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ことばの変化について――田中克彦「恥の日本語」(『国やぶれてもことばあり』新泉社、2018年所収)箚記

「ら抜きことば」をめぐって

「恥の日本語」(初出は『展望』1976年9月、筑摩書房)という論考を読んでいて、気になる記述があった。

要点を述べると、

・「れる」「られる」が自動詞につく場合、尊敬と可能の用法がある
・「られる」がつく場合(“来られる”、”見られる”など)、どちらの意味にも取れる場合がある
・その「区別」のために、「来れる」を可能、「来られる」を尊敬として用法を分化させる智慧が働く
・分化は進化ではないが、有用である

ということだ。

これは、いわゆる「ら抜き言葉」問題の一端をあらわす。半世紀前からそのような問題があったわけだが、当時の「日本語ブーム」のなかで、その「正しさ=規範性」をめぐって議論があったようだ。

例えば、丸谷才一(作家、1925-2012)氏や木下順二(劇作家、1914-2006)氏などの文筆畑の権威は、こうした「分化」をはっきりと「間違い」であると断じ、「正しい=規範的」な日本語を守ろうという論調だったらしい。

時代は下るが、私も小学生や中学生の頃など、盛んに「ら抜きことば」などの「間違い」を指摘され、恐縮したものである。こうして、ことばづかいには「正誤」があることを覚えさせられ、なにか判然としないモヤモヤを抱えながら過ごしてきた。

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ところが、以前、小松英雄氏の一連の著作を読み、やっとそのモヤモヤが言語化できた。つまり、私の中で問題意識として主題化されたのである。

そのひとつが、「ことば」が「間違い」とみなされるのはなぜか?という問いである。

言語はなぜ変化するか

私はさきほどの田中の記述を読んで、小松英雄『日本語はなぜ変化するか―母語としての日本語の歴史』(笠間書院1999年→新装版2013年)が同じことを論じていたことを思い出した。そしてまた読み直してみて、そちらの方が丸谷氏や木下氏のよりも説得力を持っているとあらためて思った。

小松氏は日本語史の因果律から、

・円滑な情報伝達が保持できるように、言語は社会の変化に合わせて変化し続ける

ことを証明した。日本語の歴史からみれば、「ら抜きことば」も巨視的な変化体系における微視的事象のひとつであることを論証したわけである。

その中で、たとえば「ら抜きことば」は「ラレルと言うべきところをレルと言う」ことだとの認識は、容認派でも排斥派でも同じとされ、結局は双方、日本語史的事実確認を怠っていることが言われている。

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こうした言語変化に関する論証を批判的に検討して、「ただしさ」とは何かがようやく論じられるべきだが、それを無視あるいは読み取れないから、いつまでも道徳的議論が繰り返されているのではないだろうか。

こうして私は、「ことば」を「間違い」だとする側の主張は、そうすることで自らの社会的地位を再確認し、権力関係を強固にしようとする感情的反応なのではないかという気がしてきた。つまり、道徳の問題とことばの正誤を対応させたいではないかという疑問である。

なぜ、守るべき「ただしさ」は道徳的領域に飲み込まれてしまうのか?

ことばの呼吸を阻むものは何か

もうひとつ小松氏が指摘した点で重要だと感じるのは、

・彼等にとっての日本語の起点は、自分たちがモノゴコロついた時期である(p.22)
・懐古主義者は、必ず純粋主義者である。(p.23)

というものだ。ここに、ことばを標本化して守ろうとする人たちの感情的反発が浮き彫りにされている。それは、さきほども述べたように、理性的判断や論理的帰結などではない。

さて、ここを読み直してからまた、安田敏朗『漢字廃止の思想史』(平凡社、2016年)を思い出した。

そこで安田氏は、たとえば水村美苗『日本語が亡びるとき』(筑摩書房、2008年)が夏目漱石の頃の書き言葉を理想化し、日本語を守れと主張するのを「恫喝」と批判した。それと小松氏の指摘は同じことを言っているのである。

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とかく漱石は抽象的権力性を投影されやすい

つまり、ことばの「乱れ」や「凋落」を許さない人々は、自分が育ってきた学校教育で学んだ言葉遣いや、自らの人格形成やキャリア形成のもととなった(と本人が思っているであろう)文学的作品を、「ただしい」「美しい」と判定していることが大いにあるのだ。

しかし結局、なぜそれが私やみんなにとっても守るべき「正しさ」なのか、水村氏の著作からは一切わからなかったのである。

おしまいに

このように見てくると、人が「正しいことば」を守ろうと主張するとき、ことばに美的/懐古的な何かを投影し「標本化」する態度があることがわかる。そういう立場からは、ことばに対して「自分の遡れる伝統に基づいて」保守的になるのも当然であろう。

しかし、そうした態度を人に押しつけるのは私たちになじみのある「暴力」とそう変わりないのではないだろうか。

私はことばの本質は「動き続けること」にあると考えている。言い換えると、まるで生き物のように「呼吸」し、社会に生息しながら、伝達されやすいように変わっていくもの、と捉えている(もちろん「人間」の中で)。

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この主張を論証するには力不足だが、この「呼吸」を阻むもののひとつが、標本化するちからであり、権力的正しさ判定なのではないか、というのがひとまずの仮説である。

田中氏の評論や小松氏の論証、安田氏の主張から私が学んだのは、ことばの「正誤」は使い手によって暴力性・権力性の根拠にされうることへの批判であり、(小松氏は少し違うが)もっと自由に使えばいいんじゃない?という態度である。少なくとも、「正しさ」の判定は、保守ではなく運用という面から論じるフェーズに移行していいと考えている。

これは、私が2011年以降感じ続け、学問的考究の動機の一つとなっている「ジャルゴン」や「すり替え」などのテーマに接続していくが、いまは余裕がないので、安田氏の新著を紹介するにとどめよう。

ことばなら、ちゃんとつたわれば、いいじゃない

そして、

ことばなら、つたわらなければ意味がない

ということを宣言しておいて、ひとまず筆を擱く。


※文中「」や表記が「ぶれて」いるのは筆者の自由度によるためです。学術的規範ではそのような姿勢は真っ先に糾弾されますが、ここでは敢てそのままにしました。

※この記事の筆者(もとい主張)に興味があれば、ぜひ論文読んでみてネ!「おかしいよ」という反応でもスゴく嬉しい!


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