初めてフェティッシュイベントに行った時の話

 イベント会場に足を踏み入れたとき、私は一冊の絵本を思い浮かべていた。人間たちの寝静まった夜更けに、ひそやかに起きだしてきた怪物たちが賑やかなパーティーを開くいう物語。吸血鬼にミイラ、フランケンシュタイン、さまざまな怪物たちが色鮮やかに描かれたある一ページは、なかでも一番のお気に入りで、幼い頃の私は暇さえあればそのページを眺めていた。
 薄暗い会場内では絵本さながらの怪物たちがうろついていて、ブルーやピンク、真紅に染められた頭髪を振り乱した彼等の熱狂的な姿に一瞬目が眩む。私の一歩前を行くハンナが「すみません」と呟くと、怪物たちが一斉にこっちをふりむき、人ひとりがやっと通れるくらいの隙間を空けてくれて、頭周りよりも細いと思われるくらいコルセットでウエストをきつく締め上げた人と、顔の表面が抉れていくつもの眼球が飛び出している特殊メイクを施された人との間を、恐るおそる通りながら、更に奥へと分け入ってゆく。
 十年来の友人であるハンナが人体改造にはまりだしたのは、半年くらいは前のことだった。当時関係のあった男に人体改造バーへと連れてゆかれたのをきっかけに、興味を持ちはじめたのだという。好きになった男の趣味に影響されることの多かった彼女は、男と別れてしばらくすればなにもなかったかのように忘れさってしまっていたから、この趣味もそう長くは続かないだろうとの私の予想を裏切って、会う度に増えていくピアスは既に歳の数を超えてしまっていたし、この間などは、ローライズのパンツからちらりと見えた細い腰に蓮の花が咲いているのを発見し、見慣れていたはずの彼女のコケティッシュな裸を、今では少しも思い出せなくなってしまっている。
 これまでに何度か人体改造系のイベントの誘いをうけては、気の小さな私はこれまで全く接点のなかった世界へと踏み入ることに躊躇いを感じて断ってきたが、それでもピアスの数が増えるのと同じように広がっていく彼女の交友関係の一端を見てみたいという好奇心の方が勝って、また、今回のパーティーのテーマはハロウィンだから普通の人も来るし、そこまでアブノーマルではないよ、という彼女の言葉に背中を押されるようにして、ここまでついてきてしまったのである。
「とりあえず、全体まわってみる?」
 ハンナは私の震える手を引いて進みながら、街中で出会せば間違いなく変質者扱いされてしまうであろう人たちと、なんということもなく挨拶を交わす。高そうなウェディング・ドレスのところどころを血糊で染め、目や口からも真っ赤な体液を垂らす呪われた花嫁。極彩色のラインストーンを夥しく配した王冠のように豪華なつけ睫毛を盛った、近未来的なイマージュを連想させるサイバー系の衣装を身に纏った人々。特注のシークレット・ブーツを履き、突き出た額や縫い痕を特殊メイクで再現したフランケンシュタインの怪物。私はまるでさまざまな時代、さまざまな様式の展示物に囲まれて美術館のなかを彷徨っているような心持ちで、次々に現れては消える彼女の知人たちを無遠慮に眺めていた。今日のこのパーティーのためにわざわざ購入し、催しのテーマに照らし合わせてコーディネートしたのであろうコステュームを着飾った人々の前では、精一杯洒落込んできたつもりでも、明らかに〈普通〉の格好をした自分が逆に恥ずかしくなってくる。

 フロアは大きく二つに分かれており、一方はダンスルーム、もう一方はショーや人体改造を体験するためのプレイルームになっていた。
「今、食塩水注入体験してるみたいだよ」
 その方を見遣ると、五、六人の男女が横に並んで腰掛け、その背後にはそれぞれ点滴のようなものが吊るされている。そこだけ切り取れば、病院でみかけるような光景だが、点滴のチューブは体験者の頭部へと伸び、針は左右の顳顬辺りに刺されていて、その部分はだんだんと鬼の角のような膨らみができていく。
「……これ、なんのためにやるの?」
「食塩水の注入はもっともパフォーマンス性の高い人体改造なんだよ。このくらいの量だったら半日以内には体内に吸収されて元通りになるし」
 それを聞いて軽い安堵感を覚えた私は、もっと近くで見てみたいと、観衆を掻き分けていった。アルコールを片手に談笑しながら観ている人々のなかで、深刻そうに眉根を寄せて凝視している私は珍しかったのだろう、体験者のうちのひとりと目が合ってしまう。そのまま目を逸らしてしまっては、こちらに人懐っこい笑みを向けてくれた彼女に対して失礼な気がして、私はここへきてはじめて、ハンナ以外の人間に自分から声をかけてみた。
「……痛くないんですか?」
「全然痛くないよ。普通の点滴って感じ」
 ロック系ファッションの人が着ているような鋲ジャケットを髣髴とさせるほどにたくさんのピアスが埋め込まれた彼女の顔は、過剰な装飾さえなければきっと綺麗な部類に入るのだろう。しかし注入後、額に聳える二つの瘤を鏡で確認して、
「やばい! 超可愛い!!」
 と、恍惚の叫び声をあげる彼女を見たとき、この不思議の世界では一体なにが美しくてなにが醜いのかすら、既存の価値観では計り知ることはできないのだと悟った。

 入場時には気づかなかったが、薄暗い照明や不可思議な世界に少しずつ慣れてきた今、ダンスルームとプレイルームを繋ぐ廊下にいくつかのソファが並べられているのがわかる。酔いがまわり気分も昂揚してきた人々は、互いを密着させて解け合うように身体をソファに埋めている。入り口を背にして左がダンスルーム、右がプレイルームなら、その二つを繋ぐこの廊下は、人々がふれあうためのコンタクト・プレイスとでもいえるのだろうか。なんとはなしに座っている彼等を目で数えるように歩いていくと、二人の男性の膝の上に跨がり、それぞれと戯れている女性が目に入り、思わずハンナの手を握っている左手に力が籠った。私の視線に先に気づいたハンナが、彼等の方へと歩を進めたので、更に愕然とする。
「あっ、ハンナちゃん! ひさしぶり!」
 女性は歩み寄る私たちに気づくと悲鳴に近い声をあげ、自身の胸や太腿を尚も触ろうとする男どもを軽くあしらいながら立ち上がった。深い切り込みのある胸元からは豊満な乳房が溢れだしそうにし、きちんと揃えられた脚は覚束ないくらいに細い。
「すごく綺麗ですね。お仕事はモデルかなにかですか?」
「AVやってる。観たことないかなあ、私の射精シーン、結構有名なんだけど」
 唖然とする私の横で、ハンナは可笑しそうに顔を緩ませている。彼女はしばらくハンナと顔を見合わたあと、実は私、ニューハーフなの、とお茶目に告白した。私は彼女の全身を舐め回すようにしたあと、からかわれているのだと訝る。
「ほんとほんと。このスカートの中にちゃんとおちんちんあるんだから」
 そう言いながらミニスカートの裾を持ち上げてひらひらと揺らしてみせた。右側で欲情している男が彼女の腿を擦りながら、その手をだんだんとスカートのなかへと侵入させていくのを、私は放心しながら見詰めている。
「手術を受けようと思ったことはないんですか?」
 そう尋ねてすぐ、不躾な質問だったかもしれないと反省したが、彼女は気の抜けるほどあっけらかんとしたまま答えてくれる。
「昔は考えたこともあったけど、今は別にいいかな。おっぱいもおちんちんもあるのなんて私くらいだしね」
 そう話す彼女はたしかに、その場にいる誰よりも美しく、艶かしい。その絶対的な美の前では、性別など取るに足らない問題であるような気にさせられる。
 すっかり打ち解けて彼女の胸のビーズクッションのような柔らかさを体験していると、多くの人たちが一斉にプレイルームの方へ移動していくのに気づいた。通り過ぎる誰かの言葉を耳にしたのか、ハンナははっと顔をあげ、
「サスペンションだ!」
 と叫んだかと思うと、再び私の手を掴んで皆の向かう方へと駆けていく。

 ライトで照らしだされたステージにはボンデージ姿の恰幅のいい女性と、先刻軽く挨拶を交わしたハンナの知人の女性が立っていた。知人の女性は大きく背中の開いたドレスを着ていて、後ろを向くと肩甲骨の浮き出た肉の薄い背中に塗られたラメに反射した照明が眩しい。ボンデージ姿の女性は釣り針のように先の曲がったワイヤーをとりだして、躊躇うことなくその背中に二本、突き刺した。ワイヤーはロープに繋がっていて、そのロープは専門の滑車のようなものによって、ゆっくりと引っ張り上げられていく仕組みである。
 吊り上げられて私たちの頭上で宙ぶらりんになってしまった彼女は、まるでUFOキャッチャーに摘まみ上げられたぬいぐるみのようだ。ときどき自分で弾みをつけるようにして回転し、引き攣った背中の皮はワイヤーの所為で山型に伸び上がり、釣り針の食い込んだ傷口に血が滲んでいるのが見える。ここから表情こそは見えないが、頭や四肢を広げて躍動的に舞う様からは、痛みなど全く感じてはいないように思えた。
 ショーを観終えて、私は自分の身体が興奮で厚く火照っていることに気づいた。ふと隣にいるハンナを見遣ると、彼女のまだ夢の醒めきらないような陶然とした瞳が煌めいている。

 切っても切り離せないのに、決して意のままにはならない私の身体。身体は〈私〉を封じ込め、拘束するものだとばかり思っていた。小学二年生のあの日、私の足は動かなくなった。登校中、急に踝から先の感覚がなくなって力が入らなくなり、しばらくして杖をつくようになった。病状は重くなり将来は車椅子と言われていたが、高校にあがる頃、突然進行が止まり、辛うじてそれは免れたのだった。ある日、目が覚めると足の感覚が戻って庭を自由に走りまわれるようになっていたとしたら……。そんなふうに何度夢想したことだっただろうか。それも過去の話となった今でも背後に纏わりつくすれ違う人々の投げる好奇のまなざし。自ら選んだわけでもないこの身体を、〈私〉そのものとして扱われることへの不快感。いつまで経っても自由にはならないこの身体を持て余す私は、次第に足を悪くする前からの知り合いとそれ以降の知り合いとを分けるようになっていった。私に比べたら、彼等のなんと自由なことだろう、化け物と後ろ指を差されることを恐れずに、自分のありたい姿をどこまでも追い求めていく。……

 会場スタッフが鈍重な鉄扉を開けると、白んだ早朝の光が闇の領域へと侵入してきた。私たちは陽光を浴びると溶けてしまう怪物さながら、その眩さに顔を顰める。スタッフに急かされながら渋々光の世界へと戻っていく。闇の世界では完璧だった怪物たちも、早朝の光のもとで見れば汗や脂で化粧が剥げ、ところどころ生身の人間の皮膚が覗いてしまっている。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?