最先端という陳腐さ

音楽を創り演奏する中で、「誰も聴いたことのない新しい音楽を作る」「これまでにない音楽を作る」「最先端の音楽を」というようなことを考えていたことがあった。どこにもないオリジナルな音楽を作ること、それが自分の野心であり目標であった。過去形で言ったが、創作の意欲や野心が過去のものになってしまったということではない。そのことについて考えてみたい。

僕は、とにかく作品や作家への敬意のカケラもないようなパクリの音楽が大嫌いだったし、そんな音楽や作品に触れるたびに怒りを感じている。日本のそうした酷い作品や状況にばかりつい目がいってしまうが、海外の事情はわからない。アメリカで2年暮らしている間には、日本のようにテレビや街角から暴力的に聴きたくもない音楽を押し付けられるような体験はなかった。もしかしたら僕の知らないディープな日常世界では、そんな酷い音楽や作品が海外にもたくさんあるのかもしれないが。

自分が抱く怒りや音楽的野心は、僕自身にいろいろな問いを突きつける。
日本の誠意のない音楽が嫌いだと考えは、僕が自分の音楽を誠意のある日本の音楽として成り立たせているかどうかを自分に問いかける。
最先端の音楽を作る、という野心は、作ったそばから最先端ではなくなるという矛盾を抱えていて、その結果「今どきの流行りな感じ」という陳腐なものになる。
形式の破壊やノイズも同じだ。前回考えたように、型の破壊を試みるような前衛的なスタイルは、その方法がすぐに一般的なものになって次に壊されるべき型そのものになる。

創作のモチベーションになるような怒りや野心は、取り扱いに気をつけないと自己矛盾を増殖させながら自分自身を攻撃する。そして結局混乱の中で病んでしまったり、何も作れなくなってしまう。

自分が音を追求すること、創作を追求するというのはどういうことなのか。小銭稼ぎや生活費稼ぎで作る音楽とは別の話の、自分の魂の問題として音楽を作る時、その追求の姿勢が向かうべき方向はよくよく考えねばならない。新しいもの。聴いたことのないもの。そこに創作の情熱や魂を賭けることは、その意味をよく自覚していないと危険だ。

自分の音を、音楽を、創作を追求する時、どこに向かうことが正しいのか。最先端や前衛やオリジナルになることだけに囚われることなく、創作を追求するというのはどういうことなのか。この問いはとても難しいが、考えていくと結局自分自身という存在しかない。自分がぶっ飛べるものであること。自分が震えるようなものであること。自分が高揚するものであること。自分の体が躍動するものであること。つまり、自分の感覚と価値観が作品の基準になるということ。

それが答えなのか?
これは単純なようだが簡単ではない。
自分が高揚する、ワクワクするものが創作の基準になるなら、その自分の感覚と価値観は常に磨かれていなくてはならない。
自分はどんな風に世界や人や世の中を見ているのか。
自分の作品を判断するに値するような価値観をもっているのか。
そんな生き方をしているのか。
自分の創作の判断の基準を自分自身に求めるということは、自分自身の感覚と価値観を磨き続けることには成立しない。自分の感覚が錆びついたものになってしまえば、作品を判断する感覚もその程度のものになる。

自分の作品を磨いていくには、自分自身が磨かれていなければいけない、というぐるっと回って当たり前のような話に帰ってくる。そんな風にぐるぐる回りながら、自分を磨き鍛えていくだけ。そして音楽を創るだけ。
それだけ。
(2022.6.12)

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