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父を恐れた僕と、死を恐れた父の話。

※少し暗い話になります。
 僕と父の関係性について、経験してきたことを書きましたが、
 不快に思われる方もいらっしゃるかもしれません。
 ご了承の上、お読みいただけますと幸いです。

僕は父が嫌いだった。
嫌いだったというのも、亡くなってからずいぶん経つ。

8年ほど前、
社会人になり実家を離れ一人暮らしをしていた僕。
出社する前にコンビニに寄って野菜ジュースを飲む。
毎日のルーティン。
当たり前の日常は母からの電話で突然崩れる。

『お父さん死んじゃった』


#
僕は、3人兄弟の長男として生まれた。

いわゆる、2世帯住宅。
一緒に暮らしている父方のおじいちゃん、おばあちゃんが小さいころから大好きだった。特に幼少期は祖父母に遊んでもらった記憶であふれている。祖父は僕が小学生の頃に亡くなっちゃったけど、いつも遊んでくれて優しかった。祖母は今でも健在!もうすぐ100歳になるけどまだまだ元気!

一緒に遊んだといえば2人の弟。
公園で野球をしたり家でゲームをしたり、当たり前のように殴り合いの喧嘩もしていたけど、毎日が楽しかったのは2人のおかげ。

そして、そんな僕たち3人兄弟を暖かい目で見守り、一緒に遊んでくれた母。

僕は、家族が大好きだった。
友達を家に招いて兄弟、母親も交えて一緒に遊ぶ。
僕にとって家は大切な存在だった。

でも、それは日が落ちるまでの話。
夜になると家で過ごす時間は一変する。


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僕は父が嫌いだった。
遊んでもらった記憶なんてない。

父の車のエンジン音が聞こえ、ブレーキランプで部屋が赤く染まる。

僕たち兄弟が身をひそめる合図。逃げ込む場所は決まって祖父母の部屋だった。父は祖父母との関係も悪く、よっぽどのことがない限り僕たち兄弟の安全地帯だった。父がくつろぐリビングと祖父母の部屋は隣で、遮るのはふすま一枚だけ。このふすま一枚がどれだけ心強かったか。

父と祖父母も親子なんだからもっと仲良くすればいいのに、、、。でも仲が悪いおかげで僕たちが逃げ込めるからいいのか!って子どもながらに父から逃げる術を考えていた。

父は、リビングで酒を飲み、母とご飯を食べ、また酒を飲み始める。大げさじゃなく、ずっと酒を飲み続けていた。仕事があろうがなかろうが毎日。そんな父を怒らせると、手が付けられなくなる。

遊んでもらった記憶がない分、怒り狂っている父の記憶が残っている。だから、僕たち兄弟は父から距離をとることに全力だった。

でも、僕たちだってまだまだ子供。
父がいても兄弟喧嘩するときはする。泥酔しながら、激しい足音を立てて祖父母の部屋に乗り込んでくる父の姿は今でもトラウマ。

罵声だけで済めば、まだまし。スリッパを叩きつけられたり、体をつかまれぶん投げられたりもした。

父が恐怖だった。

日が落ちるとまた父が帰ってくる。僕にとって、家での楽しい思い出は日が昇っている時間に限られていた。


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僕は父が嫌いだった。遊んでもらった記憶なんてない。
愛を感じたことがない。

単に子ども嫌いで厳しく当たっているのであれば理解できたのかもしれない。でも、父はおそらく子供好きで、息子たち以外には好かれる人だった。

父は、強豪校でバレーボールを極めたスポーツマンで、僕が通った小学校~高校までのバレーボール部に入り込み、コーチのようなことをしていたらしい。(僕はバレーボール部を避けてたから見たことはない 笑)

名前も知らない同級生から、お前の父ちゃん面白いな!って話しかけられることが何度もあった。

話を聞く限り、子どもの心をつかむのが上手いタイプの大人。

だから、余計に父のことが嫌いになった。

自分の子どもに対しては一緒に遊ぶどころか、会話もない。
でも、本当の父は子供好き。

僕たち3人の息子をわざと嫌っているとしか思えなかった。

小さいころテレビか何かで、夫婦間で役割分担して怒り役、褒め役を決めようって話を聞いたことがある。父は怒り役を演じているのかな?って考えたこともある。

でも、いくら何でも度が過ぎている。そう、父からは愛を感じない。全く感じなかった。

僕たち兄弟が父に嫌われることをしたのだろうか。。。父から愛を全く感じないのは父のせいなのか、僕たちに原因があるのか、僕には理解できなかった。


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僕は父が嫌いだった。遊んでもらった記憶なんてない。愛を感じたことがない。
一緒にいることが苦痛。

父と一緒に遠出することなんてめったになかった。だけど、唯一定期的にあったのが、母方の祖父母宅へ遊びに行くことだった。

祖父母宅へ車で一時間ほど。
車は父が運転する車、母が運転する車、2台に分かれて行く。僕含め兄弟全員が思っていたこと。

『母の車で行きたい』

だけど、全員が母の車に乗り込んで移動するのは、さすがに父がかわいそうすぎると思っていた。

父が運転する車で1時間、わけの分からない謎のBGMに集中して気を紛らわす時間は本当に苦痛だった。

長男として僕が犠牲になり、父の車に乗り込むことがほとんど。

この1時間は本当に長く感じた。
(帰りもあるから計2時間なんだけどね。。。)

でも、一つだけ楽しみもあった。帰りに必ずコンビニに寄る時間。そこでアイスを一つ買っていいって暗黙のルールがあって、帰り道に車で食べるアイスが心の救いだった。

弟も母も知らない、父と僕だけの暗黙のルールだった。


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僕は父が嫌いだった。遊んでもらった記憶なんてない。愛を感じたことがない。一緒にいることが苦痛。
話しかけることもない。

父の体に異変が出始めたのは、僕が大学4年生の頃だった。父は日に日に痩せていった。ダイエットとか、食事がおろそかになってとかそういうことじゃない。

明らかに異常な痩せ方だった。
母、祖母からさすがに病院に行った方が。。。と父に”お願い”する声を耳にすることが増えた。それでも父は病院に行こうとしなかった。

そして、僕たち兄弟は父の異常な痩せ方に気付いていながら話しかけることはなかった。

なんて話しかけたらいいか分からなかった。

ある日、父が暴れまわっていた。
昔から怒鳴ったりすることは度々あったけど、この日ほど恐怖を感じたことは無かった。

祖母にむかって、

『てめぇのことを親だと思ったことはない、近寄んじゃねぇ』

って暴言を吐いていた。
僕は、耳を疑った。
さすがに言っていいことと悪いことがある。

そして、
普段父の唯一の理解者として努めていた母に対しても暴言を吐いていた。
父が唯一愛していたであろう、母に対して怒鳴り散らす姿を見たのは初めてだった。

おそらく、父自身も自分の体の異常に気付き、もう手遅れだということを理解していたのだと思う。このまま放っておいたら、自暴自棄になって包丁とか取り出して暴れまわるんじゃないかって本気で思った。僕は、母、祖母、そして自分自身を守るために動かなくちゃいけないと思った。

気付いたら、僕は父の後ろに立っていた。

この時のことは今でもはっきり覚えている。
暴れまわり体力がなくなり、洗面所で頭に水をかぶり、肩で息をしていた父の後ろ姿。

なんて言っていいか分からなかった。
どうしたらいいか、何が正解なのか分からなかった。

僕は手を伸ばし、父の肩にそっと手を置いた。
恐怖で声が出せなかった。

肩に手を置いたのが僕だと鏡ごしに確認した父は少しびっくりした表情をしていた。
おそらく、この手は母のものだと勘違いしたのだと思う。

鏡ごしの沈黙はすごく長く感じた。

沈黙を破ったのは父の言葉だった。

『お前は心配せんでえぇ、ごめんな』

僕は、しばらく無言でうなずくことしかできなかった。
何か気の利いた事を言えばいいのか、どうすればいいのか、答えは出なかった。

言葉を絞り出したのか、無言でうなずき続けたのか父の言葉を受けた後のことは思い出せない。

翌日、母の運転する車で父は病院へ向かった。


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僕は父が嫌いだった。遊んでもらった記憶なんてない。愛を感じたことがない。一緒にいることが苦痛。話しかけることもない。
思い入れもない。

父の診断結果はすい臓がんだった。僕は診断結果を母からの電話で聞いた。

がんはかなり進行しており、既にステージⅣ、末期がんの状態ということだった。

自業自得だと思った。子供に関わろうとしない、家族の声を無視し、反発し、やせ細った体でも毎日酒を飲めるだけ飲む。その結果、末期がん。

悲しいって感情は僕にはなかった。

父は即入院することになりがん治療を受けることになる。僕は、かなりほっとしていた。

父が入院する前の数か月、死を身近に感じていたであろう父が、昼夜問わず、ずっといた。
恐怖だった。

精神的に不安定な父を見なくて済む。がん宣告を受けた父親の息子として親不孝者だと思う。でも、本当にほっとしたことを覚えている。

声には出さないけど2人の弟も同じ気持ちだっただろう。母も、僕ほどではないけど少しほっとした気持ちもあったのかもしれない。

父は末期がんの状態から、約1年の闘病生活をつづけた。その中で自宅療養の期間があって家に帰ってくることもあったんだけど、僕から父へ話しかけることは無かった。

なんて言ったらいいか分からなかった。

父は残り少ない時間を母と一緒に過ごす時間にあてていた。
妻と四国に旅行にいってお遍路参りしたり、死を受け入れようって努力もしていたらしい。

期間で言えば数か月だったと思うんだけど、毎日毎日妻と出かけていた。
本当に末期がんなのかこの人は。。。って思うほど動き回っていた。

しばらく行っていなかったバレーボールのコミュニティーにも参加しだして、運動もしていたらしい。

ただ、僕たち息子と過ごす時間は全くなかった。
このまま父との思い出が更新されることなく、永遠の別れになるのだと思っていた。

それでいいと思っていた。


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僕は父が嫌いだった。遊んでもらった記憶なんてない。愛を感じたことがない。一緒にいることが苦痛。話しかけることもない。思い入れもない。
不器用すぎ。

僕は社会人になり、地元の愛知から広島へ身を移すことになった。

初めての一人暮らしにワクワクしていた。父は入退院を繰り返していたが、先が長くないという事実は変わらなかった。

僕は、父の死に目に立ち会えないことに、抵抗が全くなかった。むしろ、死期が近づき精神的に不安定な父を見なくてすむ。

父も僕の一人暮らしを止めたり、悲しむ様子は全くなかった。むしろ、家から旅立っていく希望を持った僕を見て喜んでいるようにも思えた。

そして、一人暮らしが始まり、父のことを気にしなくていい生活が始まった。

始まったはずだった。

本当にこれで良かったのか??
僕は悩んだ。父のことではなく、 

残された家族が心配という悩みだった。

よみがえるのは、
僕が父の肩の上にそっと手を置いた日のこと。

自暴自棄になった父が家族に手を出したりしないだろうか??
この心配がずっと消えなかった。

だから僕は、3連休とか、まとまった休みがある度に実家に帰ることにした。

そして、ゴールデンウィーク、
初任給が入った僕は、父と母にペアのマグカップをプレゼントした。

このマグカップを通して、
母に対する愛情をずっと維持してほしかった。

僕が普段家にいない分、家族のことを守ってくれ。そんな思いも込めて贈ったプレゼントだった。

僕から父へ贈った最初で最後のプレゼントだった。

そして、広島に帰る日、母から紙袋を渡された。

『これ、お父さんから』

直接渡さないところがほんと父っぽいなって思った。

父と母の食卓は、
白と黒のマグカップが毎日並んでいたらしい。


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僕は父が嫌いだった。遊んでもらった記憶なんてない。愛を感じたことがない。同じ空間にいることが苦痛。話しかけることもない。思い入れもない。不器用すぎ。
理解できなかった。

僕は慣れない土地で一生懸命働いた。
左腕には父からもらった腕時計。

父から僕へ最初で最後のプレゼントだった。

そんな中、夏季休暇を迎え実家に帰ることにした。

この時、父の容体は日に日に悪化していて、いつ亡くなってもおかしくないような状態だった。

すい臓から始まったがんは、いたるところに転移している状態だったらしい。

実家に着くと父はいなかった。おそらく、父が家に帰ることはもうないんだろうな。そんなことを考えると複雑な気持ちになった。

悲しいとか、寂しいとかそういう感情ではないんだけど、当たり前のように毎日家にいた人がもう帰ってくることはないんだ。と思うと変な感じだった。

母から父のいる病院に行くけど、ついてくるか?と聞かれた。
僕は正直行きたくなかった。

だけど、今回父に会いに行かなければ、2度と会うことはないだろうってことに薄々気付いていた。

会いに行ったところで何を話せばいいか分からないし、父も僕が会いに来ることを望んでいないかもしれない。

僕は最後かもしれないっていう状況に気付いていながら、悩んだ。この期に及んでも、父が嫌いだっていう気持ちは変わらなかった。。。


悩んだ挙句、僕は母が運転する車に乗って病院へ向かっていた。

父に会うと決めた理由は、会わなかったことで、仮に、一生後悔するぐらいなら、会って一瞬気まずい思いを味わった方がましだと思ったから。


死期が目の前まで来ている父は、だれか分からないぐらいやせ細っていた。

僕が知っている父は、もうどこにもいなかった。

母と一緒に父の部屋に入り、僕は適当に座り、父と母の会話を聞いた。
適当にうなずいたりしていた。

母が、トイレに行く。と、席を立った。
残された父と僕。会話なんてない。
一瞬で重い空気に変わった。

そんな空気を破ったのは父の言葉だった。


『なぁ、俺(父)が養子だってこと話したことあったか?』

僕は理解できなかった。その言葉を聞いた瞬間、急すぎて意味が分からなかった。

『いや、聞いてない』
絞り出したような返事が精いっぱいだった。


『そっかそっか、言った気がしてたんだけど言ってなかったか!』


父は笑っていた。何笑ってんだこの人は。僕には理解できなかった。

その後、父と、どんな会話をしたか覚えていない。

会話は覚えてないけど、父の言葉で一瞬のうちに血の気が引いた感覚は今でもはっきり覚えている。

父は養子だった。

この事実を急に聞かされ、僕が一番ショックだったこと。

一緒に暮らしてきた祖父母が、実は血のつながりが全くなかった。

思い返せば、父が祖母に対して声を発する時は耳を疑うような暴言ばかりだったけど、

僕が、父の肩にそっと手を置いた日の、

『てめぇのことを親だと思ったことはない』

って言葉、父にとってある意味事実だったんだ。

事実だったからこそ、父から祖母へ一番言ってはいけない言葉でもあった。

祖母はこの父の言葉を受けた日から、父へ話しかける回数が明らかに減っていっていたし、いつも涙ぐんでいた。

僕は、親として子どもに先立たれてしまうかもしれない祖母の感情が、父との距離感、涙に繋がっているのだと思っていた。

もちろんそれもある。それもあるんだけど、それ以上に『親だと思ったことはない』って言葉。

この言葉が祖母の心を完全にへし折ってしまったのだ。僕が祖母の立場だったら人生に絶望する。とまで思った。

『親だと思ったことはない』って言葉は祖母にとって一番避けたい事実だったと思う。

息子に先立たれることで立ち直れない人は大勢いる。祖母はさらに先立つ息子に、一番避けたい事実を突きつけられてしまった。

このことを悟った僕は、父のことが本気で理解できなくなっていた。


《ちなみに、
父と祖母のわだかまりが解消することは最後までなかった。祖母が、父の生きている姿を最後に見たのはいつだったのか。そんなことを考えると悲しくなった。
父が亡くなった日、祖母は『私は葬式に出る資格がない』と泣き続け、家から出ようとしなかった。家族みんなで説得して最終的には参列したんだけど、父の亡骸を祖母が見ることは最後までなかった。後ろめたさから見れなかったんだと思う。僕は、葬式中、うつむきながら、いつもより更に小さくなっていた祖母を直視できなかった。》


僕は病室を出るとき、一切振り返らなかった

最後に見た父の表情は思い出せない。


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僕は父が嫌いだった。

出社する前にコンビニに寄って野菜ジュースを飲む。
毎日のルーティン。
当たり前の日常は母からの電話で突然崩れる。

『お父さん死んじゃった』




僕は冷静だった。

昨日まで予定になかった新幹線に乗り実家に向かう自分を、昨日の僕に教えたらどんな反応するかな?と考えたり、急にしばらく休んで仕事大丈夫かな?とか考えたりしていた。

お通夜、葬式中は数少ない父との思い出を振り返って、なんとか涙を流そうと頑張る自分がいた。

長男として泣くべき場面と思ったから。

弟2人は一切泣かなかった。

僕が涙を流せたのは、祖母や母の気持ちを想像した結果だった。

母は、父が、がんになってから、ずっと一緒に過ごしていた。

僕が唯一父を見習いたいと思っていたところ。
それは、奥さんをいつまでも好きでいられる。

ということだった。

葬式後、ゆっくり、父の亡骸を見たとき、なんだか複雑な気持ちになった。

あれほど恐れ、避け続けてきた父を今は直視できる。
だけど、会話をすることは一切できない。

こんな親子の関係で本当によかったのか。

父の姿が完全に消え、灰になった時、
僕は少しだけ泣いた。



父が灰になった日は、母の誕生日だった。


#
僕は父が嫌いだった。

父の死から8年ほど経過した現在。
僕は2児の父親になった。

父を恐れ、逃げ回った過去がある分、自分の子ども達にはいい父親でありたい。という気持ちが強い。

自分の子どもってこんなに可愛いのに、なんで父は僕たち息子を遠ざけていたんだろう?

子どもが生まれてから、更に父親の気持ちが理解できなくなっていた。


そんなある日、僕はあることがきっかけで、父のことを思い返し涙が止まらなくなった。

それは、一冊の小説を読んでいた時のこと。

伊坂幸太郎 『死神の浮力』

この小説は、人の姿に変装した死神が、調査対象の人間に『死』を与えるべきかどうか判断する。

ということが本筋のストーリー。

この小説の中で、あるやり取りが描かれていて、そこに父が重なって見えた。

ストーリーを通して、主人公(人間)は亡くなった父のことを思い出す。

仕事人間で家庭のことはそっちのけ、自分の好きなことばかりする父が描かれていた。

でも、話が進むにつれて、なぜ仕事人間になり家庭をおろそかにしていたのか、父の口から語られるシーンがあった。

『死が怖かった』

死を迎える時、父の中で、息子との思い出が消えてなくなってしまうことが恐怖だったと。

息子もいつか死ぬんだ。。。という事実が父親として恐怖だったと。

死が怖い。だから、先に見といてやる。安心してお前もいつか来いよと。

この小説に出てくる父親と、僕の父が完全に重なって見えた。

実際に父から聞いた話ではない。

だけど、この小説を読んでから腑に落ちたことがある。

父は、僕たち兄弟のことを父なりに愛していたんだ。

本来、子供好きな性格だった父にとって、僕たちは素直に愛せない、特別な存在だったんだ。


後々、祖母から聞いた話なんだけど、

父が子どもの頃、一般的な家庭同様、親と子どもという関係で毎日仲良く暮らしていたらしい。

でも、祖父母からすると、ずっと父に言わないといけないことがあった。

『父が養子であるということ』

父が理解できるタイミングで。と考えた祖父母は、重い事実を父が大人になるまで打ち明けられなかったそう。

大人になった僕ですら、実は祖父母と血がつながっていなかったって事実を簡単に受け入れられなかった。

それが、実の両親が他人でした。と告げられた時のショックは想像を絶する。

もちろん、祖父母を責めるわけではない。本当に難しい問題。祖父母もかなり悩んできたんだと思う。

でも、この出来事が起きてから父の中で何かが変わってしまったのだと思う。

父の中で、両親からの愛は偽りのものだった。と解釈してしまったのかもしれない。

ここで、父が祖父母から受けてきた愛がパッと死んでしまった。

この恐怖が、息子を愛することを遠ざけていたんだと思う。

父は、誰よりも母のことを愛していた。そのことだけは僕の目から見てもよく分かった。

でも、
本当は、母のことより、僕たち3人の息子のことを愛してくれていたんだと思う。

一度、愛が死んでしまった経験をした父は、母に対しての愛で精いっぱいだった。

母への愛が死で消えてしまう。母の死で父への愛が消えてしまう。その死の恐怖で父は精いっぱいだった。

僕は、父からの愛は感じられなかった。
だからこそ、
父の死に悲しみを抱くこともなかった。

それが、父なりの愛情だったのだと思う。一度、親からの愛がパッと死んでしまった経験をした、父なりの優しさだったのだと思う。

父にも、僕にも、『親子』としての楽しかった思い出なんて残っていない。

それが、父にとっての優しさだった。



でも、
僕が父親になり、
子どもが出来た今、
ふと、あることに気付いた。


父は、たくさん『失敗』していた。


#
僕は父が嫌いだった。

今、僕には2歳になる息子と、9か月の娘がいる。

最近、息子は、遊びながら寝落ちしてしまうことがある。



『しょうがないなぁ、、、風邪ひくぞ!』

寝落ちしてしまった息子を、ベットまで運ぶのは僕の役目。

薄明りの中、息子をお姫様抱っこで抱きかかえる。

急に抱きかかえられた息子が、起きてぐずる。

僕は、息子をベットに移し終えた後、妻に話しかける。



僕が床にうつ伏せで寝っ転がっていると、息子が飛び乗ってきて、背中の上で足踏みする。

最初は痛いけど、少しづつ気持ちよくなってきて、息子に踏む位置をリクエストする。

その姿を見て、『痛くないの~?』って妻が話しかけてくる。

しばらく経ち、興味をなくした息子が走り去っていった後、妻に話しかける。



最近、『パパ』って言えるようになった息子。
足元まで走ってきて、パパー!って言いながら両手を思いっきり伸ばしてくる。

僕に思いっきり遊んでほしい時にする仕草。

高い高いから始まり、人間ジェットコースターをした後、人間ロケットをして、お馬さんごっこをする。

子どもの体力はえげつなく、途中で切らないとエンドレスで続く。

『体力の限界ーーー!!!!』

って言って倒れこみながら、妻に話しかける。




『俺、父親と同じことしてるわ』





#
僕は父が嫌いだった?

今思い返せば、
本当に不器用な父親だったと思う。

愛情表現の仕方は人それぞれ。
でも、表現しないことが愛情って。。。

父のおかれた環境から、
この愛情表現を選んだ理由はなんとなく理解できた。

でも、僕は、自分の子どもを、全力で愛し続けたい。

僕が死ぬとき、子供との思い出がすべてなくなってしまうと考えると確かに怖い。死が前提としてある世の中で、愛することにためらいがある気持ちも、親となった今、確かに分かる。

だけど、

死が前提としてある世界だからこそ、
今を楽しむしかないじゃん。

結局死ぬから。。。って考えると、遊ぶこと、働くこと、食べること、今日を生きること、全部否定することになってしまう。

そんなのつまんないじゃん。

だから、僕は家族全員を愛し続けたい。
まだ、愛し足りなかったかな?
って後悔しながら死んでいきたい。


僕は父が嫌いだった。

でも、父のことでこんな長文をかける僕は、
ある意味幸せなのかもしれない。

父からもらった腕時計は、
今でも時を刻み続けている。

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