黄色の花火(続き)

   日記より28-8「黄色の花火」(続き)        H夕闇
 実は、この花火大会が実施できたのは、かなり奇跡的だった。数日前まで、太平洋から台風七号が(まるで狙(ねら)い澄(す)ますように)真っ直ぐ迫り、この日この町を直撃する予報だったのである。それが直前に急角度で転進し、県境の向こうへ上陸。結局ここの花火には全く支障が無かった。余波の風が少し残って、前発の花火の煙りを吹き散らしてくれるので、後発がヒュルヒュルヒュルーと駆け上って頂点に達する頃合いには、夜空がカラッと吹き払われ、絶好の打ち上げ条件が黒いキャンバス上に出来上がっている、といった塩梅(あんばい)で、寧(むし)ろ滅多(めった)に無い幸運だった。
 然(しか)し、夜空の祭典は、たった十五分間しか続かなかった。副都心のIYが閉店して、協賛金の集まりが少なかったのかも知(し)れない。例年(最低でも)三十分位(くらい)は続いたものだが、残念だ。
 それにしても、僕はベンチから眺(なが)めるべく缶(かん)ビールを用意していたのだが、花火が上がる前に玄関でチャイムが鳴った。娘の一家が会場から早々に戻って来たのである。後に妻から聞くと、婿(むこ)殿が「おとうさんも孫と一緒(いっしょ)に花火を見たいだろうから。」と誘って、親子三人で先に帰って来たのだそうだ。心使いが、有り難かった。
 玄関先に(ベビー・カーを挟(はさ)んで)エア・クッション入りシートを敷く。ビールを屋内の冷蔵庫から持ち出したのは、娘だろうか。お持たせのゆべしも、「大した物も御座(ござ)いませんが、」などと軽口を叩(たた)いて、僕が持ち出した。(これを我が家へ手みやげに持参したのは、娘たち夫婦である。)うちわで煽(あお)ぎ乍(なが)ら、大勢の花火見物は、臍(へそ)曲がりおやじにも確かに趣(おもむ)きが有った。
 毎年の花火よりも、僕は孫の表情に興味を引かれた。シュルシュルで始まる遠い発射音を耳聡(さと)く聞き付けると、ベビー・カーの主は(何はさて置き)そちらへ顔を上げる。座席の中で、身を乗り出す。その真剣な眼差(まなざ)しが、中々(なかなか)に良い。やや待ったタイミングで、華(はな)やいだ光りが破裂すると、瞳(ひとみ)も一気に輝く。弾けるような歓声。裏表の無い澄んだ喜びが、パタパタと手足からも溢(あふ)れ出す。テンポ一つ遅れて爆発音が聞こえても、歓喜の表情は暫(しば)し残っている。そして、残り火が暗い夜空をハラハラと落下して、最後の光点がフッと消えると、徐(おもむ)ろに「行っ・ちゃっ・たあ!」と残念そうな余韻まで添えて片言を発する。
 只、発光を見て「黄色!」とも言うが、その概念を正確に理解しているか否かは、怪しい所(ところ)である。赤でも青でも大輪が夜空に拡がれば、やはり「黄色」である。或(ある)いは単に「色」と言っているのかも知れない。両手を手首で回転させつつ「キラキラ」と言う場合いと同様、(本人にしては)綺麗(きれい)と云(い)う意味なのではないか。何しろ、この年頃の喃語(なんご)と相手するのは、とても愉快だ。
 時偶(ときたま)こんな美しい光景に巡(めぐ)り合える現世は、この子の目に(その経緯が理解できないだけに)不思議(ふしぎ)なのだろう。次ぎ次ぎと眼前に展開する不可解な出来事に対して、少しの恐れと、より多くの関心を抱くのだろう。これまでの僅(わず)かな経験からも、「この世界は悪くない。もし不快や辛いことが時に起こっても、きっと周囲に居る人たちが守ってくれる。」といった肯定的な見通しと安心感が、漠然と(それと気付かない侭(まま)で)この子を支えているようだ。そういう和(なご)やかな雰囲気(ふんいき)を家庭の中に醸(かも)し出してやることが、親や乙名(おとな)たちの最大の教育なのではないか。
     生え初(そ)める前歯が一緒(いっしょ)に笑ってる。
     キラキラここは今「不思議の国」 夕闇

 裏の花畑では、秋になると、コスモスの種が零(こぼ)れ、それが翌春に発芽して、何代も自生している。所(ところ)が、零れた先が土の上でなく、アスファルトの路面と道路脇(わき)の縁石との間の隙間(すきま)に落ちてしまう種も有る。言うまでも無く、水や光りや養分の点で、絶望的に不利な環境だ。その不条理な運命に(人間ならば、)文句タラタラ不平を鳴らして、自(みずか)ら腐(くさ)り、捻(ひね)くれて暮らす所(ところ)だろう。けれど、言いたくとも、野の花に苦情を言う言葉が無い。只ジッと耐えて(いや、不運と解する自己認識も無く、)与えられた狭い空間の範囲で、淡々と最大限に生命力を伸ばし続ける。
 その結果、路傍の僅(わず)かな割れ目から、黙々と小さな芽が出ることが有る。不遇な芽生えの懸命な尽力は、涙ぐましい程だ。不平不満の多い僕など、頭が下がる思いがする。だから、庭の朝顔に散水した後、じょうろの先を時に路肩へ向けずには居(い)られない。「判官(ほうがん)贔屓(びいき)」と笑わば、笑え。こういう不幸な人々(レ・ミゼラブル)の人知れぬ努力が、僕には見捨て難い。
 出生時の幸運に恵まれなかった新生児が(本人も知らぬ間に)体内の無数の細胞の努力と協力に依(よ)って逞(たくま)しく成長した姿は、それに似ている。僕の孫は、保育器に入る程ではなかったが、母体が回復し退院した時も、念(ねん)の為(ため)に病院の管理下に留め置かれた。ならば、とて母親も共に入院延長を願い出たが、次ぎの産婦が空きベッドを待っており、切なる望みは叶(かな)わなかった。母と子を繋(つな)ぐ絆(きずな)は、病院の冷蔵庫に預けた母乳だけだった。それを通して幼子(おさなご)は母親を感じるしか無かった。そんな困難も乗り越えて、小さな生命が健気(けなげ)に育って来た。理不尽な着地点からも必死に芽を出すコスモスを見ると、それと思い合わせて、応援したくなるのが、僕の常である。
 きょう孫の一歳半検診が有って、「問題なかった」そうだ。身長と体重の計測結果も娘が知らせて来たので、「身体発育曲線」をPCとEネットで探して数値を当(あ)て嵌(は)めて見(み)たら、どちらも殆(ほとん)ど平均値に近かった。小さく産まれたが、漸(ようや)く同級生たちに追い付いたようで、ホッと一安心だ。
 初めの一年間は(小さい乍(なが)らに)風も引かず、よくぞ育った。保育園に通い始めてから色々と感染症を貰(もら)ったが、熱が有っても、パクパク食べて、病気に負けなかった。寝付きが悪いのが玉に瑕(きず)だが、どうにか元気に育ってくれた。両親も寝不足に耐えて、よく頑張(がんば)ってくれた。
 孫の体の中で何者かの力が芽生えて、スクスクと成長してくれたのだろう。医療と科学が未だ解明できないメカニズムや神秘も、そこに働いたかも知れない。それらに対して、僕は畏敬と感謝の念を禁じ得ない。ここにも黄色にキラキラ光る国が控(ひか)えているらしい。      (日記より)

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