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目的と手段と、本質と実存と。

目的と手段はよく混同される。
というか、気づいたら混同している。

例えば、教育とビジネスについて考えてみる。

教育

教育は、なぜ存在するのかと言われれば、
人がこの地球で生きていくために必要なことを身につけるため。
人として成長するため。

そして、その手段として、
近代以降は学校という機関が作られ、
カリキュラムが設計され、
学級制度が作られ、
人を「育てる」ことを目的としてきた。

しかし、その作られた機関や制度の中にいる私たちは、
その制度をゲームのようにクリアしていくことが目的化してしまう傾向にある。
学校を卒業する頃になって、
本質的に「生きる力」を身につけることができたのかと言われると、
必ずしも全員がうん、と言えるわけではない。

それが、学歴があっても仕事ができない人間がいる理由だし、
大学に行くことすら疑問を投げかけられている理由だと思う。

そう。
目的の手段として作られた制度の中に埋もれる過程で、
手段が目的化してしまうのだ。

ビジネス

一方で、ビジネス。
ビジネスは、なぜ存在するのかと言われれば、
物理的には出会えないであろう人や物の交流を通して、
人や社会がより豊かになるため。

そして、その手段として、
会社という法人格が作られ、
人事組織制度が作られ、
貨幣が作られ、
会社という仮想空間で共同事業を行うことで、
利益を生み出すことを目的としてきた。

しかし、その作られた組織・制度の中にいる私たちは、
その制度をゲームのようにクリアしていくことが目的化してしまう傾向にある。
会社で働きながら、もしくは退職する頃になって、
自分の手で自分や社会は幸せにしたのかと言われると、
必ずしも全員がうん、と言えるわけではない。

物事は、
本質に立脚して生まれてきたはずなのに、
具体的な日常に生きる私たちにとっては、
その大事なはずの本質は忘れ去られがちで、
目の前の制度や機関をクリアするために必要なこと、
本来なら手段にすぎないことの方が、
重要になってしまうのかもしれない。

手段という仮想空間で生き抜くために

では、私たちは、
この手段に染め尽くされた仮想空間で、どう生きるのか。

例えば、人に何かを伝える時は、
目的と手段と、本質と実存とを、意識して話さなければならないと思う。

相手の視点に立って考えるとおそらく、
本質的ではないけど実存的なことが、
相手にとってはより緊急であり、
実存的ではないけど本質的なことが、
相手にとっては本当は重要であろうから。

人に何かを伝える時は、
相手の実存的な欲求を満たすという観点と、
相手の本質的な欲求を満たすという観点の、
2つの見方が必要なのかもしれない。
そして、伝える際には、
前者を先に、重きを置いて、じっくりと。
後者を後に、笑いを交えて、さっぱりと。
そんなイメージなのかもしれない。

そして、私たちは、
そんな手段という仮想空間でどう生きるべきなのか。

それは、きっと、
仮想空間に受動的に飲み込まれるのではなく、
むしろ主体的にどっぷりと潜り、
その空間で遊び尽くすことなのだろう。

そして、遊び尽くしたら、
また別の空間を探しに行けばいいのだろう。

ずっと同じ空間にいなきゃいけないなんて、
そんなことはないのだから。

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