立ち話のフィールドワーク はじめに
「立ち話のフィールドワーク」と題して、フィールドワーク中の出会い頭に始まる立ち話から教わったこと、気づいたこと。出会ったのが人でなくても、ふらり歩きながら出会う事柄から得た違和感。さらにはそれから発展して会いにいった人や場所、調べたことなど気まぐれに書いてみようと思います。
フィールドワークなんて言っても、民俗学や人類学など勉強したわけでもなく、むしろ大学へもいっていません。写真を独学で始め…というとなんか聞こえはいいですが、大抵独学者は技術的に下手くそだったり、思考的に足りなかったり、それを初期は蔑まれるような経験は誰にでもあると思います。逆に、その人が持つ強みやこだわりは、最大の欠点、コンプレックスで、それを克服しようと足掻いた結果であることも無きにしも非ず。と思っています。
私は、技術的弱みもありましたし(今もありますが)、時々人と接することにも問題が生じてしまい、人の写真を撮る時はいまだに心の中で"撮る"と意気込まなければ前に出れなかったりします。
話が早速それましたが、ドキュメンタリー写真を撮りたいと思った時に、写真のハウツー本や写真家の経験談などの本は正直あまり参考にならず、一番ためになったのが「フィールドワークの技法」などフィールドワークに関する書籍でした。最初はどうやってアポを取るのかすら知らず、どうやって地域のコミュニティにコミットすればいいのかも、何をどう調べていったらいいかもわからず、全てが手探りで迷路をぐるぐるぐるぐる迷っていたような気分でした。
だから、これを書いて誰かに伝えたい、教えたいということでなく、私の主なフィールドは今は水俣と坂本、そして時々大牟田の炭鉱や被差別部落など、全く違うようでいて、自分の中ではしっかり関連を持つ事柄ですが、そうしたことの中での出来事を後から振り返るためにノート代わりに書いておきたいと思いました。
数日前、ふとお借りしていた地域の広報誌をお返ししにいった時の話です。
以前から、過疎が一気に進む集落では「人に会うことが少ないので、みなさん人に飢えています」という自治会町の言葉通り、出会い頭にちょっと話すとどっと返ってきて、全部聞いて答えていくうちに用事が済ませれずに日が暮れた。なんてことが度々あります。この前は昼までに撮影までして帰りたかったけど、話してたら昼過ぎ、、、笑
でもなんとなく…
「西南戦争の時にこの辺は焼かれてね…集落の女の人たちはあの岩陰にか隠れたという言い伝えが…」とこの話はもう10回ほど聞いたので覚えることができましたが、迷惑ということもなく、その中に少しずつ混じる新しい話や、"どうでもいい"と思われがちな最近の極々小さな集落内事情トピックなど、さらにそのもっと小さな一言の中に、違和感や気になることが隠れてることがあります。
この集落を含む坂本町は2020年7月の九州南部を襲った豪雨で、球磨川流域にあった集落では甚大な被害が出ました。
その時に、町の昔の様子が写っている貴重なネガも水損し、それを預かり"令和2年7月豪雨REBORNプロジェクト"というのを始めました。
というより預かってしまって、始めてしまったというのかもしれません。
でも作業を進めていると、写真が良くて…というより私の好みですが、昭和の経済成長期の「人間が人間を生きている」とでもいうのか生きている時代の人や暮らしが写真の中に広がっていて…これはどうにかできんものか…と思ったのが始まりでした。
そのご縁で今、東儀一郎アーカイブ活動を始めました。
東さん(1917-2001)は坂本町で生まれ育ったアマチュアカメラマンです。
写真と撮りに出掛けてばかりでした…と子供の頃、自宅で一緒に暗室作業を手伝ったりしていた息子さんは話してくれました。
アマチュアかプロか、必ずしもいい写真を撮り収入を得るのがプロだとも思いづらく、志の違いややもっと別の判断基準があると思うので、本当はアマチュアカメラマンの…と紹介するのは好きではありません。
でも一旦そのように紹介しておきます。東さんは地元の製紙工場に勤めていました。
この活動をする過程で考えたことは、すでに少し書きましたが、最近精神的に復活し、ちょっと健康になってきたので書き直していきたいと思います。
やっと本題ですが、ちょうどゴミ収集日だったからか、借り物を返却した後写真を撮ろうとフィルムをセットしていたら近所の人たちが数人ゴミを持って、またはフラッと出てこられました。
公民館で作業や小さな交流会をしたので、顔を見れば挨拶がてらにたわいもない話ができる距離感になりました。一人の女性は、集落の真ん中にある銀杏の木から落ちてくる銀杏をいつも徐に掃除し始めます。話しながら、なんとなく申し訳なくて手伝ってみたら1時間…と経過しているわけです。
でもその間も、対岸の別の集落から嫁いできたその人は、その集落での記憶を話してくれる。そんな時間もいいなと思うわけです。
そしたら次に来たからは、そこから見える景色や最近の気づきを徐に話される。その集落から見える町の中心地だった場所は今では、更地です。
水害前は生い茂る竹林で川も集落下を走る県道も見えなかったと言います。
いつも駐車場に腰をかけ、弁当を食べながら眺めていた景色がふと違って見えました。
そこから見える町唯一の病院や役場も流され、今までも人口は減少する一方でしたが水害は過疎を加速させました。私が「病院や役場のライフラインがないと大変ですよね…」と話すとその人ははっきりした口調で言いました。
「病院はない方がみな元気です。」
えっ、と一瞬思いましたが、確かにそうかもしれません。その人は合併した町の方の病院で働いている医療従事者でもありました。
現代、ちょっとした怪我で、風邪のような病気ですぐに病院へといきがちです。私のように病院嫌いだと手遅れになるかもしれませんが、それも定めでしょうと思っています。
でも良く考えれば夕張パラドックスのように、町が財政破綻し、病床数も大幅減。しかし、プライマリーケア(https://www.primarycare-japan.com/about.htm)に力を入れ、病院がなくなった結果病気が少なくなったという事例を何かで読みました。
他にも精神科医が病院を辞め農園を作った結果…など同じ種類の話は他にも聞いたことがあり調べればもっと事例はあるようです。
とりわけ、このプライマリーケアという言葉をこの会話をきっかけに知ったわけですが、日本はプライマリーケア後進国のようです。
写真と同じですね。
また少し脱線します。
ドキュメンタリー写真というと、いまだに記録写真、報道写真としてあげられるものが「ドキュメンタリー」だと思われているように思います。
定義は人それぞれなのでそれでも間違ってはいないでしょう。
ただ、私が少し苦手なのは、ドキュメンタリー=社会性を持つものですが、正義を問うたり、意義、訴え、のようなちょっと強い作品、作り手も少なくないように思います。私は、作品に自分の意思はありますが、訴える、というよりお邪魔させてもらう、居させてもらって感じた事を写真で綴っていく事をしています。だから視覚的には少しわかりづらいこともあると思いますが、眼に見えること、聞こえることが全てではないし、マイノリティの痛みは「痛い」といっても、痛み方や直接打たれた部分が痛いと言うのとは違って、当事者性と言う言葉がいいかと言われるとわかりませんが、でもやっぱりマイノリティでないとわからない痛み方、箇所があると思います。誤解してはいけないのは、当事者と言っても人によって受け方、痛み方は違いますし、差別など当事者がどうということもなく無意識に起こります。そして当事者を強調、武器にすることで立場は逆転し攻撃する側になりうることもあります。なのでその言葉を使うことがあまり得策だとも思えます。
そう言う眼に見えない空気で伝ってくるような小さな小さな違和感を集めたいと思っています。マイクロアグレッションと言うのだそうです。
公害、病気、障害、、etc大まか分類されますが、その中でも細分化すれば分野、カテゴリーなどでは分けられるものでもなく、または2つ3つ同時に抱えてしまうことで、受ける人によって違った痛みが発生します。
最近読んだ本で、そうした生きづらさをインターセクショナリティというのだそうです。
インターセクショナリティは出身地や精神的な支障を考えると私自身も当てはまりますし、少し違いますが、水俣、坂本、炭鉱、病、差別と地点を変えることで見えることがあって、私自身大事にしていることでもありますが、それはインターセクション(交差性)を持って考えることで別の角度の視点が見つかるように思います。
もう一つ、インドのようにカースト制と名前がついた制度ではなくても、世界のどこの国にも、そしてこの日本にも社会階級(ヒエラルキー)が存在します。
写真も、写真機を持つこと自体が珍しかった時代もありますし、今でも写真を始めとする、美術・芸術分野は社会階級の上層部の持ち物だと痛感することも少なくありません。その階級を持ってして使命を持ち、社会問題を扱い、問題解決につながっていく事実もある。だけどやっぱり階層が違えばものの見え方は随分違う。私は自分自身、労働者であり下層階級に属していると思います。だから違う階級で活動し続けるのはなかなか大変だとも痛感しています。だけど、先ほどのマイノリティの話ではないですが、上層部から見れば相手のことを思ってなされた行動でも、災害の渦中、マイノリティからすれば真逆で迷惑だったりする。地震や水害の災禍へも行きましたが、集まってくる支援物資と、現地で必要な物資にすれ違いが起きたり、経過する時間次第で刻一刻と変化する中で情報が更新されなければ差は開いていく一方です。
障害者福祉や公害被害者も…そして土地を撮る中で、渦中にいる人やそこの人が不在のものはすれ違いが起きていることもしばしばあるのではないでしょうか。絶対に一致する、皆同じ方向を向くことはありませんが不在である違和感を感じると私は少し距離を置きたくなります。しかし案外そうしたもののほうが世間体の評価は高かったりしますが、やっぱり私はその評価より、同じではなくても近い視線で、その土地の人からの信頼やこちらの意図を許される関係を作りたいと思います。
もう一度いうと、定義や概念は人それぞれなのでこれは私の考え方です。
国を出ればもっと多様で自由な表現者たちがいます。
一見これがドキュメンタリーなのか?と思うような作家性の強い作品も少なくありません。そして理解するには難解です。
ですが、それもドキュメンタリーの一つです。そもそも全てを理解するために解説をしているのではないと思いますが、教育方針やTVや新聞メディアの在り方として自然とそうした認識が埋め込まれているのだと思います。
私は前者のような表現、アプローチを身につけたいと思っていますし、国外の写真作家や国外で学んだ人の中に少なからずそうした人たちがいます。ドキュメンタリー自体、誰かの視線や意図が介入したらある種すでにフィクションだと思っています。私がもっと外に、と言うのは無闇に出ればいいわけではなく、有名になりたいわけでもなく、この小さな地方の片隅でのことを同じ視線で表現したい、そしてそれがここだけでなく広がりをもつようにそのレベルまで引き上げたい、外へと思う理由はそうしたことからです。
今思えば、今回のことに限らず、これまで取材してきた黒岩集落も同じで、集落下の広場に車を止め、上までゆっくり歩く。
その中での出会い頭に話を聞く。その繰り返しでした。
常にカメラを持って撮影するつもりで行きますが、それは、立ち話での相手の顔色を見ながら、話すだけで終わってまた登って歩き出す…ということは珍しくはありませんでした。
毎回ではありませんが、歩いた分だけ見つけものをする。
人の記憶も定かではなく、朧げなことも多いので嘘とは違うと思いますが、話にはいろんなことが混同しています。そして、土着したものは、なぜそれが行われているか、どういう意味なのか、やっている本人たちも知らないことが珍しくありません。伝ってきた言葉や様式は集落単位、または個人単位でも認識は少しずつ違っていますが、民族史で調べられる時もあります。
でも大抵、事前に調べても予定や想像通りに行くことはありません。そして、案外、事前に調べて持ってきた予備知識は固定概念になって邪魔をすることがあります。
何よりたまに同席した研究者にありがちでしたが「それは〜で」などと、住民に解説や説教を始めたりすることがあり、それは好ましく思えませんでした。普段そうした研究者や学者と交流することのない限界集落の住民は研究者というだけで竦むように言葉が発せなくなったり、遠慮して本心が言えなくなったりもします。
そうした時に見せる表情を「よそ行きの顔」だと思っています。
よそ行きの顔をされてしまうと素直な言葉が聞けなくなってしまいます。
研究者のいうことが正しかったとしても…まずはその人たちが代々教わってきたことをそのまま聞いてみたいと思います。
それをそのまま、話す言葉を受け取りたい。
知っている、と思っても、案外知らないことや言葉の先があるかもしれません。だから出会い頭の立ち話でもう一度ゼロから、いい意味で"知らないふり"をして聞いてみる、教わってみることもたまにはいいものです。
今回は、地域に病院が必要なのか。プライマリーケアと言う考え方を1つ知りました。きっとこうやって私はいつも歩きながら取材する先々で教わり、少しずつ知恵を分けてもらっているのだと思います。
そんな発見やモヤモヤっと頭で考えたこと、悩んだことを、知ったふりも、解決したふりをせずそのまま、たまに書いていこうと思います。
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