しゃべらない人々


「喋らない人々」によく出会う。
歩いていてぶつかっても、何も言わずに通り過ぎていく人。
スーパーで買い物をしていて、品物を見ている僕の目の前を黙って横切っていく人。
道を譲っても、黙ってそのままスタスタと歩いていく人。
もちろんレジで物を買う時に店員と会話などあるわけがない。
「喋らない人々」だらけだ。

自分はどうなのだろう?
僕は北海道から出てきて、東京で長く暮らしてきた。
多分、そんな中で同じように「喋らない人」だったかもしれない。

アメリカで暮らしていて驚いたのは、喋る人だらけだったことだ。
近所を散歩していても、すれ違う人はほぼ確実に挨拶をしてきた。
声をかけてくる人もいたし、目を合わせて笑顔を見せる人もいた。
最初は驚いて、誰か知り合いだったっけ?と慌てたが、すぐに慣れて返事を返すようになった。
道を譲ればお礼を言い合い、店に入ればまず店員と挨拶をする。
レジでお金を払う時も挨拶や雑談がある。
空港の税関の職員でさえ、入国審査をしながらピクシーズの話をしてきた。
とにかく知っている人かどうかではなく、誰かと会えばコミュニケーションが始まる。
それは、単にフレンドリーな人たちだからということではなく、自分が得体の知れない危ない人間ではないよ、というサインを互いに出すことが重要で、アメリカという社会がそうしたコミュニケーションがとても大切な社会だからだろうと思っている。
なんであれ、そうして常に誰かと軽い言葉を交わし合うとことに悪いことは一つもなかった。面倒だと感じたこともない。過度にベタベタもしていない、さっぱりとしたものだった。

日本に帰ってきて最初に感じた違和感が、そうしたコミュニケーションがほとんどないということだった。人生のほとんどの期間を日本で過ごしていたのに、ほんの2年ほどアメリカで暮らして戻っただけで、「喋らない人々」に対する強烈な違和感を感じるようになった。体験というのは重要なのだ。
帰国してしばらくの間は、店でも思わず挨拶をしたりしていた。
道で誰かとすれ違う時に挨拶をしないとソワソワしたりしていた。
そうしないと落ち着かなかった。でも、それもかなり減ってしまった。
それはそうだ。ほとんど返事も応答もないのだから。
人間の行動や振る舞いは環境で作られる。誰も応答しなければ自分も喋らなくなり、喋らない社会になる。
幸いなことに体験による記憶と感覚は消えない。
それによってこうして違和感を感じることができるのはいいことだと思っている。

どうして喋らないのだろう?どうして何も言わないのだろう?
まるで外界における他人は、人間ではなく何かのモノのように見ているのか?
そうすることが楽だったり、安全だったり、得だったりするような生存戦略があるのだろう。でもそんな人々も、自分が属している集団の中では人が変わったようにハキハキと喋る。それもやはり生存戦略なのだろう。
生き残るために一番良い方法を選択していくと、外の世界の知らない人々とは一切喋らず、属している集団の中では大いに喋る、というスタイルに落ち着くということか。それが合理的な生存戦略というのも恐ろしいことだ。なかなかの歪みっぷりだなと思う。
こう振る舞いたいという自分の意思よりも、周囲の暗黙の了解を察して合わせることの方が合理的で正しいこと、というのが日本のベーシックなあり方なのだろう。
月並みな言い方になってしまうが、同調圧力の強力さを改めて思い知らされる。

僕はずっと同調圧力が苦痛で面倒臭く、そこからの逃避とささやかな反抗を常に試みながら生き延びてきた。
外では沈黙を求められ、組織の中ではそこの暗黙のルールに則った過剰な親密さを求められる世の中なんて、本当に気が狂いそうになる。
身体性がなく、言葉と記号と文字だけのコミュニケーションの世界というのはクソみたいだとしか僕には思えない。別に突然皆んながハッピーでフレンドリーな身体性溢れるコミュニケーションをする世の中になってほしいなどとは思っていない。
ただ日本という村がもう少しなんとかならんのかな、と思うだけだ。

コロナで沈黙と距離を取ることを求められ、
ますますこのスタイルが強化され、言葉と記号と文字だけのコミュニケーションだらけになった。
この先、この国この社会がどうなっていくのか。
確実に少数派である自分がどうやって生きていくのかも含めて、それを見つめていくのはとても興味深い。
(2022.4.24)

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