人の集団もあるけれど、そっちの方がむしろ特殊といってよく、国のトップに立つ大統領も、キリスト教の神を信仰していることをアピールしなければ絶対に支持を得られない。この国の中心では、まだまだ神はぜんぜん死んでいない。

米国で「無神論者(atheist) である」と宣言するのには、日本人が「わたしは無宗教です」というのとはまったく違う、おそろしく意思的な姿勢を必要とする。それは、語りかける相手によっては、「自分は反社会的存在である」と宣言するのに等しい。

攻撃的な宗教とほんとうの信仰



わたしは30代前半で離婚という自分にとってそれまでの人生で最大の「実存的危機」に直面したときにキリスト教に正式に入信して洗礼を受けた。そこで出会った信仰は、思ってもみなかったほどリアルな、心揺さぶられ、世界を変える体験だった。

でもその後、福音派キリスト教会が自らの物語と矛盾する事柄を(進化論とか)ひどくアグレッシブに攻撃する偏狭さにがっかりして、教会から遠のいた。今は、キリスト教徒の自覚を持ち続けつつも、仏教、とくに真言密教に導かれ、シアトルにある高野山寺院にご縁を頂いてときどき寄せていただいているほか、「スピリチュアル系の人びと」を広く浅くウォッチしている。

米国でアンケートに答えると「あなたはどのくらい宗教的(religious) ですか?」という質問に出くわす(特にマッチングアプリなんかではものすごく重要な項目なので、必ず出てくる)。「とても宗教的」「まあまあ宗教的」「まったく宗教的でない」といった選択のほかに「宗教的ではないけれどスピリチュアル」という選択肢がある。

わたしも、やや不本意ながら、自分をここに入れている。

「宗教的ではないけれどスピリチュアル」というのは、要するに組織的な教団などに属して活動してはいないけれどスピリチュアリティ(「精神世界」と訳されることもあるけれど、的確な訳語はないと思う)に積極的な興味があるという意味だ。曖昧なカテゴリーだけれど、そういうふうに名乗るしかない人が多くなっているということなのだろう。

宗教を否定はしないけれど、自分たちだけの「物語」にしがみついて、そのサークルの外の人たちの常識を攻撃するような態度は、ほんとうの信仰とは相容れないのではないか、とわたしは常々思っていた。

福音派キリスト教でもイスラム教原理派でも大日本帝国でも、「ほかの人たち」の考えに反応して攻撃するというのは恐怖に追われて行動しているということだし、ローマ帝国時代ならともかく、もう時代遅れだし、そもそも神の意思に反することのはずだ。

きょう偶然、YouTubeで晴佐久昌英さんというカトリックの神父さんが宮台真司さんと対談している動画(2013年)を見つけて感動してしまった。晴佐久さんが、信仰の本質は人類にとって普遍的なものであるはずだと語っていたからだ。伝統的宗教の中の人がわたしが考えていたのと同じ方向で活動されているのを知って、なんだかほっとしてしまった。

イエス・キリストは、律法学者に「もっとも大切な掟」は何かと聞かれたとき、こう答えた。

「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』。律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(マタイによる福音書22.37、新共同訳)

この二つの教えをほんとうに深く実践していたら、きっと、エゴのために人の間に嫌悪をまきちらすトランプを支持したり、「教えを守るため」に攻撃することなどできないのではないか、と思う。ほんとうの信仰は人を愛にしか向かわせないはずだと、わたしは信じている。






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