ぼんやりと考えていた信じることについて
あんまりこういうこと書きたくないなーって思う内容になるかもしれないけど書きます。頭の中をぐるぐるしていることを。
わたしの実家のお風呂の湯の温度は45度でした。それがとんでもなく恐ろしく高かったことを知ったのはつい最近のこと。あつーい湯が好きなじじ(祖父)の影響だったのではないかと思っている。いや、お風呂にいつも一番にはいるのはばば(祖母)だったから、ばばのせいかな。そして誰も文句を言わず、お風呂とはアツアツのものなのだと、あつーい湯に肩まで浸かっていた。
大学生になってひとり暮らしをするようになって湯船に浸かることはほとんどなくなった。学生の頃行った長野の小さな街の銭湯で、熱々の湯が心地良かったのはわたしの身体にもう、その温度の記憶が染みこんでいたからかもしれない。
結婚してふたり暮らしが始まって、わたしのシャワーの温度や湯を沸かす温度が夫と違った。「それは熱すぎだよ!」と驚かれて、友人に聞いてみたら45度の湯に入ってる人はいなかった。
わたしがまず湯に浸かり、少し冷めた湯に夫が入るという感じでうまくやっているけれど。(おかげでわたしはいつも一番風呂!)そんな訳で、26年経って、我が家のお風呂は熱かった、という事実を知るわけであった。(薄々気づいていたけどもね。)
と、何を言いたいかというと、自分の見ている世界ってめちゃくちゃに固定観念のかたまりである、それを時々思い出したほうが良いよね、ということ。これは誰かに何か物申したいわけではなくて、自分に言い聞かせたいので書いています。自分にとっての当たり前って、本当にちいちゃい。ちいちゃな、ちいちゃな世界だということ。
吉本ばななさんの新刊「はーばーらいと」はそういう世界の中で、なににも負けずに生きていく愛の物語だった。宗教2世の問題に触れて描かれたその世界にわたしは何度も胸が苦しくなりながら読んだ。
自分が信じてきたものや、自分の愛する人(例えば親とか恋人とか、親友とか)が信じているもの。どれも脆い。あるときは音を立てて、あるときは音もたてずに、崩れていく。そういう世界の中で、「一緒には決して崩れないのだ。」という登場する女の子の弱々しくて、確固たる強さが印象的だった。
今のところ私はそういう経験をまだしていない。それは偶然のような気もするし、見極める力を親に教えてもらったおかげかもしれない。でもそれも後者の場合、”親”というわたしにとって完全体のように見えるものに身を委ねているから。考えれば考えるほど、わたしたち人間はなにかを信じることで救われるように生きているのだなと思う。今も昔も。無宗教だという人も、結局それが一番いいだろうと、信仰しないことを選び、信じているのだし。
わたしは人生を通していろんなものを信じてみたいと思っている。信じた分だけ、傷つくリスクが増えるとしてもだ。超絶普通のことを言うけれど、そうするためには自分を信じることなしには出来ないから、自分自身を信じ抜くことが一番大事だ、という結論になった。
熱いお風呂に浸かる日々も良かったし、シャワーだけで済ませる日々も良かった。ぬるい湯で永遠におしゃべりをする日々もきっといい。いいと思うもの、信じたいと思うもの、素敵だと思うもの、嫌だなっておもうもの、きっと全部毎日変わっていく。毎日変わりゆくわたしを愛そう。変わっていくことをもっと受け容れて、変わっていく価値観をとことん愛そう。それで、そのなかにある変わらないものを見つけることはきっと喜びなはず。
信じることはそうやって、人生の喜びを見つけるための大切なステップなのかもしれない。
ひばりは外の世界に出たとき(本を読んでみてね)人生の続きを歩みはじめた。それは新しい人生ではなく、続きであることが大事。過去に信じたものも、守りたかったものも、今に繋がっているのだから。
わたしは今を、精一杯に信じる。
サムネイルは商店街の変わらない味のおでんやさん。変わらないものも、ちゃんとある。ちゃんと、あるのだ。
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