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ヌード撮影の現場で聴く告白、からの回想。メイキングof【静寂に耳を澄ますということ】Ⅱ

つづきです。

ホストとして僕が生き残っていくには、僕は他の若いイケメンたちとは「明らかに違う」ということを自覚して、そこを「活かす」しかないという結論に達しました。


俳優時代でも、その考えはとても役に立ちました。
多くの俳優志望は、誰か自分のお気に入りの「真似」に終始します。
「こうなりたい」と願う事はもちろん良い事なのですが、その路線だけを進むのでは最高で「あこがれの人の劣化版」にしかなれない事をきちんと自覚する必要があります。
例えば僕は松田優作さんに憧れていましたが、僕がどんなにそっくりにしたところで「松田優作の劣化版」がギリギリです。それ以上はありません。
また残念なことに僕は彼に似ていません。
どちらかと言うとマイルドな顔をしています。
悪く言えば「特徴がない」顔です。


これは俳優として致命的なのでしょうか?
テレビタレントならばキャラクター付けを必要としてます。
しかし、僕がそれをしたところで限界があります。
ならば、その「特徴が無い」を最大限に生かすことができ、それに「価値」を付けられるのはどこか考えました。


個性派はたくさんいますが、その中で「無個性」であることをアピールしました。
多くが「個性」を前面に出していますが、それは俳優のエゴに過ぎません。
演出を経験すると分かりますが、物語を語る時に個性を出すことがマイナスになることが多くあります。
そんな場面で、自分のエゴを失くし、ただ物語を進めるためだけに存在できる「無個性」という「価値」は重宝されました。
同じ映画に別の役で「三役」こなしたこともあるほど、使い勝手の良さに集中しました。


なので「俳優なんて一握りのスターだけが成功する」という言葉を凌駕する「無個性のプロデュース」で生活はとても楽でした。


今回も「自分」という人間の使い道を考えました。
僕は「皆より年齢が上」で「イケメンではない」
もっと言えばふっくらとしていて「スタイルも悪い」


それを活かすことにしました。
イケメンではないということを「安心できる」としました。
ふっくらとした体形を「可愛らしい」とアピールしました。
簡単です。カッコつけるのを一切やめました。
カウンターでニコニコとしてしました。


またもう一つのスキル。
演出家です。


僕は年齢が高めだということで相談したくなるタイプとして存在することに。
イケメンではない熊っぽい外見から、安心してグチを言えることを「個性」として、様々なグチや悩み事を、より良い方向に「演出」することを提供しました。


これが大ヒット。
どんな悩みでも、否定しないで聴く。いまに繋がっている僕のスタイルはその時に誕生したものです。
その悩みの中には、ずっと人に言えなかったことも多くありました。
彼氏とのことに悩んでいる方も、付き合いが続かない方も、
その会話の中で僕は必ず「相手の味方」でいました。


こうした「演出術」で僕は負債を5年で返済し、起業しました。


ホストはすぐに辞めましたが、相談は続けていきました。
そうすることが僕にとって自然だったからです。
思えば僕は父親を知らず、女性の中で育ったので女性と話をするのは性に合っていました。
この父親を知らないということが、後に僕の「運命」だと知るのですが、それはもう少し後になってからです。


演出家として、写真作家として様々なタイプの方とお知り合いになり、多くの対話をすることになりました。演出はつねに対話から始まり、対話によって進化するものです。
また僕のスタイルは本当に親身になることが重要です。なのでいつの間にか「ゆーりママ」と呼ばれるようになりました。
とても光栄に感じています。


僕は「ママ」としてたくさん対話をします。
その対話は、サウンドのマッサージでもあります。心にある老廃物を取り除くためのマッサージ。
そうしたマッサージをすることは、身体を解すと同時に気持ちも解します。
身体を解すことで得られる自分の体への「理解」


カメラの前で脱ぐことで、まったく感じたことのない感覚になることがあります。
その「始めて」の感覚に、体は緊張で固くなってしまいます。
そうした緊張も、僕は「認める」ことが大切だと思っています。
なので「リラックスして」や「緊張しないで」とは言いません。
緊張しているのか普通の事だと伝えます。
緊張することは悪い事ではないと、それでいいんだと伝えます。
「緊張するな」と言ってほぐれることはありません。
そうした緊張する場の空気感を変えることが演出家の腕の見せ所です。



音楽やユーモア、時にはエロティックな会話。
センシュアルな時を持つことは決してタブーではないことを知ってもらいます。


センシュアル(官能的)な感覚は誰もが持ち得るものです。
ここを大切にしていくこと。特に女性は【官能】を取り違えられ「欲望」の対象となることが多々あります。


まっすぐに【官能】の表現に取り組み、意志のある生き方を選んだものであることをもっと証明していくことが大事です。


「性」を描くと、その多くがまだ男性向けのAVなどのようになってしまう。
最近では「AVはファンタジー」だとの発言も増えてきましたし、女性向けのAVもあります。それでもまだまだ認知されていないのが女性の身体が求める【官能】


「気持ち」


その高まりがなくては【官能】は生まれませんし、それでは身体は痛むだけです。
それをしっかりと捉えること。
謝った認識が無くなるように、僕は正しく、望まれる【官能】の瞬間を撮ることに集中する。


ファインダー越しに、情を通わせる。相手を想う事を忘れない。
大切に、とにかく大切に。


ヌード撮影は、恋の賛歌に似ています。
非被写体の美しいところを愛でる。
いかに「あなたが美しいのか」を伝える。それが全てです。


心を満たすこと。
それが出来るのは心だけです。
僕は撮影を通して、その人の美しさを伝えます。その作業は丁寧でなくてはなりません。

そのことを知ったのは、やはり相談事を聴き続けたこと。
求めるものは何ですか?
それを僕はどうやって与えられるのか?


写真は「視点」です。
もっとも女性を美しくとらえるのは、愛情ある「視点」です。
だから僕は対話を通して「愛」に迫ます。
僕が撮ったポートレートを観た皆さまが「始めて自分の顔を好きになった」と仰ってくださいます。
それは「自分自身をいとおしむことができる」瞬間です。
自分でも、自分を愛さなくてはなりません。
それが無くて一方通行な愛情のやり取りでは歪な愛情の流れになってしまいます。
愛をもって、愛を生む。


例えばセックスについても、子宮口そのものは感覚をもっていません。
セックスで「感じる」という事は精神的充足が不可欠です。
愛情で満たされることで、始めて存在する感覚なのです。
それを得るためにも「愛」を身体に染み込ませること、とても重要なことです。
そこから「幸福感」が体に流れるようになり、全身が美しく輝き始める。
ただ挿入するだけのセックスが苦痛なのは、そうした理由からです。


セックスが大切なコミュニケーションであると言うのならば、そこに(不快という意味の)苦痛があることは良くないと思っています。
もちろん快感を伴うのならばそれぞれの価値観であるべきだとはおもいます。
それでも自分が嫌だと思う事を、少なくとも「嫌だ」と言えない環境では幸せは生まれない、そう思います。


僕はとにかく女性が幸せでないことが許せないようです。
何か、自分の内なる声に突き動かされているように。


その理由を、僕はすぐに知ることになりました。


【つづく】


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