伝記を読む楽しみと北一輝

偉人の伝記なんかを、最近の子どもは読むだろうか。
私の幼い頃などは身近な存在で、実家には親の買い揃えた古今東西の人物の伝記シリーズがあった。
それは全て活字で、小さい頃には説教臭くて退屈に思えた。今同じものを見てもそう思うかもしれない。

だが、私は大学生の頃から伝記、評論のたのしみというものをしった。
それは当時深く敬愛していた、北一輝に関する評伝、特に松本健一氏の著者が中心だったと思うが、これを読んだのがきっかけである。

 北一輝は天皇親政を訴えた二二六事件で首魁とされたこともあり、右翼的革命家というのが一般のイメージだった。
 しかし若い頃には「国民対皇室の歴史的考察」「国体論及び純正社会主義」といったものを書いている、かなり左翼的な人物でもある。

 そこの乖離が不思議で色々調べるようと思い、彼に関する研究書や評伝を読んだのだが、それらの結論の多くは、

「北一輝は自らが天皇になろうとした男だった」

というものだった。これは驚くべき結論だが、最も筋の通る話でもあった。
しかもその方法というのが、
「権力の象徴にして実態の権力を持たぬ天皇に、クーデターを利用して全権力を集中させることで、却って天皇が仮初めの存在たることを国民に示し、革命を起こす。
その後民主主義国家の名目で新たな体制をしき、その体制の天皇となる」
というものだった。
ここには北一輝の歴史に対する深い洞察と共に、二二六事件の取り調べで話さなかった彼の真意が見えてくる。
これを裏付ける色々な発言などもあり、この考察はただしいと思われた。

そこで私が思ったのは二つあって、
一つが、歴史上の人物などで、このようにまるっきり違うイメージを持たれている者はかなりあるのではないか、ということ。
二つ目は、伝記やら評伝で人物を研究し、その真意や思想を辿るのは、かなり面白いことである、ということである。

それ以来、自分の敬愛する偉人なんかに、こうした研究の態度で伝記を読むようにしたら、かなり面白かった。

 「眼光紙背に徹す」は 、歴史にも向けるべき態度である。




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