精神疾患と 生き甲斐

A stranger in a strange land

(見知らぬ土地で見知らぬ人)


何度も書いたことありますが、実は私、オーストラリア育ちなのです。3歳の時から、地元の学校に入校して、大学卒業までずっと豪州で暮らしていました。なお、noteではいつも #帰国者 のタッグを付けています。

 それ故、私はバイリンガルでもあるしバイカルチャー(bi-cultural)でもある。これに羨ましいと思う人はいるが、この裏面にいろいろな悩み事が存在してます。アイデンティティに関する悩みは誰にもあるかもしれませんが、私みたいな人には子供のころからずっと今まで続く悩みです。

これは国籍だけの問題ではなく(ちなみに、私はずっと日本国籍でした)法律的というか、精神的な問題です。自分の所属する場所はどこだ?実存のhomeはどこだ?

Identity crisis(アイデンティティの危機)は良く使ってきた言葉、重く感じる言葉です。

別に、全てを否定的に考えていることはありません。移民者として育ったお陰に、世界が広い場所だとか、偏見がない(か少なめな)オープンマインドでないれるように育ちました。非正統的な育ち方は間違えだとか、親を恨むこととか、そんな考えしたことありません。

こういう子供は大人になってからどうなるかは百人百態だと思いますが、私は結局来日して「普通の日本人」の変装しているのか、今は日本語でnote書いています。この選択に決めた理由は多種ですが、その中の一つは、自分が100%オーストラリア人ではないと感じていたのは確かでした。

しかし、正直を言えば、日本人よりもオーストラリア人と一緒にいる方が落ち着く。ジョークでも恋愛関係でもオーストラリア人達の感覚が私にして自然

(Side-note:でも、アメリカ人と話すときは共通言語あっても、文化的な違いを感じる。アメリカ人と交流するのも始めは苦手で慣れるまで時間がかかりました)

来日の以来、6年間かけて日本語と日本の生活に慣れてくるように意識をしていましたけど、まだ日本は不思議な世界しか見えなく、自分は他国人だとしか感じない。

A stranger in a strange land.

正直、寂しい存在です。

やっぱり、日本よりもオーストラリアの方が自分に好適なのか?悩みます。


ただし、一部本当に日本人らしい習性はある:労働倫理。言い返せば「働き方」


オーストラリア人は比較的にもっとくつろいだ態度で職業に潜みます。「仕事することは嫌いだ」って平気に言う国です。私のオーストラリア人の友達は毎年のこと2週間の有給休暇を遠慮せず取っています(その間に日本旅行する知り合いもいました)。もちろん、有給病気休暇も別です。この「leave」を取るのは当たり前と言うか「労働者権利」だと考えているからです。

オーストラリアで一番邪悪の言葉は:Overtimeです。残業というのは不公平だ、搾取だ、と反発します。

流石、私はこういう心的傾向に流れなかった。。

深刻に鑑みたら、日本で残業を減らすことと休暇を増やす方が社会全体的に善だと思います。ところが、私を含む日本人には働く事は経済的の問題ではなく、心の問題だと考えているからではないでしょうか。

「生き甲斐」という言葉は英語で直接訳せません。

現代では英語からの外来語が増えつつある。この文書でもカタカナの単語が多少出てきました。ただし、逆に日本である英語でないコンセプトもある。

Weblioを検査してみると、「生き甲斐」は「Lead a life with purpose」とぎこちない表現が現象します。西欧の国では哲学者を抜き、人生の目的ということは凡人は滅多に考えないことです。生き甲斐の意味を英語で説明するに苦労なことです。

私は学生時代でも、バイトがなによりも先にしました。パーティーよりも、遊びよりも、勉強よりも。仕事第一だと骨格から信念していました。

卒業して、来日した末、日本に家族以外知り合いがいないことに悲しむ余裕もなく働き始めました。働くこと以外はちゃんと働けるように身体を休むぐらいで、仕事中毒といっても可笑しくないところでした。

これは知らずに悪業を起こしてたのかもしれないが、全身全力で仕事に潜り込むと、神秘的な力が浮揚してきました。毎朝、起床する理由がある。意味がある。人生に目的がある。生き甲斐が在る。

数年間も希死念慮に激しく振舞わせられた私には、これは大事なことでした。たまに「死にたい」と思っても「仕事があるから生き続けないと」とはer in a strange land



(見知らぬ土地で見知らぬ人)




何度も書いたことありますが、実は私、オーストラリア育ちなのです。3歳の時から、地元の学校に入校して、大学卒業までずっと豪州で暮らしていました。なお、noteではいつも #帰国者 のタッグを付けています。


 それ故、私はバイリンガルでもあるしバイカルチャー(bi-cultural)でもある。これに羨ましいと思う人はいるが、この裏面にいろいろな悩み事が存在してます。アイデンティティに関する悩みは誰にもあるかもしれませんが、私みたいな人には子供のころからずっと今まで続く悩みです。


これは国籍だけの問題ではなく(ちなみに、私はずっと日本国籍でした)法律的というか、精神的な問題です。自分の所属する場所はどこだ?実存のhomeはどこだ?


Identity crisis(アイデンティティの危機)は良く使ってきた言葉、重く感じる言葉です。


別に、全てを否定的に考えていることはありません。移民者として育ったお陰に、世界が広い場所だとか、偏見がない(か少なめな)オープンマインドでないれるように育ちました。非正統的な育ち方は間違えだとか、親を恨むこととか、そんな考えしたことありません。


こういう子供は大人になってからどうなるかは百人百態だと思いますが、私は結局来日して「普通の日本人」の変装しているのか、今は日本語でnote書いています。この選択に決めた理由は多種ですが、その中の一つは、自分が100%オーストラリア人ではないと感じていたのは確かでした。


しかし、正直を言えば、日本人よりもオーストラリア人と一緒にいる方が落ち着く。ジョークでも恋愛関係でもオーストラリア人達の感覚が私にして自然


(Side-note:でも、アメリカ人と話すときは共通言語あっても、文化的な違いを感じる。アメリカ人と交流するのも始めは苦手で慣れるまで時間がかかりました)


来日の以来、6年間かけて日本語と日本の生活に慣れてくるように意識をしていましたけど、まだ日本は不思議な世界しか見えなく、自分は他国人だとしか感じない。


A stranger in a strange land.


正直、寂しい存在です。


やっぱり、日本よりもオーストラリアの方が自分に好適なのか?悩みます。




ただし、一部本当に日本人らしい習性はある:労働倫理。言い返せば「働き方」



オーストラリア人は比較的にもっとくつろいだ態度で職業に潜みます。「仕事することは嫌いだ」って平気に言う国です。私のオーストラリア人の友達は毎年のこと2週間の有給休暇を遠慮せず取っています(その間に日本旅行する知り合いもいました)。もちろん、有給病気休暇も別です。この「leave」を取るのは当たり前と言うか「労働者権利」だと考えているからです。


オーストラリアで一番邪悪の言葉は:Overtimeです。残業というのは不公平だ、搾取だ、と反発します。


流石、私はこういう心的傾向に流れなかった。。


深刻に鑑みたら、日本で残業を減らすことと休暇を増やす方が社会全体的に善だと思います。ところが、私を含む日本人には働く事は経済的の問題ではなく、心の問題だと考えているからではないでしょうか。


「生き甲斐」という言葉は英語で直接訳せません。


現代では英語からの外来語が増えつつある。この文書でもカタカナの単語が多少出てきました。ただし、逆に日本である英語でないコンセプトもある。


Weblioを検査してみると、「生き甲斐」は「Lead a life with purpose」とぎこちない表現が現象します。西欧の国では哲学者を抜き、人生の目的ということは凡人は滅多に考えないことです。生き甲斐の意味を英語で説明するに苦労なことです。


私は学生時代でも、バイトがなによりも先にしました。パーティーよりも、遊びよりも、勉強よりも。仕事第一だと骨格から信念していました。


卒業して、来日した末、日本に家族以外知り合いがいないことに悲しむ余裕もなく働き始めました。働くこと以外はちゃんと働けるように身体を休むぐらいで、仕事中毒といっても可笑しくないところでした。


これは知らずに悪業を起こしてたのかもしれないが、全身全力で仕事に潜り込むと、神秘的な力が浮揚してきました。毎朝、起床する理由がある。意味がある。人生に目的がある。生き甲斐が在る。


数年間も希死念慮に激しく振舞わせられた私には、これは大事なことでした。たまに「死にたい」と思っても「仕事があるから生き続けないと」と反論できる。それが完全に健康的だと言えなくても、鬱に負けなかったと思えました。幸運だったと思っていました。そんなところで―

恋愛失敗、DV事件に巻き込まれる、精神疾患(妄想・パラノイア・躁状態エピソード)、入院、などの挙句、現在は1年半働けないメンタルの地獄に落ち込んだ。

働けないこと・仕事が無いことは、生き甲斐が奪われたと同然でした。人生に目的がなくなった、もう死んでもいいような気持ちでした。続く一年半は、毎朝ごとに、圧倒的な虚無感に覆われた。空な日程に自由という感覚よりも檻に放り込まれた感じでした。エゴがもう既に死んで、残った肉体をどうにか生存させるだけでした。

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オーストラリアで居たら、違う感覚で病気を受け取れたか?


そんなことはないです。慎重に振り返ったら、やっぱりオーストラリアでも仕事と自己肯定感は合致です。特に男性は、自尊心と職業の繋がりが強い。

この世界の中に働けない男に救えはないのか?


。。それはおかしい質問だ。


正しい質問:私には仕事以外に救えはないのか?


その答えは外的ではなく、自分自身の中核であることだろう。

考えます。失業者には時間がたっぷりある、それがたった一つのアドバンテージです。