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小さな声をかき消さない、社会からも、自分の心からも

これはコロナ禍、家から出られず、今までにはない悲しいニュースをたくさんたくさん見届けるなかで考えたこと。わたしたちは悲しみや、喜びの感情を他人と比べてはいけない。それは自分を守るために大切なことだということ。

辛いことがあると、もっと辛い人がいるはずだ、と思ったり、恵まれてきた出来事を並べて、今の状況を埋もれさせようとしてきた。そうすることで、自分を安心させてきた。こんなのへっちゃら、って。ブレイディみかこさんの『両手にトカレフ』を読みながら、少し前に考えていたことがふわふわと脳に蘇った。2人の少女の、切なくて、力強い人生の話が、たくさんの思考を巡らせてくれた。

本当に子どもに責任の概念を教えようと思うのなら、子どもの行為を大人が決めて、子どもに誓わせてはいけない。子どもの行為の責任は子ども自身にある。それを取り上げてしまったら、子どもには自分の行為の主体が誰にあるのかわからなくなる。自分が誰を生きているのかわからなくなる。

両手にトカレフ/ブレイディみかこ

祖母は私から私を取り上げたのである。子どもであるという牢獄。私はその中を生きていた。

両手にトカレフ/ブレイディみかこ

山の中で寝転んでいると、私はいつも自分が体から流れ出し、土になって自然の中に溶けていく感覚を覚えた。私が自然で、自然が私だった。私は土の一部であり、土は私そのものだった。
 こんな風に人間と自然は溶け合って一つになることができる。なのに人間どうしは決してそうできない。
 それは人間の社会にいろいろな決まりごとがあるからだ。お金とか、地位とか、家とか、国とか、人間が作った様々なものが、生身の人間たちを互いから切り離し、対等ではないものにしてしまう。

両手にトカレフ/ブレイディみかこ

「自分で責任を取りなさい。」と言われるようになったのはいつからだっただろうか。いや、取れるようになったのはいつからだろう。大学生になる頃、はやく大人になりたくてひとり暮らしをしてみた。でも大人にはなれなかった。留学に行ってみたけれど、いつもわたしの命は誰かにゆだねられていると感じた。遠くに行っても、親から離れても、いつもわたしは自分の命を自分だけでは守ることが出来なかった。

長く付き合っていた彼氏と同棲がしたいと言ったら、親に大反対されて「そんなの責任の所在がないから駄目!」と言われた。(強行突破したけど。)確かに、どこにも責任がないわたしたちの生活は瞬く間に破綻した。責任を持つ、って大事なことなんだなと学んで、自分の人生に責任を持とうと決めた。きっとそれがわたしの責任のはじまり。

何もかも終わった。
あのときそう思ったのに、実は何も終わっていなかった。

両手にトカレフ/ブレイディみかこ エピローグより

最後の5ページ、わたしは電車で人目をはばからず涙をこぼしながら読んだ。涙の理由は分からなかった。苦しさよりも、嬉しさだったような気もする。でもあまりにも切なくて、胸はきゅぅっとなった。

誰しもそれぞれのバックグラウンドがある。そしてこの世界には無数のルールがある。ルールじゃないのにルールみたいになっているものが山ほどある。階級がある。体裁がある。そして、幸せや価値観は人それぞれだといいながら、こんなことが幸せだよねというものがたくさんある。正解なんてないのに、正解がいくつも並べられていて、いつも選ばなければならない。

わたしのnoteだって、この記事だって、この言葉だってそういうもののひとつ。わたしはこう思う、そう思わない?って心のどこかで共感を求めている。もちろん傲慢さを出来るだけそぎ落としてありのままを伝えているわけだけれど、いいでしょうって思うものに共感はしてほしい。だから、いいねやフォローは目に見えて嬉しい。それはどうしたって素直な気持ちなのだ。

承認欲求だと思われてもいい。それでもわたしは書き続け、伝え続け、自分を探し続ける。そういう決意を再確認した。

ミアやフミコはわたしよりもうんと年下で、本当はもっと”そういう”風に、どんなふうにだって、自分の未来を一心に信じて、迷わず、意気込んで生きていっていいのだと思う。そう生きてほしいと必死に願って、ふたりの物語を見守った。

”こういう”問題について考えるときの答えにまだわたしは辿り着けていない。どんな答えもそれを偽善に感じてしまうからだ。自分のことを養うことで必死のわたしが金銭的な援助の活動をすることは出来ない。(もちろん出来る範囲のこともある。)自分の置かれた状況に感謝をして精一杯に生きる。何度となくそれでいいのだと思ってきたけれど、それは心のどこかで自分がよければそれでいいという思いもあるのかもしれない。考えすぎかもしれないけれど、わたしはこういう問題をいつも心のどこかで考えている。いつか答えが見つかるかどうかも分からない。

大学で途上国開発や子どもの貧困について勉強を強く志したとき、本当は、将来教師になろうと思っていた。学ぶ喜びを伝えたかった。この世界のいろんな問題を教えたいと思った。ひとりひとりが意識を変えれば、世界が必ず変わると信じていた。誰かの意識や人生に関わり、そうして世界を変えたいと心の底から思っていた。あるときその夢はあきらめてしまったけれど、そういう想いは今でもずっとある。

わたしの意識を変えてくれたのも先生だった。いつだったかその先生は言った。「たとえ全員が戦争を始めたとしても、僕は絶対に戦わない。」と。そんなの嘘だ、と思ったけれど、あまりにも先生の瞳がまっすぐだったので、本当かもしれないと思った。あの日のこと、窓際の席で、春風が吹くおだやかな午後に、わたしも世界を信じようと思えたときのことを、思い出す。

学ぶことはわたしたちをいろんな理不尽な社会の軋轢から守ってくれると、なんとなく知っていた。頭が良いとか勉強ができるとか、そういうことではなくて、知識は自分の盾となり、剣となることはなんとなく腑に落ちていた。

わたしの母は専業主婦で、いつも家事と祖父母の面倒で手いっぱいだった。弟が幼稚園に行くようになって母はパートを始めると言った。そう言って、勉強を始めて医療事務の資格を取って、家の近くの小さな病院で働き始めた。学は人を別の世界へ連れていってくれることを目の当たりにした。たったそれだけの記憶だけれど、ちゃんと胸の真ん中に残っている。いつか広い世界へ出ていくために、わたしも学ぼう、とそのとき心のどこかで決意したのかもしれない。

彼女たちの物語をたどりながら、わたしの記憶もたどる。いくつもの学生時代の記憶や、幼少期の記憶が、蘇る。

ふたりの少女は、わたしが今になって気づくたくさんのことを14歳ながらに沢山理解していた。この世界にある無数の小さな小さな声たち。かき消されてしまいそうな小さな小さな願い。それは誰の心にもきっとある。彼女たちのような境遇だから、というわけではなく誰しもにある小さな光を、ちゃんと大切に灯し続けなければ。

それぞれの人生にいつだっていくつもあるたくさんの扉。誰にでも平等に開ける権利が、選ぶ権利が、そしてその扉を閉じる権利がありますように。そう、強く願い、わたしは今日も生きていく。人生を決めるのはいつだって、自分自身であれますように。


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