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【大学/社会人】就活での誤算、そして転職へ

おはようございます。
自分のことを割と赤裸々に公にするのは初めてですがやってみると振り返ると同時に潜在的な意識が表面化したりして面白いなと実感中の西岡です。

さて、今日は自分の話ウィーク第5弾。大学生、就活編です。

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情けない自分と直面することに
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当時の僕は、アルバイトでもある程度の地位にいて、友達も多く、充実感はあった。でも家は落ち着いたものの、まだまだ課題が多く、本当の意味では落ち着いてなんていなかった。そのせいもあり、自分の弱さゆえに外で過ごすことが日に日に増えていった。帰りたくなかったわけではないけど、帰りたいわけでもない、そんな日々だった。

帰ったら帰ったで、親といらないケンカをしてしまったり、反発してしまったり、、、人生で母親と一番喧嘩をしていたのはこの時期だったと思う。お互いにカーッとなると激しいので、お互いを言葉で傷つけあっていた。。。でも次の日には、前日に出した洗濯物が畳まれた状態で置かれていたり、ご飯が出てきたり、、、そんな状況に僕はイライラしていた。もちろん自分に。

どんなに喧嘩をしても、ひどい言葉をぶつけても、その場では応戦されるものの、母親としての仕事を全うしていく姿を見て、自分自身のダサさと向き合わざるを得なかった。辛かった。何かを変えたい、でも変えられない自分の弱さ。本当にどうやって自分を制すればいいのか、どうやったらもっと許したり、やるべきことをやったりできるのか、考えていた。。。そんな時、先輩が住んでいた部屋が空きになるという話を聞いた。

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都内に実家があるのに一人暮らし
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人から見たら贅沢に映るかもしれない。でもこれは贅沢ではなく、自分を自分の力で変えていくには当時の自分にはこれくらいしか思いつかなかったし、できなかった。学費だけは工面してもらいつつ(結局は奨学金をかりることにはなる)、仕送りはなし、すべてを自分のアルバイトから生活費を出すという条件で僕は家を出た。一応、円満に。

ここで、生活は一変する。
昨日さぼったことは次の日にもれなくのしかかるという、完全自己責任生活が始まった。そして家事をしてくれていた母に感謝することにもつながったし、適度な距離が生まれることで、たまに会っても以前ほど喧嘩はしなくなっていた。(もちろんたまにしますw)

アルバイトは、実家のころからハンバーガー屋さんをやめて、夜中働けるし、さらなる経験値を求めてバーで働くことにした。一人暮らしを始めた家はバーから徒歩3分。ここからはどっぷりと仕事生活だった。大学は行かせてもらった立場で申し訳ないけど「大卒」というものをもらいに行っていたようなもの。昨日の記事であれだけ大学なんて、って言ってた割にという矛盾はあるものの、そういう生活を送っていた。

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充実に満ちた大学生活
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大学生活というには図々しいくらい仕事ばっかしてたけど楽しんでいた。週に5か6は仕事に行き、仕事が終わるのはだいたい朝9時。(営業時間が8時までだったのでw)日によってはそのまま学校に行って、授業を受けたり、受けなかったりしながら、夜にはまた朝まで仕事。月収は20万以上はキープできるように働いてたからなかなか働いていたと思う。

大学生同士の楽しそうな集いには誘われるものの、ほとんどいけず、身体もきつかった。それでも、それなりに恋愛もして、仕事にもプライドを持っていて、学校に行けば友達がいる。すごく充実していた。

そして就職活動目前の時期にさしかかる。

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IT企業の社長からのお誘い
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バーのお客さんで仲良くさせてもらってる社長さんとある日飲みに行った。その時に数学の話だけで3、4時間くらい盛り上がって楽しい時間を過ごした。すると、後日お昼に呼び出され、「うちの会社見に来ない?」というお誘いが。この時期はまだビックサイトの就活イベントに2回、エントリーシーとも書き始めようかなくらいのタイミングで、全然ピンとくる企業とも出会っていなくて焦り始めていたころだった。二つ返事で是非!と応え、後日オフィスにお邪魔した。

その会社は当時5,6人くらいだったかな?小規模のIT企業だった。オフィスは大都会のど真ん中の人が集まるエリアにあり、とても心地よいオシャレなオフィスだった。「こんなとこで働けたらいいな」と当時の僕に思わさせるには充分すぎた。興味があれば入社も検討してね的な言葉も頂戴し、「ITに興味があって本気になれれば絶対向いている」という太鼓判まで押された。数学の話で盛り上がった時に、そういう素質を感じてくれたらしい。それがとてつもなく嬉しかった。少しは悩んだと思うけど心はその場でほぼ決まっていて受諾のの返答をした。ただ、その時に社長に「でも就活は今しかできないからやっておいたほうがいいよ」と言われた。でも対して就活と向き合わずして開放感に包まれていた。。。

ひとつ加えて言うならば、飲食に進むつもりはなかった。一番の理由は、「オーナーしか稼げない」という飲食の課題を実感していたから。まーそれを理由にしていたこと自体は今思えば浅いけど、当時の僕には飲食の仕事は「いつかまたやりたい仕事」として処理されていた。

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浅はかな考えゆえにミスマッチが
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「就職決まったし!あとは残りの数か月を楽しく過ごせば社会人だ!」という大人になれるという嬉しさと、残りの学生生活を謳歌するぞという想いで日々を送っていた。その合間で、就職が決まっていた社長のところに行って入門の入門の話を聞いたり、「このPC持って行っていいから家でもいじってみたら?」という形で少し「IT」に触れていくという作業も進めていた。このときの僕は新しいことを始める嬉しさと、社会人のすたーとらいんにたっているという喜びで前向きに取り組むものの、何をしたらいいかがわからない、どうしたらどうなるかというロジックもすぐに壁にぶつかる、なんかやればやるほど泥沼にはまっていくようにどんよりとした気持ちでPCと向き合っていた。OSを作る?HTMLだけでページを作る?スタイルシートを勉強?データベースに入って編集する?全部少しはわかるけどすぐにやってくる目の前の壁を打破するエネルギーも知識も持ち続けられなかった。

そんな僕の様子に気づいた社長には「正直、好きで好きでのめり込んでるやつばかりの世界でその感じだとやっていけないよ」という指摘を受けた。僕はここで判断を誤る。僕の心には「まだ大学生、卒業してちゃんと向き合えばできるようになる、のめり込める、でも今はそれができない」という考えに支配されてしまう。「なんでまだ入社してない僕に、PCなんてほとんど障ったことのない僕に、ヒントも大してくれない中で独学をさせるんだろう」という間違った認識を社長に向けてしまった。自分の浅はかさゆえのことなのに、人のせいにしてしまった。当時は最後まで誤った姿勢を続けてしまい、内定を蹴ることになった。本当にあの時はその社長さんに失礼なことをしたなと思ってる。その社長さんとの関係は良好のままで今に至るけど、それもその社長さんの器の大きさのおかげだと思います。

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再・就活!でも時期が、、、
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一生懸命頑張っていたバーの仕事も大学4年の1月に卒業していた。最終日にはあんだけ泣いたのは人生においても最初で最後だなと思えるほど、達成感?完全燃焼感?に包まれての卒業だった。
そして、先ほどの話の内定を蹴ったのが、大学4年生の2月。卒業まであと1か月。

笑えるくらい手遅れの状態w
就職に向けて引っ越しをしたり、アルバイトも辞めていたので、急きょ日雇いの仕事(これがなかなかきつかった。今思えばいい経験w)を始めながらの就職活動。求人も新卒なんてこの時期に採用してくれる企業なんてないから中途採用の求人に手紙付きで今の状況と熱い思いを記して履歴を送った。そして卒業してから約1か月、ゴールデンウィーク明けから、という形でようやく社会人になった!!

仕事は広告系の提案営業。ITに進まないと決まった時から広告には興味があり、自分のできることとやりたいことと照らし合わせながら考えた結果、提案営業という職種の求人を選んだ。

「ここをスタートに経験を積んで30までに起業するぞ!」という気持ちだった。広告の仕事はミーハーな僕にとって、ものすごく楽しくてすぐにはまった。営業でありながら、技術者のところに通い、いろいろ教わりながら独学でイラストレータやフォトショップを覚えた。(フォトショップは苦手ですが)

そして入社2年で、他の小規模な会社からのお誘いを受けて転職。そこで少数という分母の少ない環境で、一人の頑張りや怠惰が会社全体の売上に直結するという経験を積むことになる。でも上司にも恵まれ、自由に自分で考えてやらせてくれる社風で本当に勉強になった。このままこの業界で、起業を目指す方向なのかなと思っていました。

東日本大震災をきっかけに仕事に対する価値観が変わっていき、人生設計も大きく変わることになる。。。

続きはもう過去に書いた記事がちょうどいいです。

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