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『すずめの戸締まり』はエンタメ新海誠の集大成?【映画感想】

普通にもう1回観たくなる良い映画だった。
なんなら最後の常世のシーンで泣いた。小説を読んで次はIMAXで観よう。

とりあえず初見時点での感想や疑問点、雑な新海誠に対する評論をつらつら語っていきたい。

※見たら誰でも分かるような当たり前のことをそれっぽく言ってるだけです。次に鑑賞する未来の自分宛ての自己満足メモなので優しい目で見てください。
あと、気付いたら13000字近くの長文になってしまったのでよかったら目次使って好きな所だけ見てください。

エンタメとしての完成度が断トツ

劇場でもらえた「新海誠本」、名前はともかく内容は新海誠を理解するのにとても優れた内容だった。下手したら880円のパンフレットより情報量が多い。
何より企画書を一部見れるのがいい。しかも、『君の名は。』『天気の子』の企画書も見られる。その他は本人のインタビューが大半を占める。

このインタビュー内で、「すずめの戸締まりは直近3作品の中で最もコミカルで楽しくて、最もシリアスで重い話」的なことが言われている。
私は今のところその通りだな、と思った。

本作は企画書でも狙いとされていた通り、幅広い年代に受け入れられる内容になっている。一方で、震災という重いテーマを過去一で直接的に扱ったものでもある。そのバランス感覚は素晴らしかった。
そういった意味で、今作はあの大ヒットした『君の名は。』よりも万人受けするだろう。興行収入的なことは一切読めないが。

では、なぜ重いテーマを扱いながらこんなにポップでコミカルな映画になっているのか。
私は、『すずめの戸締まり』が大衆的エンタメである理由は、主にふたつあると思っている。

ひとつは、ラブストーリーの後景化
もうひとつは、人間間の対立の無さだ。

恋愛濃度の急激な低下

これまでの新海誠映画(少なくとも私が見た「秒速」「君の名は。」「天気の子」)は、基本的な単位が男女の恋愛関係であった。
イデオロギー的にというより、単にそれが尊いものとして、ある種運命論としてそれを描くのが好きだったのだろう。(だからこそ同じように男女を描くRADWIMPSとの出会いは必然だったのかもしれない)

実際、新海誠は『君の名は。』を指して「ふたりの赤い糸」的な映画だと表現している。そして、49歳になった今となってはそういった映画はもうあの頃と同じ強度では描けない、とも。(いや、40歳でアレ描けるのも充分すごいけどね)

彼が自覚している通り、今作のカップル、すずめと草太は運命論的な結びつきとしてはあまり描かれない。
一応、出逢いの場面ですずめが「私、あなたとどこかで会ったことがあるような」と呼びかけるシーンがあるが、これはすずめが4歳の頃に常世に迷い込んだときの話だと思われる。
ここで、4歳の小すずめは16歳のすずめから椅子を授かり、遠目に草太も見ている。この常世の場面こそがこの物語の「起点」であり(実際にこの回想から映画は始まる)、しかしそれは男女関係として始まるのではなく、過去と未来の自分の出会いという出来事から始まるのである。

『君の名は。』と比較すると、この差は歴然である。
この作品では、瀧と三葉が3年前に電車で出会い、組紐を渡す場面が、物語の起点になっている。その出会いがあるからこそ、物語冒頭、瀧は知らず知らずのうちに涙を流して目覚めるのである。そして、2人が東京で再び出逢うところで物語は終わる。

この『すずめの戸締まり』におけるラブストーリーの後景化は、他のテーマが前景化してきたことによる結果だとも言い換えられる。
そのテーマとは、冒頭でも挙げた通り「震災」である。これもインタビューで語られているが、3.11から11年経ったからこそようやく直接的に言及することができたもうあの震災を歴史としてしか知らない世代がいるからこそ、その意味があると思えた、といった話がある。
実際、『君の名は。』公開が2016年。以降新海誠は常にあの震災を考えながら、自然災害を描いてきた。自然の理不尽さ、残酷なまでの美しさ、それを乗り越えるのか、受け入れるのか……。
それを描くことでこれまで迂遠にしか扱うことのできなかった3.11を、遂に直接手を伸ばすことができたのだな、と私は見終わった時に思った。

だからこそこの映画はとてもシリアスで───例えば、燃える街やすずめが漏らす「この町が…綺麗?」という言葉などに見られる───生々しい残酷さを伝えてきて、私は3.11を小学生ながらにテレビ越しで見ていたにもかかわらず、初めて震災と向き合ったような感覚にさせられた。(もちろん、充分な向き合い方ではないとは思う)

だからこの物語は、「震災で母親を亡くした4歳のすずめを、16歳のすずめが「あなたは大丈夫」と語る」という常世の場面で始まり、そして終わるのだ。
新海誠がインタビューでも「特定の誰か(恋愛関係)によって救われるのではなく、未来の自分によって救われるというのを目指した。それは絶対に嘘でありえないから」と言っているように、この作品は恋愛関係を運命論的に(新海誠風に言えば赤い糸的に)描く必要性がそもそもなかったのである。

だから、実のところ草太がすずめをどう想っているのか、逆はどうなのか、それは恋慕なのか憧れなのか尊敬なのか、云々は新海誠自身さほど関心がなさそう。(ちゃんとは決めていないと自身も語っている)

また、この恋愛の後景化は、意識しているかしていないか分からないが、時代の流れを綺麗に反映している。もはや現代の多くの人間にとって、「恋愛関係によって救われる」という物語は、当たり前のコードではない。
肌感でしかないが、運命論的異性愛はエンタメにおいても求められなくなってきた感じがする。(スパイファミリーなど昨今の流行を見るに)
そういった時代背景も込みで、今作は万人受けするだろうなと思った。

逆に言えば、『天気の子』では主人公・帆高の家出の原因は不自然なほど描かれない。物語終盤で地元に戻された後の話も驚くほど無視されている。こうした恋愛以外のテーマを極力排除し、男女という単位に注目してきたのがこれまでの新海誠作品だったのである。

そうだ。今回はRADWIMPSの挿入歌が殆どないということで、賛否どちらもの反響を目にするが、それも運命論的な恋愛濃度の低下の必然的な結果なのだろう。「Tamaki」はともかく、RADの書き下ろした主題歌は依然として運命論的な恋愛模様を描き続けている。逆に言えば、ラブストーリーを新海誠に求める層の需要に応えるように、恋愛要素を主題歌で補完しているという見方もできるかもしれない。

一方で、恋愛的な「イタさ」「青さ」が薄まったような?

これ以降は妄想だが、だからこそ、今作は男女の役割を逆転できたのかもしれない。前2作は一貫して、男性が主人公であり、その目線で描かれた。そして恋に堕ちる相手方の女性は、代々受け継がれる(ある種民俗学的な?土着的な?)宿命を持つ者として描かれる。三葉も、陽菜も、ヒロインは自然を司る神と人間をつなぐ中間者的な役割だった。
まとめると、「神との中継役であるヒロインに、恋愛関係を根拠に干渉する(巻き込まれる)一般人の主人公」という構図が『君の名は。』『天気の子』には一貫して横たわっていたと言える。

しかし、今作『すずめの戸締まり』ではその役割が男女逆転している。

すずめ(女性─主役─人間)、草太(男性─対役─中間者(閉じ師))

それに伴い、女性はともかく男性のキャラデザは劇的に変わっている。Twitterの反応を見るに、女性人気も高まってた。
こうした新たな挑戦(別にエンタメとしては何も新しくないが、新海誠としては実験的)は、恋愛から些か遠ざかった今作だからこそだったのかもしれない。そもそも、元々は女性ふたりのロードムービーという案もあったようなので、恋愛が物語の主軸ではないのは明白である。よってメインキャラの性別は自動的に自由度が高まるのだ。

それはともかく、この恋愛の後景化と男女逆転によって、新海誠作品特有の「青さ」「イタさ」「苦さ」みたいなものは、かなり捨象されているような気がした。これはかなり主観だけれど。
そして、それが良いのか悪いのかは私には判断できないけれど。

新海誠らしさというか、そのクサさが、今作ではかなり薄れているような気がしたのだ(ただ、唯一たまきさんに片思いする岡部さんは、とても痛くて「らしいな」と感じた)が、本人から言わせればそれは違うと言うかもしれない。
何にせよ、私の主観としては新海誠らしさを突き詰めてできた作品というよりは、シンプルにエンタメとしての強度を高めてきた作品というのが『すずめの戸締まり』の雑感である。

その一因として、どのキャラクターも観客に嫌われる要素を極力排除しているような感じがあった。
瀧も、帆高も、恋愛関係やヒロインに盲目的であるために、それが時に周りに迷惑をかけたり、対立を生んでいた。

だか、今作『すずめの戸締まり』に登場する人間はみな基本「いい人」である。
これが作品を大衆的たらしめ、観客のストレスを減らしているもうひとつの理由なのではないだろうか。

理不尽なのは人外だけ

人間がみないい人ならば、では物語のプロットを動かす「敵」は誰なのか。
それは、常に人間ではない何かである。

言うまでもなく、本作で悪役を担っていたのは、要石であったダイジン、そして災害の具現化としてのミミズである。
すずめが道中で出会う女性たちは、もはや不自然なまでに優しく、性善説が過ぎるくらいに描かれていた。(年齢がバラバラに配置された彼女たちは、「未来のすずめ」としての役割を果たしている)

『君の名は。』では、瀧の飛騨地方まで旅に出る突飛な行動に、その先輩や友人は彼の本気さを感じながらも、その異常なまでの執着に微妙な反応をしていた。町長である三葉の父親は明確に二人に対立する相手として描かれていた。『天気の子』ではもっと分かりやすく、大人と子供の対立関係を描き出していた。
しかし、『すずめの戸締まり』ではそういったものが綺麗さっぱり取り払われている。「未成年が家出をした」という意味ではすずめも帆高もやっていることは同じはずなのに、すずめは行く先々で必ず暖かく迎えられ、フェリーも(多分)無賃で乗っている。家出を咎められ、児相に追いかけ回され、未成年だからとフィクションらしからぬ現実の論理でホテルを追い払われた帆高とは雲泥の差である。

とはいえ、「未来の自分が過去の自分を救う」という本作のクライマックスに向かうには彼女たちは優しくなくてはいけないのだ。この前半があるからこそ、「あなたは光の中で大人になっていく」というセリフが輝くのである

唯一、この作品で対立めいたものがあるとすれば、それは主人公すずめと育ての親たまきの対立だろう。
でも、この対立は対立と言えるほどのものでもない。前2作までの対立とは決定的に質が異なる。多分。

少なくとも私は、二人が衝突するシーンでストレスを感じなかった。どちらかを嫌いになるような描かれ方がされていなかったように見えた。
それは単に私の感情移入の問題か、もしくは親になった新海誠がたまき=保護者としての大人を、子供を阻む役割という面だけで描かなくなったのかもしれない。(実際、一番たまきの目線が自分に近いと語っていたが)
子を持つ親御さんが見たら、もしかしたらすずめにイライラしたりするのかな。この辺は正直まだあまり詰められていない。

このシーンの考察を難しくしているのは、サダイジンの存在が噛んでいることもある。サダイジンがたまきにどのように、そしてどのような理由で干渉したのかは定かではない。
なので、たまきがなぜ「うちの子になろうって言ったじゃない」に対し「そんなの覚えてない!」と子供のような嘘を言うに至ったのか、私は正直理解できていない。(それまでのことは本音だとしても、そこについては明らかに「言い過ぎ」である。)誰か教えてほしい。

11/17 追記
書き終わって思ったけど、たまきとすずめの対立は、そもそも対立になっていない。前作までの平行線的な分かり合えない対立ではなく、彼女たちはお互いを既に思いやっている。すずめは、ずっとたまきの時間を奪っていることを気にしていた。だから作ってくれた弁当も申し訳なくて浮かない顔をするし、遅くなると聞くと「デート?」と期待する。たまきも、三葉の父親のような大人の論理を持ち出すことはせず、一応は何も聞かずに車に乗り込む。血のつながった家族ではない二人は対立していたというより、遠慮し合っていたのだ。だから、本音をぶつけることで簡単にそれは解決する。二人の間には、もともと絆があったのだから当然だ。

一方、「そんなの覚えていない!」の理由に関してだが、記事を書き終えてから色んな感想、考察を見ているうちにある程度示唆的なものに出逢った。
それは、「たまき─すずめ」の関係が「すずめ─ダイジン」の関係とパラレルであるというものだ。すずめも、幼少期にたまきに言われたように「うちの子になる?」とダイジンに言う。そして物語中盤にもなれば、すずめはもうそのことを覚えていない(それどころじゃない)。
これはほぼ確実に意図的に演出された対比だと思うが、では結局「なぜサダイジンがそれを言わせたの?」という謎は分からないままである。サダイジン、何も分からん。

ダイジンは赤ちゃんだとして、じゃあサダイジンは?

というか、全体的にダイジン、サダイジンの存在はかなり読解が難しい。
ダイジンについては特に、一回見終わった時点では急激な好感度上昇の展開にあまりついていけなかった

ダイジンは最初、「草太を椅子にする」という観客からヘイトを買う役割を担う。その後も、度々「ひとがしぬよ」「草太はもう人じゃないよ」などとすずめを煽り、ヘイトを集め続ける。その後、すずめがダイジンを罵倒することで、「すずめ、ダイジンのこと好きじゃなかった…」と急に哀しそうに姿を消す。そしてクライマックス、すずめが草太の身代わりになろうとするのを見て、自分が要石に戻ることを了承する。

このダイジンの一連の不可解な行動は、「すずめを親だと思い、その承認を希う赤ちゃん」のようなものだとすればある程度は納得できる。
瘦せこけたダイジンはすずめから餌をもらい、「うちの子になる?」と言われる。この後のダイジンの行動原理はこの一言がすべてである。草太を椅子に変えたことも、「すずめの子」になるための無邪気な手段でしかない。
実際、草太は直前にすずめから手当を受けている。これは明らかに親子の図式を当てはめている。親子という二者関係の承認を求める赤ちゃんにとって、他の子どもの存在は承認を揺るがす「じゃま」なものでしかないのだ

そして、「すずめの子」になる上での障害が要石の役割だったため、それを邪魔者である草太に託す。しかし、クライマックス、すずめはその役割を自ら引き受けようとする。草太のいない世界が恐いと言って。
そこでダイジンは、自分が「すずめの子」になれないのだとようやく悟り、自分が要石になることを引き受けるのである。
「要石の役割を誰かに預けても、それをすずめが身代わりになろうとする。だとしたらどうやっても、自分はすずめの子にはなれない」という論理である。
ここから、自分、すずめ、そして草太(第三者)という最小限の関係図しか見えていないダイジンのバイアスがあることが分かる。
ダイジンは「すずめが草太を大事に思うこと」くらいは理解できても、「第三者の中で草太が特別なのだ」という認知にまでは至っていない。もし至っているならば、「草太だとすずめが悲しむんだね!じゃあ他の人を要石にするね!」で解決するからである。

……などと色々鑑賞後に考えてみたけれど、ではなぜ次にミミズが出てくる場所を案内する必要があったのだろう?(すずめの子になることとどう関係するのか?)
そして、草太の祖父のもとに現れたのはダイジンだったのか?それともサダイジンだったのか?(一緒に見た友人とは意見が割れた。自分はサダイジンかなーっておもた)
というかなんで二つ目の要石=サダイジンは抜けてしまったのか?ダイジンが開けた訳ではなかったんだよね?

何より、サダイジンの行動理由については殆ど明かされない。
しかし、芹澤の「こいつらよっぽどすずめにしてほしいことがあるんじゃねーの?」という言葉に対し、サダイジン(とダイジン?)が「そのとおり」と返事をしたことからも、二人(二匹?二柱?)はすずめに対してなんらかの目的があったのは間違いない。
友人はその理由を「異常な状態になってしまった常世を元に戻すため。緩くなった要石を再び封印し直すため」だと言っていたけれど。。

でも確かに、人が神と契約を結び直す話という風な解釈をすることはできそうだなーと思いつつ。もう少し考えないとまとまらない所ではある。

クライマックスでも、草太の詠唱によってサダイジンは要石になることを了承することになるが、サダイジンはその前からミミズを食い止めようと戦っている。この辺の行動原理もやはりよく分からない。
いずれにせよ最終的には、大いなる自然に立ち向かうために、神と人が手を取り合うような形になっている。

だから、この映画はおおよそ人にヘイトが向くのではなく、残酷な自然にそれは向けられ、「どうしようもない悲劇を人が乗り越える」という、ある種クリシェ的な感動のコードをなぞったようにも受け取れるのである。(あるとしても、ダイジンやサダイジンの行動に納得がいかずヘイトが向く可能性くらい)
この対自然的なプロットと先述した恋愛の後景化が、『すずめの戸締まり』を大衆的に見せている大きな理由ではないだろうか。

ちなみに要石の設定などについては、新海誠が語っているレポがあったので、ぜひ参照されたい。

何より一番ファンタジックな作品だった

それなりに色々考えていた論点は言い切ったので、あとは余談として思ったことを箇条書き的に書き留めておく。

本作は絵的にも、設定的にも、一番ファンタジー色を感じた作品だったように思う。だからこそ、音楽はRADだけでなく、陣内一真さんを迎えた新しい布陣で臨む必要があったのだろう。

『天気の子』でも『君の名は。』でも、(それがアカデミックに正確かはともかく)民俗学的で土着的な下地を設定にすることで、入れ替わりや天候を司るといったファンタジックな要素があっても、どこか現実と地続きのような雰囲気を演出していた。
しかし、本作は自然現象をファンタジックなものでメタファーするその構造自体は変わらないものの、明らかに説明すべきことが増えていた。

草太の詠唱や鍵、後ろ戸だけなら、口噛み酒的なアイテムとして対してコストは変わらなかっただろう。これはファンタジーと現実を結ぶ儀式的な役割を果たすから必要最低限の要素である。
しかし本作はこれに加えて、二つの要石、キスによる目覚め、ミミズの成分などなど。
とても気になるほどではなかったが、一瞬「んん?」みたいに引っ掛かるこまごまとした要素が多かった。
例えば「ミミズの表面は不安定だから離れるな!」的なシーンも、「え、草太は大丈夫なん?てかなんで近づいてたら大丈夫になるの?」みたいな疑問がちらついたりとか。

これについて、ハレとケの概念でもって説明している面白い記事があったので紹介する。動物の二面性については「本当か~?」とは思うけれど()

そういう意味で、今作は史実としての震災に根差しながらも、(むしろそれゆえに?)非常にファンタジックな要素が多く散りばめられていた映画だったなーと思うのでした。

それは見る人から見れば、「説明不足」だったりするのかもしれない。なんでもかんでも説明する必要は個人的にはないと思うが、しかし一方で説明を放置するということは、本筋とは関係ないところで観客の気を引いてしまうということでもある。
そのバランスの問題は、もしかしたらファンタジーというジャンル全体にまたがる一大問題なのかもしれない。だとすれば、ファンタジーを普段全く読まない私の手には負えそうもない。


以降、11/16 15:00追記

恋愛によって人間中心主義的な結末になってない?

そういえば、ひとつクライマックスに関して気になったことがあった。
それは、要石になった草太をすずめが自己犠牲も厭わずに救い出そうとするシーンについてである。

すずめは、草太の祖父と会う時、「死ぬのは怖くないのか?」と尋ねられ、「死ぬのは怖くありません」と答えていた。4歳で震災を経験し、多くの人が、そして何より母親が死ぬのを目の当たりにした彼女は、生死が隣り合わせなのだと実感し、そのような死生観が出来上がった。そして、怖いのは「草太のいない世界」だと彼女は言うのだ。

この口ぶりからして、「草太と一緒に生きる/死ぬこと」はすずめにとって重要ではない。少なくともこの時点では、「草太が生きること」が大事であり、そこで自分の生死は考慮されていない。

しかし、草太にキスをして要石を引き抜かんとする時、草太は「死ぬのは怖い」「生きていたい」と吐露し、それに呼応するようにすずめも「死ぬのは怖い」「生きたい」と涙を流す。
この心情の変化が私にはあまり理解できなかった。草太が生を望むのは分かる。教員の夢や芹澤の存在など、彼の生きる理由は走馬灯のように示されるので理解出来る。
しかし、ここで急にすずめの死生観が覆されるのはあまりに唐突ではないか?と私には思えた。

それを友人に話すと、その変化のトリガーは(東京上空で)草太が要石になる瞬間の「あなたに会えたから」「あなたに会えたのに」という言葉だと言われた。
しかし、その後に祖父のもとに訪れて先の「死ぬのは怖くない」発言をしているのでこれは時系列的に矛盾している(と、今気付いた)。

まぁタイミングはどうあれ(仮に草太が復活するタイミングだとしても)、草太の想いを知ったことで「私もやっぱり生きたい」と心変わりするのは、あまりに都合が良すぎないだろうか?

この解釈だと、結局恋愛の成就によってすずめは生への希望を取り戻す形になり、テーマが大きくぶれる。
それに、ダイジンはすずめの自己犠牲精神によって要石になることを了解するのに、そのことによってすずめは自己を犠牲にしなくて済むという、ある意味では欺瞞的な因果関係になってしまう。
結局は神が神の役割を果たす、あるものが「あるべき場所」へ戻されるという、人間中心主義的で都合のいい結末にも見えるのだ。

なので、このすずめの心情の変化については別の仕方で解釈する必要がある。としか今のところは言えない。
そもそも、「死ぬのは怖くない」という発言こそが嘘で、潜在的な生への渇望がクライマックスになって何らかの理由で思い出された、とか。

この辺も小説版を読むなり、2回目を見るなりして考えたいところである。

「この街が…綺麗?」の意図とは

あと、気になったのは先にも少し触れたすずめの台詞。
具体的には芹澤の「ここ(被災地と思われる東北のどこか)ってこんな綺麗なところだったんだ〜」という台詞に対する応答としての「ここが……綺麗?」である。

このシーンで分からないのは、「これを言ったすずめの心情」と「これをすずめに言わせた新海誠の意図」のどちらもである。

私は最初見た時、このシーンは被災地(というより故郷)の再肯定なのかなあとなんとなく思った。
田舎の人が田舎を嫌い、都会に無邪気に憧れるように、都会の人が都会を嫌い、無邪気に田舎に憧れるように。故郷の良さというのを時に人は等閑視してしまう。
そういった意味で、(おそらく東京側の)芹澤と、(田舎育ちの)すずめが対比されているのかなと勝手に当てはめてしまっていた。

しかし、これは多分違う。
すずめはこのシーンで芹澤の台詞に対して「信じられない…」といった、若干大袈裟な程に驚いた表情している。驚いたよりも、ショックを受けた、といった方が近いだろう。

そのため、ここで伝えたかったメッセージはむしろ「震災の残酷さ」ではないだろうか。
そもそもなぜすずめは東北の景色を「綺麗」に見えないのだろうか?
それは彼女にしかミミズが見えないといったファンタジックな理由ではない。そこで生まれた彼女は、そして直に震災を経験した彼女は、その復興しつつある土地に「失われたもの」「失われた人」「破壊の跡」を見てしまうからである。
物心がついていたとは思えないが、震災前の生活や街並み、人々の活気の記憶を持つすずめは、また1から積み上げんとする風景を減算的に見てしまうのではないだろうか。

しかし、この他の解釈も頭を過ぎった。
それは「地方の災害に対してどこまでも無自覚で無神経な人々に対する批判」という側面である。

そもそも、「綺麗」とか「美しい」とかいう言葉には、ある意味で傍観者的な側面がある。
10年以上にわたって、故郷を復興し続け、毎日を必死に生き抜く人々の営みは、確かに美しいと言えるかもしれないけれど、それを傍観者が言うことには何らかの暴力性や搾取を孕んでいるように思える。
傍観者が「美しい」と軽々しく口にした時には見逃されている、当事者の苦しみや痛み、不安がそこにはあるからだ。
逆に言えば、すずめにはそれが見えた。このように解釈することもできよう。

だけど私がなぜこの解釈を採用しなかったかというと、すずめの言い方には少なくとも批判や怒りの含意が見られないこと。
なので、私は別に新海誠も批判したい訳じゃなく、ただ被災者の負った傷を表現したいのかなと思ったのだが。

今改めて考えてみると、新海誠は別に傍観者を批判しなくとも、ただその無自覚な残酷さを描写したかったという可能性は全然あるな、と。
実際『君の名は。』でも、瀧はわずか3年前の大事故をすっかり忘れている。しかもそれを露悪に描くのではなく、淡々と、人間の当たり前の姿として、描くのだ。

何にせよ、この「綺麗?」というシーンはプロット上はさしたる意味を持っていない。だからこそ、ここには新海誠が伝えたかったメッセージがあると考えた方が自然だと思う。

こちらも次回までの課題としたい。
また2回目鑑賞後に、新しくnoteをまとめたいと思う。




以降、11/17 追記

そういえば感想を書いていなかった

自分用メモのくせに体裁を気にして評論っぽいものを書こうとしすぎた気がする。素朴な感想もちゃんと残しておこう。

常世のシーンで泣いた

冒頭でも言ったけど、最後の常世のシーンは本当に良かった。
単純に冒頭の回想で出会ったのは未来の自分だったのか、全ての時間が折り重なるという常世の設定はこのためだったのかという驚きと解決感も気持ちよかった。そして綺麗に廻る星々の下で、「あなたは光の中で育つ」というセリフがいっとう際立っていた。
また、ここで泣けたのは、あの黒塗りの日記帳、燃え盛る街、数々の「いってきます」「いってらっしゃい」を見たからだろう。あの災害の痛みを追体験したからこそ、それを乗り越えるすずめが尊く映る。

たまきさんとの自転車シーン

たまきさんとの対立は、芹澤の車が壊れることであっけらかんと終わる。
そしてたまきさんはすずめと二人乗りするなかで、「さっき言った言葉が、すべてじゃないからね」と背中越しに伝える。
このセリフも大変よかった。そしてこれを境に、すずめは神様のことも、好きな人のことも、何も包み隠さず話すのだ。
(よく考えたら、なんでダイジンたちは芹澤やたまきさんの前で喋ったんだ?あれは例外的なことだと思うのだけれど……)

ギャグのクオリティが全体的に高い

なんか「新海誠ってこんなに微笑ましいギャグ書けたっけ?」ってなった(失礼)
今までの作品の男女の会話って、もっと青春的というかにやけてしまうような痛々しい感じだった気がするけど、今回は親世代も微笑ましく見られる感じの会話が多かったような。
特に面白かったのは、子守のシーンとか。喋ってしまった椅子の草太に対して、すずめが「最新のAIなんだよ」と苦し紛れに子供に説明するが、それによって子供が「草太、音楽流して!」と注文し、すずめが「そんなに賢くないから!」とかばう。当然、草太は「なんだと!?」と怒る。
うーん、面白いし微笑ましい。なんなんだろうな、すごく自然に笑えたのがすごいというか。あくまで日常的でささやかな1シーンを切り取った感じで、とても良かったです。
当たり前だから言ってこなかったけど、この映画は「日常を尊ぶ」ための物語だからね。

東京上空での演出が好きだった

演出としてゾクッてしたのは、「東京上空」に巨大ミミズがうねうねするところ。
そこでミミズが東京を覆うおぞましい光景から、一瞬すずめ以外、つまり一般人が見た普通の光景に切り替わる。
巨大地震が今にも起きようとする時も、普通の人々にとっては何も変わらない日常を過ごしている。ご飯を食べ、働き、子供のことを思っている。
そして再び、ミミズが見えるすずめの視点に戻る。

この切り替わりの演出が、音楽も相まって凄く印象深かった。ここで流れる「東京上空」というサントラめっちゃ好き。アポカリプス感が凄い。

とにかく、次回作が楽しみ!

巷ではエンタメ三部作とか、災害三部作とか言われている『君の名は。』、『天気の子』、そして今作『すずめの戸締まり』。
40代の通奏低音と語る「3.11の震災」に向き合いながら、新海誠はこの三部作を制作してきた。私は今作がその到達点のような印象を受けた。
震災と向き合うという問題に限って言えば、前二作はこれを描くためにあったのではないかと思うほどである。

そういえば、新海誠も心理学におけるトラウマの受容段階の話をしていたっけ。震災を乗り越えるためには、やはり『君の名は。』『天気の子』とステップを踏む必要があったのである。もちろん現実における「被災」は今もこれからも続いているけれど、作品としては今作で完成なのだと思う。

だからこそ、新海誠はもう「震災」を描かないような気がしている。少なくとも、一旦離れると思う。
とはいえ、別のカタチで災害を描くことはこれからもあるかもしれない。しかし、それはもう震災のメタファーとしては登場しないのではないか。

これは単純に私の願望だが、新海誠にはこのいつまでも終わらないコロナウイルスという災害を取り込んだ映画を描いてほしい。『すずめの戸締まり』の企画書を書いたのがちょうど2020年春。ギリギリこの疫病はストーリーの原型には反映されていない(エッセンシャルワーカーに対する敬意が感じられる台詞もあるので、影響を受けながら作っていった面もあるかもしれないが)。
私はこのコロナウイルスを経験した新海誠の自然観が、人間観が、セカイ観が、どのように変化したのか知りたい。
とはいえ、たとえ疫病のメタファーとしての何らかが登場しなくとも、否が応でも新海誠が感じる今の時代の空気というものは作品に反映されるだろう。

一方、別の関心もある。
noteやネット記事では、新海誠を細田守や宮崎駿と並べてアニメ業界を語ろうとするものが多く散見される。
それも仕方ないくらいに、彼は今回大衆的でジブリ的とも言えるような家族みんなで観られるエンタメ映画を作ってきた。そこには『天気の子』の結末のような危うさも、『言の葉の庭』以前のほろ苦さも殆ど見られなかった。
私はこの作品ひとつで「よし!新海誠の路線はこれで決定!」と雑に判断するのは早計だとも思う。
むしろ揺り返しで、ひどく賛否が分かれる結末を持ってくる可能性もあると思っている。

正直なところ、私はどっちでもいい。
私はこの作品で何より新海誠という人物にとても興味を持った。
なので、彼がどういった心境でどの道を選んでいくのか。
ただそれがとても楽しみなのである。



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