ねぇ、きみの嘘なんてだいたいお見通しなんだよ
無駄なセックスをした朝は、コーラが飲みたくなる。
自嘲気味に話すと、「え、なんで」と笑われた。
本当につまらない男だな。そう思った。
今、私はいわゆる二股をしている。二人の男、どちらと恋仲になるか天秤にかけているのだ。
一人は、メーカーで働く優しい男。
もう一人は、テレビ業界で働く面白い男。
前者を「あんしんくん」、後者を「おもしろくん」とニックネームをつけるようになっていた。
神様はきっと性格が悪い。好きな人ができたと思ったら、全く違うタイプの異性を寄越してくる。そうやって揺さぶるんだろう。
安息か刺激。どちらを選ぶのが正解なのか。
***
おもしろくんは、趣味で出会った。アルバイト誌の文通募集に、小沢健二の「犬キャラ」ネタを仕込んで投稿した。これに引っかかる人は、いいセンスをしているに決まっているからだ。
誰かに見つけて欲しくて書いた投稿に、見事引っかかったのがおもしろくんだった。
「小沢健二、好きなんですか?」から始まったおもしろくんとの文通は、お互いが夢中になった作品の話をした。
昔から趣味の合う友達がいなかったから、彼から手紙をもらうのが嬉しかった。はじめて理解者ができた気すらしていた。こんな人と付き合いたい。きっと仕事の終わりに映画館に駆け込んで、そのまま飲み明かして、ああでもない、こうでもないと語り合うんだ。
こんな妄想をしていたので、彼から「横尾忠則展に行きませんか」と書かれた時には、ガッツポーズをしてしまった。誘い文句も最高だ。
でも、私はブスだった。
街行く人の顔を見ては「私より上」と思う。なんでみんなあんなに綺麗なんだろう? ギャルソンのシャツやケイタマルヤマのスカートを纏ったら、ちょっとはマシになれそうだなぁと考える。でも、そんなお金はなかった。
おもしろくんは私にとっては素敵だけれど、彼にとって私はただのブスで終わってしまいそうで怖かった。会ってしまえば、何かが終わってしまいそうで。
目の前に現れたおもしろくんは、落ち着きがなくて、いかにも女慣れしてなさそうで安心した。ああ、この人も街に居場所がなかった人なんだ。そこも含めて私はもっと彼のことが好きになった。
正直、横尾忠則展のことは覚えていない。私の頭の中はおもしろくんでいっぱいだったからだ。
まともに彼の顔を見られない。仕方がないから、つま先を見ながら言葉を発する。楽しげな雰囲気を出したくて、ピエロみたいに「へへ」と笑った。あっという間に日が暮れて別れの時間が来てしまった。
帰り際、「じゃあ、私はこっちですんで」とそっけなく言い、後ずさりする。
本当はもっと一緒にいたいよ。もっとキミを知りたいよ。でも、私、ブスだし。ここ、原宿だし。可愛い子、いっぱいいるし。
「じゃあボクはこっちで」
あーあ。やっちゃった。こういうとき、素直に「また会いたい」と言えない自分に失望した。視線を落として歩みを進める。
本当にこれでいいの?
今を逃したら、おもしろくんにはもう一生、会えない気がした。また一方で「今回誘ってもらったのは私なのだから、次に伏線を張るのは私の方なんじゃないか」という思いもよぎった。面倒くさいな。断られたら嫌だな。前向きなのか後ろ向きなのかわからない感情が目まぐるしく頭をまわる。
「あの…!」
少し離れた場所から呼ぶ。
「あの 、将来何になりたいとか 、ありますか?」
咄嗟に捻り出した言葉は、あまりに唐突だった。案の定、彼も戸惑った様子だ。自分のコミュ力の低さにうんざりしながら、もうどうにでもなれと思って続けた。
「私はデザイナーになりたい」とラフォーレ原宿にでかでかと貼られたポスターを指差して宣言した。すると彼は、ぎこちなく答える。
「ボクは 、映像の仕事がしたい 。みんなが見てくれるようなものを作りたい」
全く想像もしなかった答えに、原宿の真ん中でフリーズしてしまった。
デザイナーと映像作家。頭に字面が浮かんだ瞬間、脳がじんわり暖かみを帯びた。なんてすてきなカップルなんだろう。全く確証のない「将来」は、これまでのつまらない日常をかき消した。
彼に出会ったあの日、これまで部屋の隅にしか居場所がなかった私の世界は始まった。きっとおもしろくんも私と同じだったのかもしれない。
その後、彼は本当に映像制作会社に入ってしまった。おもしろくんは、本当におもしろい。
転職したおもしろくんは忙しそうだった。現場はどんな雰囲気? 芸能人は可愛い? 心動いちゃう? それとも自分が絶対に超えられないようなすごい才能を目の当たりにしちゃった?
どうやら、映像の世界で居場所を築くのはなかなか難しいようだった。それでも、彼の話を聞いては、番組のエンドロールで名前を探した。不安げな声で話す彼に電話越しでいつも私はこう言った。
「キミは大丈夫だよ、おもしろいもん」
初対面のあの日、無根拠に言った瞬間、彼の顔から緊張が解けた。私にはわかった。彼を安心させる言葉が。
私もおもしろくんに飽きられないように、素敵に生きたい。置いていかれるようで怖かった。誇らしさと焦燥とを抱え、彼を見つめてはベッドの上で涙を流した。
セックスの後に飲むポカリスエットが好きだった。失いたくない何かを取り戻したような気持ちになるからかもしれない。
***
「おもしろくん」に出会った私は、安らぎと不安の間で、ある程度満たされた生活を送っていた。本当に映像業界に飛び込んだおもしろくんに近づきたくて、私はバイトしていたむげん堂をやめ、フリーのバイヤーになった。誰でもできる仕事ではなく、自分の名前で価値を生み出したかった。
「かおりちゃんセンスあるからさ。ぜひ、買い付けに行って欲しいんだよね」
付き合いのある輸入雑貨店の店長から「インドに行かない?」と言われたのだ。
自分のセンスが評価された——。部屋の隅で他人の作品にすがってきた私は、いつのまにかちゃんと自分の足で立てるようになっていたのかもしれない。心の底から嬉しかった。
すぐにおもしろくんに報告する。私がかつて彼の転職祝いをしたように、彼も一緒に喜んでくれると思ったからだ。
でも、反応はそっけなかった。え? 私、ようやくキミと肩を並べられると思ったんだけれど……。同じ歩みを進めていると思っていたのは、自分だけだったのかもしれない。急に虚しくなった。
初めて乗る飛行機は、独特のルールがある世界だった。手荷物をキャビネットに乗せ、席に用意された寝具のビニールを剥ぐ。靴を脱いでスリッパを履き、長距離移動の負荷を減らすことに余念がない。
見よう見まねで他の乗客と同じ準備をして一息つくと「初めてですか」と声をかけられた。
それが「あんしんくん」だった。
ぎこちない様が目立ったのだろうか。いちいち言わなくてもいいではないか。少し苛立ちを感じながら「そうです」と答ると、「僕も初めてなんです」と返ってきた。
人がぎゅうぎゅうに詰め込まれたエコノミークラスで、仲間を見つけた気がした。しかし次の瞬間、その気持ちは一気に冷めた。
「なぜインドに?」
ハワイ旅行が流行っている今、インドをあえて選ぶ理由が知りたかった。きっと何か自分と通じる核の部分があるはずだ。
「インドに行くと、悟りが開けるって菅野美穂が言ってたから。あはは」
おもしろくんとの会話に染まっていた私は、素朴な動機に心底驚いた。テレビ番組で人気女優が言った一言に載せられて、十万も払うのか。ここで、大槻ケンヂの名前が出てきたら運命を感じたのに。
デリーに着くまでの10時間、あんしんくんはいちいち話しかけてきたけれど、退屈すぎて耳に入ってこなかった。ひとつ覚えているのは「ミスチルが好き」ということだけ。
空港に到着した時、名前を聞かれた。
「夏帆です」
この出会いは、通り過ぎていくもの。本名を教える義理なんてなかった。
帰国してすぐ家の電話が鳴る。妹が「お姉ちゃん電話〜」と受話器を渡してきた。あの無為な会話の最中に、電話番号を教えたことを後悔した。
「夏帆さんが飛行機から降りるとき、ピアスが落ちたんですよ。追いかけようとしたら見当たらなくて」
それから、定期的にあんしんくんとごはんを食べるようになった。品川で働くサラリーマンで、大井町に住んでいたあんしんくんの生活は、おもしろくんと重なるものは何ひとつなかった。代わりに、私のぎこちないリアクションをいつも褒めた。
大井町の家で何度か夜を明かした。私はその度に、「あんしんくん」が起きる前に家を出て、コンビニでコーラを買った。
理由はわからない。京浜東北線に乗り、シュワシュワと消えていく泡を眺めた。
それでも、あんしんくんは大人だった。「夏帆さんはちょっと尖ったところがいいよね」と、いつもどんな時も私を肯定した。あんしんくんは、目の前の世界を素直に受け入れるタイプだ。
ドライブデートにボウリング、ディズニーランドにも行った。雑誌に出てくるようなベタなデートも、最初こそ居心地が悪かったけれど、案外すぐに楽しくなった。ベタの世界に身をおくほどに、笑顔が上手になっていく。
あんしんくんの誕生日は渋谷のはずれにあるbar bossaに行った。新宿伊勢丹でネクタイを買って、バースデーカードも用意した。わがままな「夏帆」を肯定してくれる感謝の印だ。これを渡して、彼の前から消えようと思っていた。
別れ際、プレゼントを渡そうとすると、突然質問を突きつけられた。
「今日、僕の誕生日だし……夏帆さんの本名を知りたいな」
唐突な質問に身体が固まった。
「知ってたよ。嘘だって。キミは小さな嘘をよくつくけれど、そういうのは案外周りにバレてる。まぁ、それでもいいって思ってたんだ」
思わず涙が流れた。きっと家に電話をかけてきた時から、彼は私の名前が夏帆でないことを知っていたのだろう。
自分が憧れる人間よりも、自分に正直な人間になりたくなった。紙袋に入ったバースデーカードはそっと抜いて、本名を告げる。
「かおりっていうんだ」
あんしんくんは、私を抱きしめながらこう言った。「大丈夫。かおりさんはそのままでも十分おもしろいから」。
ずっと、おもしろくんに言って欲しかった言葉だった。
***
久しぶりに会う「おもしろくん」の口から出るのは愚痴ばかりだった。「あいつより俺は仕事してるのに」「うちの会社は経営が下手だから」。そんなに嫌ならやめればいいのにと思いながら、「『ワンダフルライフ』、観たいなぁ」と映画に誘ってみた。彼の顔は明るくなるどころか、もっと曇った。
「え、なんで」
「監督、テレビ制作会社の人でしょ? すごいよねー。夢がある。もしかして知り合い?」
フォローするつもりの発言は、あまりうまく作用しなかった。
「……あの人がいるのは、すげーいい会社でうちとは違うの。チャンスが降ってくる場所なんだよ。もっとすごい人、いっぱいいるよ。俺だって……」
おもしろくんは、つまらなくなっていた。気持ちを悟られまいと、テレビで流れる芸能ニュースを指差して「くだらいよね」と沈黙を誤魔化す。今、彼が映像業界でどんな仕事をしているのか私は知らなかった。
その晩、つらい夢を見たのか、うなされる彼に何度も起こされた。目から涙が流れていた。私はそれを拭った。「キミは大丈夫だよ、おもしろいもん」。呪文のように唱えた。
目を覚ますと、朝なのに空は全然明るくなかった。
このラブホでは幾夜も過ごしてきたものの、初めて窓を開けた。雨が静かに降っていて、泣いているようだ。狭い道路に、向かいもラブホ。ネオンが枯れた朝の円山町は無感動だった。あの運命的な出会いから遠くへ来たけれど、どこにもつながってないことがよくわかった。
ホテルから出て、あまりの寒さにコートのポケットに手をいれると、硬い何かが入っていた。あんしんくんに渡し損ねたバースデーカードだ。手帳に挟んだはずのものが、ポケットから出てくるとは思いもしなかった。
その足でコンビニに入って、コーラを買った。身体がすーっと冷えていくのがわかった。
***
結局、私はあんしんくんと結婚した。結婚の決め手? 彼がよくできた人間だったことは言うまでもなく、名字が「小沢」だったからだ。小沢健二と結婚したみたいで嬉しかった。
理由はどうであれ、私はいち母親として幸せに暮らしている。あれだけ馬鹿にしていた普通の生活は結構忙しい。ママ友の付き合いに、日課の皇居ランもあるし、メルカリの発送に追われつつ、クックパッドを見ながら献立を考える。
あのとき、私がもう少し大人だったら。
振り返って、ありもしない「今」に想いを馳せる。でも、脆い私は頑丈な幸せが欲しかった。「おもしろくん」は、まだ儚い夢を求めてネオン輝く道を歩いているんだろうか。
ふいにFacebookの通知が来た。iPhoneに表れた懐かしい名前に、体温が一瞬であがった。
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これは、小説でもエッセイでもなく、明日文庫版がリリースされる、燃え殻さんの小説『ボクたちはみんな大人になれなかった』をもとに書いた文章だ。作中に出てくる"最愛のブス"こと「かおり」目線で物語を見る。同作のパーツを組み合わせて作った二次創作だ。原作を読むと、あそことあそこが繋がって……となるように仕掛けてある。
正直に生きるよりも、自分が憧れる人間になりたくて、嘘と記号で塗り固めたあの頃。どんなに足掻いても喪失しかなかった。『ボクたちはみんな大人になれなかった』は、妄想で隙間を埋めてしまいたくなるくらい、共感せずにはいられない物語だ。
その中に、「ボク」ではなく「私」の視点をいれてみたくなった。出産と育児が重くのしかかるからだろうか。20代の恋愛には「刺激か、安らぎか」という二者択一が設けられることが多い。この問いは「嘘か、誠か」だったり「夢か、現実か」にも置き換えられる。
文章の中で嘘をついているのは「かおり」一人になっているが、はたして本当にそうだろうか?
「おもしろくん」であるボクは、この天秤を想像すらしない。同じ景色を見ているつもりでも、二人は笑ってしまうくらい交わらない。
それにしても「大人」という言葉は便利だ。いつだって到達できない存在を指すのだろう。
きっと、「ボク」は最初から大人になる気なんてなかったのだ。
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