見出し画像

「母性本能」という名の幻想

皆さんは「NANA」という漫画を覚えているでしょうか。
2000年に女性漫画誌「Cookie」で連載開始し一世を風靡した、矢沢あい先生による少女漫画作品です。
デジタルを駆使したお洒落な画風、華やかでダークな世界観と不純な女性たちの本音を孕んだ内容は、当時のメジャーな女性向け漫画の中では衝撃的なものでした。

私が「NANA」の中で最も印象に残っているのは、主人公のナナが産婦人科を訪れるシーンてす。
同居人である奈々に「子供ができたら産みたいと思うのが当然」「分からないけど、母性本能とか…」と言われ、困惑したナナは産婦人科医にこう質問します。
「母性本能って…あたしよく分からないんですけど…普通は誰にでもあるものなんですか?」

ナナの不安げな表情が、自分の感情とぴったり重なり、深く共感したのをよく覚えています。
なぜなら私もまた、自分の中に「母性本能がない」ということに、不安と違和感を持ち続けてきたからです。

女性なら誰もが「子供を産みたい」と思って当たり前、赤ちゃんを可愛いと思って当たり前。子供の頃から、出産の仕組みとともに女性には母性本能がもともと備わっていると教えられてきました。
しかし自分には、「女性は大人になると出産できるようになる」という事実は学術的に理解できても、それを「したい」と思う欲求とは一向に繋がりませんでした。

自分の身体に「子供を産む機能」があるのは分かった。でも、それを使いたいとは思わない。女性には当然備わっているはずの母性本能が、どうやら自分には備わっていないようだ。自分は女性としておかしいんじゃないか…
「子供を産みたいと思えない」ただそれだけのことで、学生時代の自分はひどく追い込まれていました。

しかし近年、育児系の掲示板などでも、「自分には母性本能がないのでは」と発信する女性を多く見かけるようになりました。9ヶ月に及ぶ妊娠期間を経て子供を産んですら、母性本能の正体が分からないという人が多くいるのです。
では、多くの女性を良くも悪くも囚えて離さない「母性本能」とは何なのか、その正体について調べてみました。

母性本能の正体

母性本能とは、下記のように定義されています。

広義にはある種の生物の母親が種普遍的にもつ繁殖に関わる行動を引き起こす本能。狭義には未熟な状態で誕生し、一定年齢に達するまで保護者の養育なしに生存できない生物の雌親(母親)に見られる養育行動の反応および行動原理として存在するとみなされる本能のことである。

この語は学術用語ではなく、通俗的に使用されている。したがってその定義は非常に曖昧である。

(Wikipediaより引用)

これによると、母性本能とはあくまで社会通俗的な名称であり、あくまで社会的に「存在するとみなされている」だけの、医学的・動物行動学的に証明されたものではないのだそうです。

また、発達心理学においては、「愛着理論」を提唱した心理学者ジョン・ボウルビィが「母性の発生発達は、子供の発育発達と同時進行である」とし、子供を産んだあとに初めて養育義務を自覚、子供を守る行動をせねばという感情が発動し、それを"母性"と呼ぶとしています。
庇護行動としての潜在的母性は認めつつも、産まれる前からの母性本能の存在は否定している点が特徴的です。

一方で、社会心理学の観点では、子供が産まれる前にせよ後にせよ、潜在的な「母性」というものはそもそも存在しないとしています。
女性には母性があるのだから家で育児をすべきだ、社会進出すべきではないと、女性の社会的地位や行動を規定するために作られた、男性側に都合の良い根拠に過ぎない。サラ・ハーディは、世の女性は個人の欲求と社会による母性本能の押し付けの板挟みに合っていると述べています。

このように、発達心理学も社会心理学も、母性本能とは科学的に証明された決定的なものではなく、出産という繁殖行動、保護の必要な乳児を助け守ろうとする庇護行動を、行なっているのが一般的に母親であることが多いことから「性」という言葉で表現したに過ぎない、後付け的なものだと定義しているのです。

女性に責任を押し付ける社会

医学的根拠としての「母性本能」は存在しない。生物の繁殖行動は、母性からの本能ではなく、男性も女性も関係ない、純粋に生物としての種の生殖本能からである。そのことが分かっただけで、気持ちは大分楽になるでしょう。
もちろん、「生物なら繁殖すべきだ」という新たな否定を投げられることもあります。それでも、「女性なのに、子供が欲しくないのはおかしい」と自分の性別を絡めて否定されるのは、生物として否定されることよりも心のダメージが圧倒的に大きいのです。
それは何故なのでしょうか。

「生物としておかしい」なら、生物学的にいくらでも反論が出来るのです。
現実問題、今の日本は適正人口(国土における森林面積の割合から算出すると、5500〜6000万人と言われる)を大きく超えており、現在は出生率低下によって人口を適正数に戻そうとする種の防衛本能が働いていると言われています。
その本能は、主にオス(男性)の性欲低下という形で現れますが、メス(女性)の出産意欲の低下もまた、人工抑制本能の現れと言って間違いないでしょう。

しかし、社会構造的に少子化が問題視される中では、母性本能が妄信されることによって、子供を持つ気のない男性と子供を産む気のない女性では、女性への批判のほうが圧倒的に多いという、片方の性にのみ出生率の負担を過剰に負わせるいびつな構造が仕上がっています。
2009年度流行語大賞にノミネートされた「草食系男子」は、昨今の産まない選択をした女性と根本的には同一のものです。それなのに世間は、産まない選択をした女性には「女性としておかしい」とまで罵詈雑言を浴びせるのに対し、草食系男子には「恋愛って楽しいよ、セックスって気持ちいいよ」くらいしか助言をしないのです。

「母性本能の有無」という男女の違いを取り払い、生物としての種の存続に目を向けてみれば、この国の過剰人口という問題がはっきりと見えてきます。それを「女性限定」の問題に見せかけられることで、母性本能のない個人の欠陥として扱われ、女性同士の間でも産む・産まないの優劣がつけられてしまうのです。

「母性本能」からの開放

「女性なのに、子供を産みたくないなんておかしい。」
その言葉は、産む産まないに関わらずすべての女性から個人としての尊厳を奪い取ります。
子供を産むことに、女性の一生は集約されている。本能に従って、生物として与えられた役割の中で生きろと言われているのと何ら変わりません。
母性本能の話をされるとき、私たち女性は個人の名前を失い、ただの「女性というひとくくり」にまとめられた概念的生物でしかなくなるのです。

母性本能は、社会の幻想です。
私たちは、私たち個人の名前を失わないまま、心の奥底からの願望や欲求に従って生きていくべきなのだと思います。
「自分は、女性なのに子供を産みたいと思えない」と自分を責める必要はどこにもない。そして出産を望む女性も「自分は、女性だから子供を産みたいと思う」と考えることもありません。産みたいと思う気持ちもまた、女性だからではなく、自分自身の固有の願望なのだと自信を持って欲しい。

誰もが、己の願望に自信を持って向き合える社会に。
それが、この社会が「母性本能」から開放される第一歩なのだと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?