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好きと面白いだけじゃない。ずっと追いかけてくることは一生の夢になる。

好きなことと面白いこと

私の友人のひとりに、好きなことを仕事にしている人がいる。彼はクリエイターであり事業家でもある。昼夜問わず、というか、もはや昼夜逆転して仕事をしているが、彼は会うといつも楽しそうだ。好きなことを仕事にしているから、苦じゃないらしく、こう述べていた。

好きなことを仕事にしているから、面白いんだ

一見、あたりまえで、誰もが一度は心からそのセリフを吐いてみたいと思ったことのある一文ではないだろうか。

しかしもうひとつ疑問を投げて、その解像度が上がったような気がした。

「あなたにとって、好きと面白いって何が違うの?」

「好きは、一緒にいたい
 面白いは、見ていたい、かな。」

ここに両者の本質的な違いがあるように感じ、めちゃくちゃ面白いと思った。

対象との距離感によって「好き」にも「面白い」にもなり得る

私がこの話を聞いて思ったのは、
好きと面白いは、その対象との距離感が異なる」ということだった。

「好き」は一緒の時間や空間を共にしたいと思うほどに距離感が近く、対象に対する自分の関与度も高い。
一方で、「面白い」は、見ていたいと表現されたように、その対象は考察の対象でしかない。だから、空間や時間を共にしすぎることはむしろ求められていなくて、適度な距離感や、自分の心身をのめり込ませるほどの関与は、意図的にしていない可能性もある。

そう考えると、この両者の違いがあるから、その対象と自分の間で問題が起こったときに、自分の感情に差が生まれるのではないだろうか。

まず、恋愛を例に「好き」について考えてみる。
「好き」という対象との間に何かしら問題が起こったとき、
そこで生まれる感情は、悲しみだったり、
それがエスカレートすると怒りになったり、
あるいは、さらにいくと無気力になるケースもある。
対象に対して自分の関与度が高いほど(相手をめちゃくちゃ好きであればあるほど)、そのダメージは大きくなると思う。

次に、仕事を例に「面白い」について考えてみる。
仕事自体が面白いと思えている人は、何かしら仕事でトラブルが起きたとき、その問題の発生という事象自体を面白く思っているように思う。
この仕事では、この会社では、この業界では、こういうことが起こってしまう世界なのね、と、関与度の低い関わり方、すなわち、ある種自分が存在する世界と、対象が存在する世界を切り離して思考することができることによって、自分の感情すらもマネジメントできているように思う。
もちろん、これは人の性格や仕事の適正によって反応が異なるケースもあり、一概には言えないが。

そして、「好き」と「面白い」を、子育てを例に考えてみる。
子どもを育てるとは、一般的に考えると、自分の関与度を高める行為にあたるが、対象との距離感が異なるから、子育ての仕方に違いが生まれていると考えられる。

対象との距離の取り方の1つは、子どもの人生はあくまで子どもの人生であって、親である自分が歩む人生ではないと、子供に対して適切な距離を取ることができた場合。その時は、子どもへの関与度を下げることができる。そうすると、例えば、学校で子どもに何か問題があったときでも、その問題自体を責めるのではなく、彼・彼女にも何かしらの事情があってそういう行動に出たのかもしれないと、彼らを尊重した視点で関われるようになる。

もう1つは、子どもへの関与度が高すぎる場合。そうすると過保護になってしまい、それがエスカレートしたものが虐待につながると考えられる。

このように考えてみると、対象に対してポジティブな感情を抱いているとき、それが、「好き」なのか「面白い」なのかは、その対象との距離感や自分が関与している度合いに依るものだと考えられる。

そして、人の生物的社会的成長によって人間関係や趣味が変わるのと同様に、この対象との距離感も簡単に変動する。だから、「好き」と「面白い」という感情も簡単に変動する可能性があると思う。

対象に対する自己の影響力の解釈によって
誘発される行動が異なる

ここまでは、対象との距離感によって、生まれる感情が異なるという話だったが、次は、人がどのように行動するのかに焦点を当てたい。

結論からいうと、発生した問題に対して人がどのように行動するのか、という問いに対しては、誤解を恐れず言えば、この世界において「自分がコントロールできる領域」と関係してくると考える。

「自分がコントロールできる領域」とは、例えば、現代社会においてであれば、マックに行ってハンバーガーを食べよう、渋谷で新しい洋服を買おうなど、私たちが、その現実につながるように意図的に行っている行為である。
一方で、自分がコントロールできない領域とは、例えば、旅行先の天気、電車の緊急停車など、自分の日常とはまた別の世界での事象が原因で発生する領域のことである

その領域と整理すると、
(a)どの領域で起こった出来事なのか
(b)どの領域で起こった出来事であると、自分が認識しているのか
によって、人は次に起こす行動が異なってくると考えられる。

まず、CASE1の場合。これは、(a)自分がコントロールできる領域において(b)自分がコントロールできる可能性のあった問題が発生したと認識しているケースである。

例えば、朝、パンを焼いているときにボーッとしていて焦がしてしまったとか、テスト前に勉強をサボってしまって点数が悪かったとか。
こうした場合は、事象に対して自分の言動を振り返る意味がある。
同じ問題を繰り返さないためには、次どうしたら良いのかと改善策を考えることができる。

次にCASE2の場合。これは、
(a)自分がコントロールできない領域において
(b)自分がコントロールできない問題が発生したと認識している
ケースである

旅行先で大雨に降られたはまさにこれにあたる。
大雨を未然に防ぐ方法は存在しないので、その問題が発生する可能性も含みおいて自分の行動を考えるはずだ。

ここまではそれぞれに上手に対処できるケースだと思うが、問題になるのはCASE3のパターン、問題の原因は自分で防げる可能性があったと誤認しているケースだと思う。
つまり、
(a)自分がコントロールできない領域において
(a')自分がコントロールできない問題が発生しているにも関わらず、
(b)自分でコントロールできる可能性のあった問題が発生したと認識していた
ケース。

そしてこのCASE3はさらに2つに分岐する。
CASE3-1は、誤認していたものの、実際には自分のコントロール外の事象なのだと認識が改まるケース。CASE3-2は認識が改まらないケースである。

前者CASE3-1であれば、以下のような認識の変化と行動を辿るはずだ。

▼最初の認識
(a)自分がコントロールできない領域において
(a')自分がコントロールできない問題が発生しているにも関わらず、
(b)自分でコントロールできる可能性のあった問題が発生したと認識していた
が、

▼認識の変化
(2')その事象の原因は、自分のコントロール領域外に存在していたと理解する

▼行動
(X)したがって、その対象と積極的に関わることをやめる
※なぜなら、自分のコントロールできない領域に原因が存在していて、それが引き金となって被害を被る可能性があるから

(Y)しかし、これからその領域に対して自分の影響を拡大していきたいから、その方向に向けて向かう
それがいわゆる、ストレッチゾーンに出ていく、ということかもしれないし、個人的には、W杯の日本対クロアチア戦は、この領域にも近かったのではないかとすら思える。

こうなってくると、もう、自分を超えた大いなる存在に、その事象が発生した理由を説明させることでしか、自分を保つことができない、という状態だと思う。

一方で、後者のCASE3-2、認識が改まらないケースは厄介だ。

▼最初の認識のまま
(a)自分がコントロールできない領域において
(a')自分がコントロールできない問題が発生しているにも関わらず、
(b)自分でコントロールできる可能性のあった問題が発生したと認識している

▼行動
(c)対象に対して自分の影響を拡大させようとする

典型的な例が、よく問題になる親子関係や会社の上司部下の関係だと思う。

親が完全に子どもをコントロールできると思っていると、子どもの成績が、自分が意図していた以上に悪かった時に叱ってしまう。会社の上司と部下も同様だ。だから少し前によく言われていたアンガーマネジメントは、ある意味、上司が部下に対して自分が保有している影響力そのものを疑う、ということも必要なのではないかと思う。

したがって、CASE3-2の場合は、認識が改まってCASE3-1に昇華されない限り、ずっと辛い世界なので、、笑
本人が、対象との距離感をマネジメントしたり、自分の影響を及ぼせる範囲そのものを疑わないと、改善しないと思う。

「好き」「面白い」だけじゃ決められない。
割り切っても良いのに割り切れないことが夢になる。

冒頭のクリエイターの彼の話に戻ると、好きでもあり面白くもあることを仕事にしているのは、本当に素晴らしいことだと思う。

特に現代社会においては、情報量の増加とその流通速度の加速、そして、経済とシステムの摩擦のアンチテーゼとして生まれたキャリアの選択機会の拡大などの波を受け、好きなことや面白いと自分が思えることを極めること推奨されるようになり、そうした風潮が彼の背中を押しているようにも見える。

私たちはきっと、人生を通して、好きや面白いということの芽を見つけてはトライして、それを繰り返しながら生きていくのだろう。でもそれって結構孤独な営みで、何度も迷ったり不安になったりする。選択肢が多ければ多いほど、個人の自由度が高ければ高いほど、その選択をしたのは他の誰でもなく自分だし、その結果として生まれた現実も、結局自分の責任だから。

そんな残酷な自己責任論に終始する世界で、逃げたくなることや誰かのせいにしたくなることなんてたくさんあって、だから大いなる存在にすがったり祈ったりするし、それはそれでも良いのだと思う。全部自分で背負い切る必要もなくて、自分のコントロールできる範囲を超えたものは追いかけない、とか、どこかで適度な割り切りも必要だと思う。

だけど、それでもやっぱり譲れないこと、割り切るに割り切れないこと、ずっと自分を追いかけてくること、こうした感覚も確かに存在する。それを割り切ったら死ぬに死ねないとか、一生後悔するとか、一生悪夢に襲われるとか。笑
それは、私の中では「好き」とも「面白い」とも同じようでちょっと違う感覚で、何か手放してはいけないものというか逃げてはいけないもの、向き合わなければならないもののような、そういう意味での怖さや切迫感も持ち合わせた感覚でもある。

「好き」でも「面白い」という感情は確かに存在してそれ自体は嘘ではない。だけど、その感情だけに人生の時間を賭けることは難しい。
それはおそらく、「自己責任論的な冷徹な自由な世界」において、「好き」「面白い」だけだと本当は腹をくくり切る理由にはならないのだと思う。
だからこそ、その中でも、諦めるに諦めきれないという領域があったら、そこは絶対に譲ってはいけない。それはきっとずっと追いかけてくる夢だから。

それに向き合うこと自体、実は自由だからこそとても孤独な営みだ。でもだからこそ、その孤独と向き合えた人だけが、自分の夢にまっすぐ向き合えていて、それを乗り越えた時に叶えることができるんだと思う。

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