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彼岸へ向かう言葉

今はもういない人を偲び、彼ら彼女らが生きていた時の姿や表情をありありと思い出させる、そのための言葉。

それらは結局、詩の言葉であり、歌の言葉ではないか。表現としての言葉でなければ、もういない人のことは語れないのではないか。

「詩とは死のことなのだろうか」と、久世光彦の本(花筐(はながたみ)」に書いてあった。詩は「彼岸へ向かう言葉」なのではないかと私は最近思っている。

宮沢賢治の「心象スケッチ」は正直わからない。けれど、非常に感じるものがある。賢治の詩は、彼岸へ向かう言葉のようだと思う。中原中也の幾つかの詩もそういうものに思える(お経も詩であり、歌である)。

彼岸へ向かう言葉だから、詩はほとんど理解できない(そもそも詩は理解できるものではないと思うが、理解不能なものに人々は接触したがらない)。だから、詩が一般的にあまり読まれないのは、仕方がないことかもしれない。

文化や芸術は結局、生きている人々のものだと、一時期は考えていたが、それらは多くの死者たちによって、脈々と創造、継承されてきたものだ。現在は死者だが、その人々が生きていた時間に懸命に創作に向かった結果や軌跡が、今もなお作品として残っている。だから、文化や芸術は、死者たちのものとも言える(でも、結局は詩も物語もそれを読める生きている人々のものだ)。

生きている人々が、死者たちのことを誰も語らない、語れないというのは寂しいことだと思う。私は作品としての表現がとても大事なものと思っているが、死者たちのことをいかに語り、偲び、悼むかということ、それも様々な表現作品が追求する重大なテーマのひとつだからだ。

追悼や鎮魂は、文化や芸術の重要な役割だと思う。お祭りの花火、盆踊り、灯籠流しなどがそうであるように。それらは、死者たちを悼み、偲ぶための祈りの様々な方法である。

文化や芸術は、残された人たちの悲しみを慰め、胸の痛みを鎮め、今後の人生の励ましや助けにもなる。大切な人との永別によって、色彩を失った人の世界にわずかな色彩をもたらす場合もある。

いない人はもういない。けれど、もういなくなってしまった人たち、彼ら、彼女らは確かにこの世界に生きていた。話し笑い、歌い踊り、食べ飲み、歩き、景色を眺め、風を浴びていた。色鮮やかな時間を生きていた。

大切な人を失った悲しみは、その人固有のものであり、亡き人と何ら関係がない他人とは共有できるものではない。しかし、詩や歌、物語という表現の形に転化すれば、胸を引き裂かれ、慟哭が止まないような悲痛な感情でさえも共有できる可能性が出てくる。

大切な人を失った人は、その悲しみを何らかの形で表現してほしい。詩や物語、音楽だったりの作品という形に託して。作品とするのは、ある種の虚構化であるが、そうしなければ表せない心の深い部分に存在する真実があると思う。

悲しみを結晶化させたような作品は、大きな別れを経験し、悲しみに沈んでいる誰かの助けになると思う。不思議な安堵感を感じる、何とも優しく美しい作品、そういう作品を私自身も求めている。自分でも何とか作り出したいとも思っている。懐しい時間や日々を穏やかに思い出させてくれるような美しい作品を。

※この文章で私は「彼岸」という言葉を使っているが、宗教的な意味での「あの世」みたいな感じではない。「向こう側」ということで、生に対する向こう側としての「死」という意味で使っている。「あの世」とか「死後の世界」みたいな意味ではないので、誤解なきよう。

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