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「その時」がやってくる前に

「私ね……あの子の可能性を……潰したくない」

草彅剛演じるトランスジェンダーの凪沙が、苦しそうな表情で、やっと捻り出した言葉をぼんやり聞いていた。

映画「ミッドナイトスワン」は、新宿のニューハーフショークラブで働く凪沙が、ネグレクトを受けている親戚の少女を家に迎え入れる作品だ。

当初は、半ば子育てを押し付けられたこともあり、凪沙は「言っておくけど好きであんたを預かるわけじゃないんだから」とピシャリと言い放つ。

しかし、次第に少女が始めたバレエを通して、不器用に心を通わせ「母になりたい」という感情が芽生え始める。

「ミッドナイトスワン」は、母とは何か問うてくる。腹を痛めて産んだ存在だろうか、戸籍で認められた保護者だろうか、女の身体を持っていることが前提なのだろうか、一時をともに過ごしただけではなりえないのだろうか。

ゴツゴツとした頬骨とがっしりとした肩を隠すように、長い髪をたゆたわせて歩く凪沙。女らしい身体を保つため、性転換手術のため、凪沙が凪沙でいるためには、莫大な資金が必要だ。それでも、少女の将来のために、危険な仕事をしたり、男として就職しようとしたり、奔走する。

献身的な行動をとるものの、そこには「愛してる」だとか感謝の言葉はほとんどなく、ただでさえ少ない会話の中にあるのは「やだ」とか「もう」といった、憎まれ口ばかり。

設定こそ鮮烈だが、どこか既視感があった。

私の伯母だ。

***

私が8歳の時に、母はがんで他界した。闘病生活が始まったのは、私が小学校に上がった年の夏頃から。2年ほど、入退院を繰り返していた。

何の疑いもなく両親がいて、明日が来て、幸せな日が続いていく…という毎日ではなく、まもなく訪れる「死」を逆算していくような感覚で幼少期を過ごしていた。いつか来る「その日」を乗り越えるために、ある程度身構えておきたかった。母が他界した時は、もちろん世界の終わりかというぐらい悲しかったし寂しかった。けれども、年月が経ち過ぎて「母親」という存在は、私の中で風化してしまっている。

すいぶん前の話だ。当時、私が8歳、姉が11歳。家事すらできない子どもを育ててくれたのが、母の姉である伯母だった。

独身の伯母は、母の死をきっかけに20年以上働いた銀行を辞めた。私の学校が終わる午後には家に来てくれ、掃除や洗濯、父が遅い日には夕飯まで作ってくれた。そのおかげで私は、母がいなくなっても生活的には何も変わらない日常を過ごしていた。寂しくないと言えば嘘になるものの、喪失感はかなり薄れていたように思う。

「ミッドナイトスワン」の登場人物と私は違うが、何かを欠落した人たちは、独特なまなざしを向けられる。同情や憐れみ、蔑みも混ざる。まなざしを向ける人たちは、そうした感情に気がついていないことが多い。けれど、向けられる側からすると、それを顕在化させるトラップが学校生活にはいくつもあった。

親が応援に来る運動会や授業参観。中身が否応なく子どもたちの話題となる、校外学習の弁当。これらは、親がいることが前提として組まれた慣習なのだと思う。

小学3年生の遠足では、私は自分で用意した冷凍食品をいっぱい詰め込んだ弁当を持っていった。好きなものばかりで、用意している時も食べている時も満足していたけれど、後で冷凍食品弁当を頬張る自分の写真を見て、どういうわけか惨めな気持ちになったのを覚えている。

伯母が家に来てくれるようになって、そういう瞬間は限りなくゼロになった。授業参観にまで来てくれた時、「いいよ恥ずかしいから」と遠慮すると「授業参観に行くと名簿に名前をかかされるのね。唯ちゃんは親がいないって思われたら嫌でしょ?」と言われた。その時、大げさだと感じながら、初めて「伯母は、まなざしから私を守っているのだ」と感じた。

他人の目を気にせずに生きればいい。そう言うのは、あまりに簡単で軽率だ。巧妙に隠されたまなざしは、日常のいろんなところで垣間見える。そういう醜い同情は「まなざしを向けられる側」も染めていく。まるで悲劇を生きているような視線は、案外、親戚から注がれることが多かった。私はそういうのが嫌いだった。

強くならないといけない。

私が中学に上がると、伯母は桜田門で事務の仕事を始めた。毎日家に来ることはなくなったものの、私立中学に通う姉と私のために「お弁当」を作ってくれるようになった。

私の学校と伯母の家が近いこともあり、永田町駅の有楽町線から半蔵門線に向かうエスカレーターを降りたところで、伯母は私に毎朝お弁当を渡してくれた。伯母は、その後に桜田門のオフィスに出勤し、また翌日には空の弁当箱と新しい弁当箱を永田町で交換する。

姉の中学入学から私の高校卒業までの9年間。伯母は毎日7時半に永田町駅でお弁当を渡してくれた。

どうしてこんなにしてくれるんだろう? 20年働いた会社を辞めて、私たちを育ててくれるのは何故なのだろう? 後悔はないのだろうか?

疑問を投げかけたことはない。でもずっと、頭に居座っていた。

伯母は憎まれ口をよく叩く。一言多かったり、意地悪な言葉を選ぶ癖がある。それは私も同じで、ついつい悪態をついてしまう。だから、素直な疑問をぶつけてみたことは一度もなかった。

私の大学を伯母も受験していたらしく、合格したときに、人一倍誇らしげにしていた。静かにこう言われた。「私はここに落ちちゃったから、唯ちゃんが受かってくれて嬉しい」。

その時は、言葉の真意も理解できずに「エゴイスティックだなぁ」と考えたものの、「ミッドナイトスワン」で言う「可能性を開いてあげたかった」ということなのだろう。

ただ、小学生の頃は何の疑いもなく信じていた伯母の話も、成長するにつれ違和感を覚えることが多くなってきた。時代の変遷もあるし、個人の価値観の違いもある。段々と、伯母のアドバイスが鬱陶しく感じられて、大学に入るとほとんど連絡を取らなくなってしまった。

「総合職ではなくて一般職で就職しなさい」という伯母のアドバイスを無視して、私は総合職の営業になり、馬車馬のように働いて心身ともにボロボロになってドロップアウト。引きこもりの生活をしている時は、自尊心は地に堕ちたし、自死を考えたりもした。その後も、伯母の言う「安定した仕事」にはつかずに、今も流れるように働いている。

私も1人の大人になって、彼女とは価値観が違いすぎることに気がつき、ますます疎遠になった。会ったところで、疎ましく感じることの方が多いからだ。いつも仕事を理由に、顔を合わせることから逃げ続けた。「ああしなさい」「これがいいに決まってる」。そんな風に憎まれ口を叩く彼女に、悪態をついてしまうのが目に見えている。

***

今年の春ごろ、伯母から一本の電話が来た。

「末期がんでもう長くない」

その時が、迫っていた。

摘出の手術を試みるものの、すべてを取り除くことはできず、急速に死へ向かっているという。にわかに信じられない話を、愕然としながら聞いていた。病状の悪さや新型コロナウイルスの流行もあり、面会は不可能らしい。

病はどんどん進行し、この夏に一時帰宅を許された際に会った時には、随分と痩せた姿でいた。ただ、目の輝きは確かにあり、ハキハキとした口調で話す姿からは、回復の兆しすら感じた。「唯ちゃんの文章、読んでるんだからね? あんなこと書いて」と、相変わらず嫌味な言い方をする。末期癌とは思えない、鬱陶しさだった。

それでも、私の仕事を楽しみにしてくれていることが、うっすら伝わってきた。私はこんな風に、身近に起こることをなんでも書く人間なのに。

「でも、私のことは書かないでしょう? それが優しさだと思うのよ」と伯母は言っていた。

それから2ヶ月。近く最後に10分だけ面会の許可が下りた。私が伯母のもとに行く時まで意識が持ってくれるのかわからない。

「何がなんでも生きて」とは思わない。できることなら死なないで欲しいものの、治療は激痛を伴い、心身を蝕む。死は忌避すべきものではなく、本人にとっては痛みからの解放でもある。だから、私は彼女をあたたかく見送りたい。

私は、愛という単語が帯びる全肯定とか美しさみたいなものがいまいち信じられない。愛とは、嫌悪感だとか恥じらいとか、決して綺麗ではない感情も混ざった、歪なものなのだと思う。

伯母が不器用ながらに注いでくれた、愛情や献身は、確かに私の将来を開いてくれた。私はいつも期待を裏切ってばかりだけれど、どうか満たされた気持ちで、その時を迎えて欲しい。

あなたは、私にとってもう1人の母なのだから。

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