思考はいったいどこからやってくるのか。自分に対し意地悪なのは自分自身という事実。
私はいつもどんな時でも頑張り続けなければならないと思ってきた。そしてそんな自分は他の誰よりも自分自身に対して意地悪で辛辣な言葉を浴びせてきた。
仕事が大変だと感じる私は根性がない。
出来ないのは自分が(人と比べて)劣っているから。
同期の○○さんは出来るのに私は…。
私は周りから優秀でないと思われているだろう。
良き彼女でないとパートナーから選ばれない。
パートナーが浮かない顔をしているのは私のせいだ。
あの時のあの発言が、態度が・・・ひねり出そうと思えばいくらでも思考は自分のダメな材料を作り出す。
なぜなのだろう?
本当は自分に幸せになってもらいたい、
自分自身のことを誰より幸せにしたいはずなのに
どうして自分をいじめてしまうのか?
私自身に意地悪をしてくる思考。
思考はいったいどこからやってくるのか?
そしてそれは誰のものなのか?
思考をよく観察しているとそれは自分自身の声ではないことに気が付く。それは親の声、社会の声、常識、いつでも他人からの目線だ。
私は私でしかないのになぜその私以外の誰かの声にいつも振り回されているのだろうか。
私は来月仕事を辞める。いまの仕事は私にとってとてもハードな仕事で、身体を時より壊していた。
売上にがっつり関わる仕事で、私がミスをすれば会社の損失にもなりとてもプレッシャーが重い仕事だった。それもチームではなく個人で戦っていた。そのわりに入った時の引継ぎは雑で入社して1カ月でほぼ丸投げ状態。
「じゃ、あとよろしくー!」と軽い感じで引き継がれた仕事は私にとってとてもヘビーで、今思うととても一生懸命にやっていたと思うし、あの雑な引継ぎで私はよくここまで大きなミスもなく、売上をコツコツ伸ばしてこれたと思う。
でもそんな中でも私は毎日毎日自分を責めていた。
誰も私を責めていないのに。
これこそが思考の罠だ。
誰よりも自分に一番意地悪なのは私であり私でなく、それはただの思考だった。
失恋をしたときも、友人との関係が上手くいかないときも、親子の関係性に悩んだときも、私はいつだって自分のことを責めていた。
パートナーとして選ばれない私は欠陥品だと自分に酷い言葉を浴びせ
、生きている価値がないと感じさせた。やっぱり私は愛される価値がないのだと自分を責め立てた。誰が??????他の誰でもなく私自身が。
なんと恐ろしいことでしょう!
でもパートナーと別れることになったのは別に私だけのせいではないし、私たちは合わなかった。それ以上でも以下でもない。仕事も私は自分に向いていないことを無理して取り組んでいた。プレッシャーが重い仕事よりも、お客さんともっと近い、コミュニケーションが取れる仕事や動きのある仕事が自分には合っているのかもしれない。実際、ヨガのインストラクターをしていたとき、これでお金をもらっていいのか!と思っていたほどだ。
人には適材適所があるし、不快な感情を感じることがあったときに変に難しく考えすぎない方が良い。私はこの年末年始、失恋や退職の意を固めるにあたり、それを学んだ。
もっとシンプルでいい!!(前にもこのセルフ言った気がする)
私の頭の中は長らく複雑だった。それは心理学、カウンセラーの学びをしていたこともある。不快な思考を見つけては掴んで離さなかった。そしてそれを分解して、中に何が隠れているか見つけ出そうと必死に掘り返した。
でもその思考自体が私のものだとは到底思えない今、掴む必要がなくなったのだ。
それはただ起きている。
それだけだ。
それ以上でも以下でもない。
その悩み、不安や怖れがわいたとき、私たちに出来るのはただ見守るだけ、以上。なのにその不安や怖れをいちいち掴んでは分解し、そしてそれを複雑にするのもまた思考なのだ。
ただただ見守る。
「いま、不安という感覚が起きているね」と。
2~3年前、インスタを開けばセルフラブ、セルフラブ!と発信者たちの投稿が目に入り、私はインスタ自体をやめてしまったのだが(また好きなもの収集の自己満アカウントを始めようかと思っているけど)、いま思うとその自分を愛そう!というメッセージも何だか重たく感じてしまっていたのだろう。
それらは私にとってセルフラブハラスメントだった。
「自分を愛そう」ってメッセージばかりを目にすると、なんだかそれって素敵!と取り入れようとするけれど、それが出来ていない自分を見つけた時、鬼の首とったみたいにまた自分をいじめだす。
「自分を愛せていない私はダメなんだ。だからセルフラブを発信しているあの人みたいにキラキラになれないんだ…」そう落ち込むであろう。
自分を愛せないときだってあるかもしれない。
優しくできないときだってあるかもしれない。
そんな時はただその状態が自然に起きているだけだ。
それは私自身、あなた自身のものではない。
自分自身の身体に磁石のプラスかマイナスの因子がある。そして、自分の周辺にある目に見えない思考の元になっているようなものがフワフワ漂っているとイメージしてみて欲しい。そしてそれらにもプラスやマイナスの因子があって、その時の自分の状態にあったものが自分自身にピタっとくっついてくる。
それらが思考となり、私たちに嫌な気分や怒り、ときには幸せな感情として現れてくる。思考とはそんなものなのだ。
自分の中の因子が変われば思考も変わってくるし、それとセットで感情も変わってくるだろう。だから思考に執着する必要もなく、いちいち掴んで離さない、ということをするのはやめていこう!
思考は私たちそのものではないのだから。
となると私とは何者なのか。と疑問に思うが長くなるのでまた今度。
最後までお読みいただきありがとうございました!ではまた★
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