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伝えられるべき「正しさ」とは何か

教育学を学んでいて思うことがある。
人に教える内容の「正しさ」の立脚点はどこにあるのかという、
根源的な問題である。
正しいものとして教えられることは、
どのようにして決まるのかということであり、
つまるところ「伝えられるべき正しさとは何か」という問いになる。

教師が教えている知識は「正しい」のだろうか。
それは、社会に秩序を持たせるために、多数の人々の合意を得て、外部で形成された知識であると考えることができるが、
それは、客観的な正しさを持つものなのか。

ここでの客観性というのは、多数の主観性の集まりによって形成された、いわば「間主観性」ではないか。
例えば、日本の歴史の教科書の記述が、何度も改訂されているということは、これを裏付ける事実であろう。
究極的には、完全に客観的であることというのは、この世界には存在しないのではないだろうか。

であるならば、客観的な正しさを持つ知識は存在しないことになる。

しかし、現に、教育という営みが成立していることを踏まえると、
「伝えられるべき正しさ」は存在するのではないか。

それは、大きく2種類に分かれていると思う。

ひとつは、教師が教えているような、一般的に「正しい」とされている、間主観性の高い知識である。
これは、社会に一定で暫定的な秩序を与える上で、なくてはならないものだ。

もうひとつは、経験に裏付けされた仮説的な知識である。
その知識の「正しさ」は事実として起きたということから、実証されているものである。
それは、仮説的であるために、しばしば主観的で個別的であるかもしれないが、
カオスな社会に切り込むために、自分の持つ視点とは異なる視点を提供してくれる。
そして、対話や議論による自分の視点とのぶつかりを通して、
知識はさらにアップデートされていく。

知識には絶対性がないからこそ、対話や議論が生まれるのであり、
それを通して、世界に迫ることができる。
そのプロセスにこそ、自分の世界が広がるということが起きるのであろう。

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