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エッセイ / 慣れと意思

檜原村で暮らし始めてから一ヶ月が経った。つねに新たな人や場所と出会い続けていたからだろうか、すごく長く感じた一ヶ月だった。

原付での通退勤には、この一ヶ月ですっかり慣れた。クネクネした山道のコーナーを曲がるのは確実にうまくなったし、雨に打たれながら走るのも以前よりは憂鬱ではなくなった。

一方で、移住当初は毎日「うわぁ…!」と思わず嘆息していた通退勤路の絶景も、今ではすっかり日常の一部になってしまった。

「慣れること」は、人間の自然な営みだ。慣れるという営みのおかげで、私たちは日々平常心を保っていられるのだと思う。

でも、雨に打たれ慣れるのは確かによいことだとしても、絶景に慣れて感動する気持ちを失ってしまうのは、ちょっと悲しいことのような気もする。

ただただなるように任せていたら、私たちはどんなに素晴らしいものにも、だんだんと慣れていってしまう。通退勤のときに両脇に広がる絶景にも、山の空気のおいしさにも、私を支えてくれる人たちの存在のありがたみにもだ。そして、それにうっとりと感動したり、しみじみと感謝したりする気持ちを、忘れていってしまう。

そんなことに、最初は感動しっぱなしだった道をいつの間にか無心で通退勤するようになって、改めて気がついた。

だからこそ、そんなときには「パン!」と大きく手を打って自分の目を覚まし、目の前のものの素晴らしさに日々、意識的に、気づき直すこと。それが、毎日を本当の意味で味わって、より幸せで充実した日々を送る秘訣なのかもしれない。

私は少し前から、「物事を自分の思い通りにコントロールしようとしないこと」「流れに身を任せること」を意識して生きるようにしてきた。

それ以前の私は、とにかく頭でっかちで、なにかと計算づくで生きてきた人間だったから。その反省と反動もあって、私は一時期、何かを自分の意思でコントロールしようとするのは悪でさえあるかのように思っていたこともある。

でも、ただ自然のなるように任せずに、頭で考えてなにかの行動を取ることが必要な場面も、それで物事が好転する場面もあるのだと、今回の件で気がつくことができた。

当たり前になってしまったものの素晴らしさやありがたさに、意識的でいること。生物としての自然な人間の仕組みにちょっとだけ抗って、意思の力をはたらかせること。それは、身体的な(生物的な)知性と、頭の知性の融合とも言えるだろうか。そうして両方の知性をバランスよく発揮しているのが、いい状態なのかもしれない。

まあ、そんなことに気づいてからも、日々の通退勤ではボーッと無心で原付を走らせている時間が圧倒的に長い私である。つねに意識を働かせるのはさすがに疲れるし、たぶん土台不可能なことだ。でも、「あ!ちゃんと景色を味わおう!」と気づいたときに、パン!と意識を切り替える習慣は、少しずつついてきている。そうすると、初めてその景色を見たときのようにワァッと感動できて、とても気分がいい。

みなさんも、当たり前になってしまったものを、初めて見たときのように味わい直す営み、ぜひやってみてください。たぶんだけど、毎日がもっと楽しくなります。

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