灯台3

     日記より27-18「灯台」3         H夕闇
            二月七日(水曜日)晴れ後に曇り
 又これらの報道を僕らは決して忘れまい。かれらは人々が軈(やが)て出来事を忘れてくれるのを待ち、この世から事件が風化することを望んでいるのだ。ほとぼりが冷めたら、頃合いを見計らって、次ぎの手に出よう、とて虎視(こし)を眈々(たんたん)と身構えているのだ。だから、僕らは対抗手段として絶対に忘れては成(な)らない。オーム真理教も名前を変えて若者に接近しているそうだが、旧統一教会の旧とは名称を変更した事実を意味している。その点も僕らは用心しよう。
 人間の知性とは、歴史に学び、眼前に起こった社会現象を記録し記憶して、忘れないことの上に成り立つのではないか。

 社会に分断と対立が蔓延(まんえん)する現代、何をやっても、SNS上で悪口と雑言が燃え上がる(炎上する)危険性が有る。無論、必ず匿名で。だから皆が緊張し委縮し、相互に不信が募(つの)る。だが、一般に誰からも非難されずに済む形が、今も一つ有る。ボランティア活動が、それである。非難と中傷に飽き飽きして世の中に背を向けた青年が、多く能登半島へ向かうのではないか。
 今年元日の震災に見舞われた気の毒な人々を支援する活動は、とやかく非難し難(にく)い。すれば、した方が避難されるだろう。だから、世論の支持を背にして、後顧(こうこ)の憂(うれ)いが無い。第一、被災者から大いに感謝される。感謝が疲労した肉体を奮(ふる)い立たせるだろう。そうして黙々と体を動かして汗水を流すのは、心労を忘れて快(こころよ)い。こんな愉快な体験は滅多(めった)に無いだろう。個人の殻(から)に引(ひ)き籠(こも)り勝(が)ちな人に取(と)っては、人の世へ目を向けて復帰する為(ため)の(被災した人々に非礼な云(い)い方を許してもらえば、)絶好のチャンスでさえある。この社会参加で寧(むし)ろ自身が救われる、という場合いも有るだろう。この僕も以前そうだった。
 だが、その望みの綱(つな)のボランティア活動でさえ多少の危険を孕(はら)んでいることを、予(あらかじ)め心得て置いた方が良い。嘆かわしいことだが、被災地には犯罪が付き纏(まと)う。東日本大震災の現場に入った自衛隊員が、左手の薬指だけ切り落とされた死体を多く見た、という話しを又聞きしたことが有る。金になる指輪が多分そこに有った筈(はず)だ。同時に又もや某国の名を耳にした。
 又、かなり以前のことだが、僕の実体験も有る。高校生の伜(せがれ)とH市の避難所(N中の体育館)に入った時、駐在所を通り掛かると、警官から呼び止められ、大層しつこく職務質問を受けた。暗に「町から出て行け。」と言うのだ。同市の(当時は町制だったが、)社会福祉協議会(略して社協)へ登録して公式に災害ボランティアと認められた後も、それは繰り返された。
 災害に乗じて空き巣狙(ねら)いなどの犯罪が被災現場で横行するのも事実で、それを予防すべく、警察官や地元住民が警戒する。よそ者は(その事実だけで)不審を買うのである。相互不信と治安悪化の悪循環が我が国にも産まれている。そういった苦々しい現実を目の当たりにして、折角(せっかく)の善意が押し潰(つぶ)され、意気消沈の侭(まま)で撤退するボランティアも有ろう。そういう形で好意が報われては、もう居(い)たたまれないだろう。
 渡る世間にゃ鬼も居る、人を見たら泥棒(どろぼう)と思え、と処世術を少年少女に教えねば成(な)らぬのか。

 同様に、世の中にはベンチや花畑を白眼視する人も有ろう。土手にタバコの吸い殻やビールの空き缶(カン)が捨てられたことが有る。コスモスの花を幾(いく)つも(首だけ)捥(も)ぎ取(と)られ、然(しか)も母親が傍(かたわ)らでニコニコ見ていたことも有る。界隈(かいわい)の生活道路を早朝から除雪していても、目を背(そむ)けて通る人が多い。
 それでも性善説を保てるか。人を信じていられるか。怏々(おうおう)として楽しまず、自然へでも目を転じよう。
 暖冬とやら。この冬の雪掻(か)きは、確か三回目に過ぎない。水抜きに及んでは、未だ一度もしていない。この侭で春を迎えるのだろうか。
 けれど、禍福は糾(あざな)える縄(なわ)の如(ごと)く訪れるそうだ。インフル予防だか、コロナ第十波だか、杉花粉の対策だか、最早ハッキリせねど、とかくマスクで気が重い。その内に、確定申告の季節も押し寄せるだろう。
 きょう回覧板を持って来た隣家のAさんから「いつも雪掻(か)きを有り難うございます。助かります。」と礼を述べられ、こちらが却(かえ)って救われる思いをした。幼い孫たちの澄んだ目に、この世界は将来どう映るのだろうか。
 堤の上から行き交う人々へ(灯台のように)明かりを灯(とも)したミニかまくらが、きょう日中かなり融(と)けた。ベンチの下には数本つららが下がっている      (日記より)
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  「旅上」  萩原朔太郎
ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広をきて
きままなる旅にいでてみん。
汽車が山道をゆくとき
みづいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月のしののめ
うら若草のもえいづる心まかせに。
      (「純情小曲集」より)

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