【.*プライドを守るために生徒を殴る教師に学ぶ*.】


#忘れられない先生

私は幼い頃から何事にも疑問を持つ人間だった。

「なぜこんな非効率な方法が当たり前になっているのか」
「なぜ失敗するとわかりきったことをそのまま進めるのか」
「本当にうまくいくと思ってやってるのか」

全てが謎だった。

でもそれを話しちゃいけないことは肌で察していた。
なんとなく居心地の悪い空気になったり、
時には怒られたりしながら、
「自分の考えは話してはいけない」
「きっとみんなそうしてるんだ」
と思うようになっていった。

小学生の頃、放課後の掃除当番があたった。
どうしても早く帰って遊びたかった私は、決まった方法とは違う効率の良い方法で掃除を早く終わらせたことがあった。
担任が最後の点検をすることになっていたので呼びに行くと
「そんなに早く終わるはずがないだろう、嘘をつくな」と怒られた。

なぜ早く終わったのか
いつもの方法との違いを説明し、効率のよい方法に変えればもっと放課後の時間が増えると提案した時、

「屁理屈いうな小賢しい」と殴られた。

それから、担任の中で私は嘘つきで小賢しい人間になった。
何を発言しても無視され、嫌な顔をされた。

調べたところ、その掃除の方法を考えたのが先生だったそうだ。
それを指摘されたことが、気に障ったのだろう。
当時は難しい言葉を知らなかったけど、今なら説明がつく。

「自尊心を傷つけた」私が悪かった。
その物事の成り立ち、それに対するこだわり、それを全て加味した上で自分の振る舞いを考える。

その出来事で、小学生にしてそれが身についていたのだと、大人になって今子供の自分を弁護できるようになった。
全部自分が悪いと思ってた。でも私は子供の頃から必要な事をただしていただけ。

「こどもの癖に」先生のこの固定概念がなければ私は殴られることはなかった。「効率的」が評価される場所に身を置くことができていれば、私は殴られることはなかった。
身を置く場所は、自分で決める。自分がいいと思うことが、いいとされる世界を見つけていけばいい。

教師の固定概念は子供の心を殺す。
精神をなんとか保ってそのままに生きた私はよく頑張ったと今は思う。大人のちっぽけなプライドを守るために殺された子供は星の数ほどいるだろう。

私はそんな才能たちを守りたいのだ。
それが過去の自分を救うことにもなる。

社会の仕組みを教えてくれた先生。
今でも忘れない。←ちょっと皮肉です(笑)

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