見出し画像

意識低くない系大学生の休学日記:4(2022年1月26日)

夜8時に眠りについて、3時半に起きた。ぐっすり寝たよ!

ということで次の日になって日記を投稿します。


今までの記事を読み返した(定期

半分は同じ人から継続的にスキされているのだが、もう半分の人は記事ごとに異なっていることに気づいた。

毎回ちょとずつタグを増やしたりなんだりしているのだが、変化が見られて面白いと思う。ここら辺の試行錯誤はSEOを勉強していた時もしていた。

「決められた枠の中での模索」という行為は「完全な自由の中での模索」よりも「楽」に「楽しい」という感情を得やすいと思う。心行くままに、レールの上を通勤快速でビュンビュン進んでいけるような気になる。気がしているだけかもしれないが。

ちなみに、大学の最寄り駅は通勤快速が止まらない。控えめに言って、暗礁乗り上げ。


閑話休題。


実は初めて日記を当日朝から書いている。(追記:結局寝たから意味がなかった)

朝からやった方がスムーズに書ける、ということを後輩が教えてくれたからである。やってみたくなるよね。

といっても、実は既に知っていた。

これも私お得意の認知心理学でしっかりと実証されていることである。


「ツァイガルニク効果」


ロシア人のツァイガルニクさんが実証した心理効果であり、

「課題が中断されると、それが記憶されている可能性がはるかに増す」

というものである。

人間というものは、「完成」されていない状態に対して、意識を取られてしまう生き物である。

日記を途中で書きかけの状態にしておくというのも、心理的ハードルの低下(正しく言えば、完成させなきゃ!という状態)をもたらしてくれる。

書き忘れも減る。こまめに書くから忘れようもないということもあるが、「日記を書こう!」という認知が長続きするので、記憶が定着しやすいんだと思うね。


……こういう意味で合ってるよね? しまじろう?


画像1

               え?

      

素で間違えた。ハム太郎、だった。

画像2

※こいつも少し違う。


閑話休題。


というか毎記事、心理学の話をしている気がする。

してただけだった(調べた

とはいえ、現実で付き合いのある友人には、役に立ったり立たなかったりする心理学の話を雑学的に良く語る。オタク特有の早口でな。

そろそろ俺もメンタリストを名乗ってもいいかもしれない。

メンタリストYuzuHito。

画像3

※画像を加工するだけの良心が僕に残っていたことに驚いたんだよね。

死ぬほどダサいし、n番煎じ感が否めない。

でもメンタリストかぁ。ネットのおもちゃになるの確定だな。

?「ええー? メンタリストのくせに自分のメンタルはコントロールできないのでござるかぁ?」

画像4

※天丼


閑話休題。


マスターデュエルでプラチナ1(最高ランク)にまで到達した。

画像5

そこそこ時間がかかった方な気がする。計70戦、勝率9割。連勝最大記録は19勝、プラチナ帯は10連勝でちょうどプラ1に上がってfinish。戦績は悪くない方だろう。

ランクマは2月1日までだから、サービス開始から二週間ほどしかない計算なんだけど、期間短くね?初心者とかは上がってこれるのかしら。

というかこのゲーム自体、初心者お断りゲーな感が否めないのだが、どうやら連日参加者が増加傾向にあり、steamでの同時接続人数はApexなどのビックタイトルよりも多いらしい。

現実でのカードゲーマー(ゲームも含めて)が疎まれる存在なだけに、形容し難い味の悪さを覚える。それに、体臭が漂わない環境でやるカードゲームには違和感があるZE!


閑話休題。←使いすぎじゃない? 何回休んでんだよ


文体の話。僕はふざけているときと、真面目に書いているときで文体が結構違う気がする。一人称のばらつきも、真面目にモノを書いていると、大分少なくなる。

それにね、僕の文体に大きな特徴はない……と思っている。面白みがないという点でも、欠点がないという点でも。純粋な意味での小説家志望というわけでもないので、問題があるとは思っていない。

強いて言うなら、本来私は物書きなんて目指しちゃいけない人間である。

向いていないとまでは言わないが、物書き以外の方が才能あると思うよ。

いや、この時点で才能がないと言い切るほかないだろうな。僕ごときが才能を語るのはおこがましいのだけど、間違いなく才能がない。

”物書きの才能がある”と確実言えるのは、プロになってそれ一本で食える奴だけだろう。正直、一回や二回公募で賞を取ったぐらいだと”大したことない”し、プロになって”多少マシ”にはなるのだろうけど、その先で生きていけない。

って言いながら、公募原稿を書いたりしているのは、脳が麻痺しているのだろうと客観的に見て思うね。昨日も書いたけど、人は「愛」を抱くと、30分先のことも見えなくなる。

僕は文章というものに「愛」を抱いているのだろうね。

今はそんな自分が大好きだ。俺以外のそんな奴らも同様に大好きだ。


話を戻そう。文体の話。


私は文章を客観的に見る方法として「形態素解析」を行っている。

知らない奴はリンク先で学んでくれ。



ここまで本格的なものは大変なので滅多にやらないが、簡単にやれるツールはネット上に転がっている。

実際に2000字くらい文章を突っ込んでみる。

すると……

画像6


画像7

見切れてるが許せ。

こんな感じで分析してくれる。

好きな作家の文章を突っ込だりして分析するのがお勧めだ。言語化できない自分との差異を明確にしてくれる。無論、分析しきれない文体の”味”というものもあるので、それはご愛嬌。

このシステムの作成者は一時期有名だったPCゲームのメインライターを務めていた人物である。

画像8


一枚絵がふつくしい……しゅき、しゅき、だいしゅき、ちょうあいしてる


文体の”味”と書いたが、これは比喩でも何でもなく、私は文章を読んだときに”味”や”食事”で例えることが多い。文体や中身を含めて。

実際に味を感じているわけじゃなくて、小さい頃に読んだ文学少女シリーズの影響だと思う。ずっとやってきたことだ。

画像9

※表紙のヒロインは本を食べる。文字通りに。そして、小説の感想を味で表現する。

私が好きな作品についてあまり語らないのにもここら辺が絡んでくる。

上手く自分の感覚が説明できない時がある。

形態素分析なんて大仰なことをやっているのは、自分の感覚を当てにしていないからであり、より一層の言語化に努めるためだ。

高校生ごろには大分言語化が上手くなったような印象があるが、それは読んだ作品に関するレビューを大量に読み漁ったからである。他人の言葉に自分の感覚を押し当てていくイメージだ。


閑話休題。


オチがない。強引に落ちを付ける。























画像10



(終わり)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?