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宮﨑 駿 監督 『君たちはどう生きるか』 / 感想

『君たちはどう生きるか』
初めてタイトルを見た時、なんて強い言葉なんだろうと思った。映画を観なくとも、"これまでの人生"を振り返り、そして"これからの人生"を考えたくなった。
大人になれば、自分の人生や進路について大いに悩む。中には、こんな風に考える人もいるはず。"どうして自分は生まれてきたのか"。生きている意味を、なんとなく考える人もいれば、考えるほどにひどく落ち込む人もいると思う。昨今、戦争や震災、不景気、いじめ、自殺など、地獄のようなニュースが飛び交う中で、落ち込む人は多いはず。そんな現代だからこそ、『君たちはどう生きるか』と問う宮﨑 駿監督からは、沸々とした怒りすらも感じられる。背筋がピンと張るような気分。君は、どう生きてきたのか、そしてこれからの時代をどう生きるのかと。

*映画を観た人向けの感想文です。映画を観た人にしか分からない表現などがあります。詳細なあらすじは省略しますが、ネタバレ注意ですのでご注意ください。

© 2023 Studio Ghibli

母親の死

夜中、母親・久子がいる病院が火事となり、父親の勝一や男たちが切迫した様子で病院へ向かう準備をする。主人公の少年・眞人も気が気でない様子で、大人たちと一緒に階段や屋敷中を駆け回っていた。勝一に「待っていなさい」と言われ、家に置いていかれるが、その言いつけを破り、屋敷を飛び出し一目散に病院へ走り出す。終始、大きく鳴る眞人の足音やサイレンの轟音から緊迫感が伝わってきた。外に飛び出してから描かれる情景は、ゆらゆらと動く真っ赤な炎と歪んだ人影がなんとも惨憺さんたんで、涙で滲む眞人の視界を表現しているようであった。物語は、この火災で母親を亡くすシーンからはじまる。

眞人の試練

まだ小学生の眞人にとって、母親の死は受け入れられるはずもなく、月日は経ち、勝一とともに東京を離れ、母親の実家である"青鷺屋敷アオサギヤシキ"に引っ越すことに。勝一が久子の妹・夏子と再婚したのだ。青鷺屋敷へ向かう最中、眞人は何を考えていたのだろうか。新しい"お母さん"となるのが夏子であることは知らされていたのだろうか。再婚相手が、母親の実の妹、即ち叔母にあたる存在というのは複雑なものである。眞人は夏子と対面した時も、屋敷に向かう道中も、その後もただ礼儀正しく会釈をするだけで、無口を貫いていた。屋敷に住みはじめてからの眞人は、いつも冴えない表情をしていた。というより、母親を亡くして以来、すっかり塞ぎ込んでしまったのだろうか。母親を亡くしてから描かれる眞人の姿は、悲しみや怒り、負の感情でうずめいているように見えた。そして、危うさすらも感じられた。眞人が同級生に虐められた時、負けじと殴り返すシーンが印象的である。同級生との殴り合いの後、とぼとぼと家に帰っていると、突然大きな石で自分の頭を強く打ちつける。眞人の頭からはドバドバと血が流れ落ちていく。自傷行為とも見てとれるシーンであった。なぜ、眞人は血を流すほどの強い力で自分の頭を殴ったのだろう。学校に行きたくなかったのか、親に心配されたかったのか、ただただ自分を傷つけたかったのか…。のちに、これは自分の"悪意の象徴"であることを眞人が話していた。しかし小学生の少年が、突然これほどまで大きな威力を出したこと、私たちが想像している以上の悲痛の思いで苦しんでいたのではないだろうかと、振り返ってみて感じ取ることができる。血だらけの眞人の姿を見て、勝一や夏子、お手伝いのおばあさん達は大慌て。眞人を心配し、勝一は「誰にやられたんだ!」と声を荒げ尋ねるが、眞人は「転んだだけ」の一点ばり。その姿は嫌味なくらい、大人に頼ろうとしない。大人達への当てつけのよう。もはや、眞人の一連の態度そのものが、"悪意"なのであることが分かった。私も子供時代を振り返れば、大人に対してそのような悪意を抱いたことがあった。自分の悩みや問題を大人に打ち明けたところで、子供のようにあやされて終わりだろうと察していたのだ。あやされてたまるかと、大人たちの優しさにそっぽを向くことで、"いつの日か薄れてしまう母親の記憶"の解像度を保とうとしていたのかもしれない。

眞人

夏子の優しさ

夏子はとても優しい女性だ。眞人と初めて対面した時、なかなか打ち解けようとしない眞人に優しく接する姿がとにかく印象的だった。眞人自身、戦争の最中を過ごし、火災で母親を亡くしたり、引っ越しや転校といった環境の変化が起きたり…、夏子は、そんな眞人の気苦労を察するようであった。多くの人は、眞人のような少年を目にしたら、「大変だったね?」「悲しかったね?」「もう大丈夫だよ」と労わってくれるが、時にその言葉やその態度が安易に感じて信用できないこともある。夏子は、何か特別な言葉をかけるわけではなく、心配しながらも"普通に接すること"に努めようとしていたと思う。しかし、夏子の善意や優しさ、溢れ出る母性は、眞人にとっては自分を守るためにも警戒しなくてはならないものだったのかも知れない。諸行無常。時の流れは無情である。眞人は、夏子という現実たるものを受け入れることはできなかった。そんな眞人であったため、夏子が眞人の手を自身のお腹に当て、お腹の中に子供がいることを嬉しそうに伝えた時、眞人は咄嗟に勢いよく目を背けた。その時、夏子はどう思ったのだろうか。優しい夏子も、悲しんでいるように感じられた。

夏子

父親と少年期

この物語の中では、父と息子の関係性がリアルに描かれている。父親とコミュニケーションを諦めてしまったり、怠ってしまうことはよくあることのように思う。思春期に差し掛かろうとしている眞人にとって、父親とのコミュニケーションは難しそうに見えた。眞人が失意にあるなか、父親は叔母である夏子と再婚してしまう。この出来事は、眞人にとって大きな追い討ちになったに違いない。眞人は父親の前では、その寂しさや複雑な心境を見せることなく無表情を貫いていた。勝一は、眞人の複雑な心境を察してくれるような父親ではなかった。その代わりに夏子が一層優しくしてくれるので、眞人は夏子を拒む気持ちが頑なになっていたのではないだろうか。しかしながら、作中で描かれていた勝一という父親の姿は、決して悪いものではなかったと思う。眞人がいじめられていると知れば、どうにかしてやろうと行動したり、眞人や夏子が行方不明となれば、一生懸命、探しに行ったり。"一生懸命"という言葉がよく似合う。その"一生懸命"というのは、前述した信用できない行動に当てはまってしまう。どこか当てずっぽうのように、雑な言葉や態度で問いただして、人を無意識のうちに傷つけている。そして、壁が一層厚くなる。もちろん、勝一にはまるっきり悪意などない。なぜ、勝一や夏子の善意を信用できなくなってしまうのか。それは、眞人自身の心の問題だ。たとえ父親であろうと、義母であろうと、眞人の心は眞人自身にしか修復できないことがわかっているのだ。しかし、まだ11歳の眞人にとって、そのようなことを言葉にできるほどの語彙力もコミュニケーション能力もない。なので、ぶっきらぼうな態度がたくさんの人に誤解を与えてしまう。つまり、眞人の心の未熟さを克服するためには、 人生(現実)に向き合うことが問題にあるからである。この物語は、母親を失ってできた大きな絶望をきっかけに、自分の人生に立ち向かっていくための物語なのだ。

勝一

屋敷のおばあさんとおじいさん

家には、お手伝いさんらしき年老いたおばあさん7人とおじいさん2人がいた。おじいさんが元から何人いたかは分からないが、この物語でも女性の方が元気で若々しく、長生きするようだ。おばあさんらは、屋敷に運ばれてきた勝一のバッグの中身を察し、荷解きを今か今かと待ち望みながら、その周りをうごめいていた。バッグを開けるや否や、中には東京土産の砂糖や缶詰、タバコが入っており、目をキラキラと輝かせ興味津々の様子。おはぎを作って食べようかという案がなんとも可愛らしかった。ここで出てきた甘いものやタバコというのは、人間が中毒になりやすいモノとして分かりやすい。人間というのは、少年・少女期〜青年期にかけて、欲を制御することが求められ自制心が培われていくが、成人してからは老いれば老いるほど、自分の欲に忠実になっているように感じる。生きていく中で、自分が何が好きでどうしたいのかということが研ぎ澄まされ、そして手に入れる方法も分かってくる。欲望が精錬され、自分の快か不快かが生きる指標であり、成熟していくほどにその選択に迷いがなくなっていくのだと思う。そうやって素直に生きているおばあさんやおじいさんは、子供のように無邪気で可愛らしく思うし、飛躍しすぎかもしれないが、人間として成熟した姿のようにも思う。素敵だ。しかし、私利私欲のためだけではないという様子が、この共同生活の中で伺える。病人や怪我人が出たら看病する。欲しいもの(タバコなど)があれば分け合ったり、協力し合う。子供が危険な塔に踏み入れてしまったら一緒に着いていく。時に譲り合い、助けあう。シンプルなことだが、それがこの人間社会で元気に長生きしていくコツなのかもしれない。

お屋敷のおばあさん

少年とアオサギ

アオサギといえば本作のメインビジュアルである。初めてポスターを見た時、クチバシの中からギラリと睨む目が、何かを待ち構えているようで気遣わしく感じた。敵か味方か分からないが、物語の鍵を握る重要なキャラクターであろうことは間違いない。その思惑通り、この奇妙なアオサギこそが、眞人を非現実の世界へ誘う案内人である。物語はアオサギの登場から大きく一変していく。アオサギは屋敷内にある池の辺りで佇んでいた。眞人がアオサギを不審に見つめていると、アオサギが突然、眞人や夏子が歩く縁側を、勢いよく飛び抜けていく。まるで挑発しているような、実に不愉快な登場であった。夏子は「覗き屋•••のアオサギ。屋根の下に入るのは珍しい。眞人さんを歓迎している」と言う。青鷺屋敷へ眞人がやって来るのを、今か今かと待ち構えていたようだ。その後のアオサギは、眞人に執拗に付き纏い、青鷺屋敷の庭にある不思議な塔へ案内しようとする。夏子や屋敷のおばあさんによって塔に近づかせないよう阻まれるが、その後も亡き母親の声を真似て「眞人!助けて」と挑発してみせたり。その後も、アオサギは「母君があなたの助けを待っている。死んでなんかいませんよ」と、まるで死んだ母親が生きているような口ぶりで眞人を誘い続けた。母親が生きているという言葉を受け、眞人は憤怒。その表情からは、さまざまな複雑な思いが感じられた。母親が死んでしまったことを未だ受け入れられていないということ。父親は他の誰かと再婚してしまったこと。自分は母親を忘れてはいけないということ。そして、もしも生きているのならば、母親を助けなくてはいけないということ。眞人の心境が入り乱れて見える瞬間であった。その後、眞人はとうとうアオサギの誘いに乗り、塔の中に入ってしまうのだが、案の定、母親が生きているという言葉は嘘。アオサギの目的は、不思議な塔の主人である大叔父の命令によるものだった。役目を果たしたアオサギであったが、眞人が放った風切りの7番でくちばしを射抜かれる。その後、半鳥人の姿が解かれ、大叔父の命令で眞人とともに"下の世界"に誘われる。その後も眞人と二人三脚で、眞人の左手となってサポートしていく案内人のアオサギ。その文字通り、過去に囚われたり、現実に足が向かなかったり、逃避してしまいそうになる眞人を現実に引き戻すように誘導してくれる。まさに、アオサギが鈴木敏夫プロデューサーであるということに合点がいく。

眞人と青鷺

夏子さんはなぜ塔の中に入ってしまったのか

この問いで考えたいのが、眞人は夏子さんを拒絶していたということ。夏子さんは眞人の気苦労を考えながらも、心を開いてくれない眞人の姿に大変落ち込んだはず。ましてや、夏子は子を身籠った母親。眞人に、母親として受け入れてもらえないというのは残酷なこと。そんな二人だが、それでも母と子の関係にならなくてはならない。なぜなら眞人にとって、夏子を母と呼ぶことは”現実を受け入れる = 母の死を受け入れる" ということ。それが、"自分の人生(現実)に向き合う"ということであり、そしてこの物語の大きな目的だから。宮崎 駿監督自身で例えると、幼少期に亡くなったお母様や、高畑 勲さんを想起する。時は無情にも、私たちの心を置いてけぼりに、進んでいく。多くの希望や夢、人間が望むままに、あるいは人間が決して抗うことができない自然、この地球が望むままに。だからこそ、現実に目を背けることなく、見て、感じて、動かなければならない。失ったものを数えるのではなく、自分に残っている宝物を失わず守っていけるように。この世に生を受けた限り、目の前で起きている現実に立ち向かっていかなければならない。人間として、この世に命を宿したということ。この映画の中で、考えたいもう一つの大きなテーマだと思う。これについては、大叔父との対話の中で考えていきたい。

わらわら

13個の石の意味

大叔父は、下の世界で13個の石を積み上げ世界の均衡を保っていた。さらにこの仕事は、自らの血をひく悪意のない人間にしかできないと言う。世界は人の善意の上、均衡が保たれていると。戦争が無くならない理由を「人は"愛する力"があるから」だと唱える人がいる。愛するもの、守りたいものがあるかぎり、人はそれを守るため動く。眞人も、母親を守りたい気持ちの強さが無意識下で悪意となり、周りの人間を傷つけてしまっていた。作中では、悪意を持ったインコによって石は崩れ塔は崩壊。人が悪意によって支配されてしまうと、あの石のようにあの塔のように、世界は均衡を崩し、やがて崩壊してしまうという仕組みなのかもしれない。大叔父が眞人に伝えた「お前の手で争いのない世を作れ」という言葉は、戦争を体験している宮崎 駿監督が次世代に託すストレートなメッセージだろう。

大叔父

まとめ

眞人があの世でキリコさんに呟いていたように、私たちが生きている世界というのは本当に"地獄"のようなものかもしれない。子供の頃、処理できない怒りや悲しみがあった時、私は家族が寝静まったあとに、枕に顔を埋め泣くしかなかった。親や先生、大人に相談なんてできなかった。大人になった今、なぜ相談できなかったのか考えてみると、自分の状況をうまく大人に説明もできなければ、どうせ宥められて終わりだろうという悟りがあったからだと思う。泣いたって、怒ったって、子供ごときの力では、思い通りになるわけがないことを理解していた。眞人のように。しかし、夏子さんのように、子供の気苦労を察し、そっと寄り添ってくれる大人だっている。その時は分からなくても、思い返せば私にも夏子さんのような大人がいたのかもしれない。
世の中、あるいは地球は、今も目まぐるしく変容している。私がこの世に生を受けてからは、戦争というものを経験したことがない。しかし、未来はどうだろうか。AIが益々発展していけば、果たして本当に未来は明るいのだろうか。これからどうなるかなんて知るはずもないが、一つ言えることは、悪意を持った人間によって、"最悪な出来事"が起こる未来も十分に想定されるということ。眞人のように、絶望してしまっても、前を向いて果敢に立ち向かう姿勢が大事である。苦難に打ち勝ち、とにかく前に進むのだ。そのためには人の力が必要である。眞人とアオサギのように歪みあっていても、同じ苦難や試練を乗り越えることができれば絆が生まれる。あるいは、屋敷のおばあさんやおじいさんのように。そうやって"友達"を見つけていくことも一つ。自分の人生を振り返ってみたときによくわかる。どれだけ人に救われてきたかと。そして、先人が残した言葉は馬鹿にはできないということ。それを示してくれたのは、紛れもなく自分たちの親や大人たちだった。そして、これからの未来、あるいは子供達に示していくのは、私たち大人であること。"一人の人間であること"を自覚して精一杯生きていきたい。

眞人を産めるなんて幸せじゃない?

久子

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