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戦前の日本に台湾高砂族を追ったオペラ俳優がいた!(藤村梧朗と高砂族研究)

 藤村梧朗、今やその名を知る人は少ないだろう。大正時代に一世を風靡した浅草オペラの大スターである。
 その彼が浅草オペラを経て、1930年代に台湾の先住民・高砂族の研究に没頭していたことをご存知だろうか?彼は先住民と生活を共にし、民謡や舞踊を修得して日本に持ち帰り、浅草や戦地慰問などで高砂族の生活がどんなものか伝えようと情熱を傾けた。
 ここでは今まで知られていなかった、藤村梧朗の台湾での活動、日本ではどのように高砂族の民族舞踊の普及につとめたのか。
 戦前の台湾と日本の架け橋になったオペラ歌手の足跡を辿っていきたいと思う。

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第1章 藤村梧朗の生い立ちと日本オペラ創世期について

藤村梧朗 1920年頃

 藤村梧朗(本名・菱沼五郎)は1897年(明治30)1月1日、宮城県仙台市の旧家に誕生した(注1。幼い頃から剣道やスキー、野球に親しむスポーツ青年であったが、志の高い父の考えから弁護士になるよう東京へ上京したのが1912年頃のことで、旧制・正則中学に入学。学校の教育方針である英語教育のもと、深い興味を持って語学を学ぶ一方、東京の女学校を卒業後に東京に嫁いでいた姉・春代がクリスチャンだったことから、共に教会に通ううちに聖歌隊に魅せられるようになり、霊南坂教会の聖歌隊に入隊することになった。
 しかし、西洋音楽に親しむのは軟弱という当時の風潮から、父の逆鱗に触れてしまった藤村は勘当されてしまうが、勘当をチャンスと捉えた藤村は思う存分に音楽活動に勤しむようになり、1916年(大正5)2月に清水金太郎、原信子、原田潤らの東京音楽学校出身の声楽家によって結成された尚樂會のコンサートに聖歌隊の抜粋メンバーとして出演。四重唱のひとりとして讃美歌第一編『見よ群がる悪の霊』(John Bacchus Dykes作曲)を披露し、このコンサート出演がオペラ活動の足掛かりになったと考えられる。

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