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【ふせん】「ゆるす」という禅の生き方_#018

概要

書評というほど本全体に対する批評は薄く、
読書感想文というほど総合的な感想ではない。
気になった言葉に対して感じたことを「ふせん」として書き記すシリーズ。

「ゆるす」という禅の生き方


気になった言葉たちと感想など

ゆるすことで心は自由になります

「ゆるす」という禅の生き方

「ゆるす」とは相手のための行為ではなく、自分自身の心を自由にするための行為になるという考え方。
たしかにいつまでも何かの事象に対して怒りを抱えていると、気持ちも疲弊するし時間ももったいないという場面もあるだろう。
なにかの気づきを得る場面において、怒りの感情はある意味必要なものとも私は思うが、抱えすぎないように、上手にゆるす気持ちの余裕を持っていたい。


評価はあとから勝手についてくるもの、自分にできることは精いっぱいやることしかない

「ゆるす」という禅の生き方

最初から評価を得ることを期待して努力をすることはそもそもずれているという話か。
評価を得ることはもちろん大事ではあるが、評価は相対的なものであるため、自身でコントロールできない範囲ともいえる。
自身でコントロールできるところで行くと、努力をした過程(プロセス)の部分を、次の自信につなげていくことだろう。
そのためにも悔いがないように、日々を精いっぱい過ごしていきたい。


度量の違いを感じている相手に嫉妬することはありません

「ゆるす」という禅の生き方

嫉妬の感情もやはりネガティブな感情なため、できることなら不要に抱えたくはない感情だろう。
私はそもそもあまり嫉妬という感情を抱かないタイプだが、この言葉がまさにしっくりくる。
ここでは「度量の違い」と表現されているが、なんであれ自分以外の人間と自分自身は異なる環境で生きているわけで、嫉妬するのはお門違いだと考えている。
自分と他人を過剰に同化して考えないようにこれからも気を付けたい。


心の勝手な独り相撲から生じるのが不安

「ゆるす」という禅の生き方

「得体のしれない不安」という言い回しもあるが、その正体はなんということはなく自分自身の心が生み出しているもの。
たとえばそれは自身の経験からくる不安だったり、伝聞で見知っている脅威だったり、種類としてはさまざま。
ただいずれにしても出所は自身の心でしかないと思うと、少し滑稽な風にも感じなくもない。
「不安」もアラートとしての機能などを考えるとゼロにすべきではないが、上手に向き合いたい感情の一つだ。


拗ねてしまえば
~中略~
動きがとまります

「ゆるす」という禅の生き方

拗ねている状況はある意味で自己防衛の姿ともいえるだろうか。
瞬間的な防衛としてはありかもしれないが、たしかにこれだけにとどまると次のアクションにつながらない。
自分が「拗ねているな」と感じたら、建設的な次のアクションを考えられるように思考をシフトしたい。


「身口意の三業を整えなさい」

「ゆるす」という禅の生き方

身:ふるまい、口:使う言葉、意:意思 のことだそう。
本来の自分の意思と異なる言動や、口だけで行動が伴っていない人など、この三つが整っていない状況はとても違和感がある。
また、三つのうちいずれかのみを鍛えすぎたり、一つが欠けたりしても十分ではなく、ここもやはりバランスが大事。
単純に人としての魅力の根源ともいえる三要素だろう。


失敗を後悔でしか捉えられないのは、結果だけに目が向いているから

「ゆるす」という禅の生き方

上のほうでも出てきた言葉に近いが、重視すべきは結果ではなく過程のほう。
これはコーチングや子育ての分野でも出てくる話だが、人をほめるときも結果ではなく過程に注目したほうがいいともいう。
よく引用されるエジソンの言葉にもある通り、失敗も一つの経験であり、成功に向かう過程にいると考えたほうが適切だろう。
結果は結果として喜ぶことも大事だが、それがすべてにならないように気を付けたい。


足るを知る(「知足」)

「ゆるす」という禅の生き方

世の中には本当にいたるところに人の欲を掻き立てる誘惑があり、そのどれもがなにかの「不足」を指摘してくる。
当然ビジネスとはそういうものなのでそれ自体は悪いことではないが、周りから受け取る情報に対して自分の意思をはっきりと持っているかは常に意識しておきたい。
時にはいま自分の周りにあるものをしっかりと見つめて、「すでに自分は多くの点で満たされている」のだという事実を感じ取る心の余裕を持っていたい。

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