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教育委員会に飯盛女の墓を残すようお願いした話/取材記(2022/9/28)日光例幣使街道・木崎宿


木崎宿(現群馬太田市、旧新田町)を取材しました。

日光東照宮に奉納する天皇の勅使が下向する街道として整備された日光例幣使街道。同街道は中山道と日光街道(西街道)をショートカットするように、それぞれ倉賀野宿(現群馬県高崎市)と楡木宿(現栃木県鹿沼市)間、直線距離にしておよそ60kmを結んでいます。木崎宿は、倉賀野宿から数えて6つめにあたる宿場です。

当時、飯盛女を置くことは、宿場町の繁栄策でした。

十返舎一九『続膝栗毛』に描かれた飯盛女と遊冶郎

木崎宿と同じ上野国にあった中山道・太田宿では、天保8(1837)に飯盛女を置くことを願い出ました。理由は、飯盛女がいないことで宿泊客が少なく、37軒あるうち廃業した旅籠もあることから、飯盛女を置いて再興を図りたい、というもの。宿場の宿泊客は、街道を往来する旅人や公用の役人にとどまらず、宿場の運営を担う肉体労働者である助郷人足も含まれます。力仕事を担う助郷人足は近村から駆り出された青年が多く、従って、人足仕事に従事する行き帰りに飯盛旅籠に泊まり、飯盛女を買うことが多かったようです。宿場町の繁栄=通行量と思い込んでいた私には興味深い内容でした。

概略上記を含むことが、『新田町誌. 第3巻 (特集編 日光例幣使道・木崎宿)』「第四節 旅籠屋と飯売女」で説明されています。同町史は一章を割いて飯盛女を説明するなど、郷土史では忌避される傾向のある売春について詳述していますので、興味のある方はご覧になって下さい。

また、市販されている本では、宇佐美ミサ子が『宿場と飯盛女』の中で、太田宿の飯盛女設置反対運動について取り上げています。

宿場の繁栄のため設置を請願したり、あるいは風紀のため反対運動が起きたりと、宿場運営の都合に振り回された飯盛女。宿場の最下層であった飯盛女が公娼以上に蔑視の対象であったであろうことは、木崎宿に伝わる民謡『木崎節』でも容易に知れます。

『木崎節』
木崎街道の三方の辻に お立ちなされし色地蔵さまは、
男通ればにっこり笑う 女通れば石とって投げる
これが木崎の色地蔵さまよ
越後蒲原ドス蒲原で 雨が三年、日照りが四年
出入り七年困窮となりて(中略)
新潟女衒にお手々をひかれ 三国峠のあの山の中
雨はしょぼしょぼ雉るん鳥や啼くし やっと着いたが木崎の宿よ
木崎宿にてその名も高き 青木女郎屋というその家で
五年五ヶ月五五二十五両 永の年季を一枚紙に(後略)
(『新田町誌. 第3巻 (特集編 日光例幣使道・木崎宿)』より引用)

木崎宿に残る色地蔵(寛延3〈1750〉年)、元は子育地蔵だが、やがて飯盛女の信仰を集めるようになったと『新田町誌』と同町教育委員会が設置した案内板は伝える。(撮影・渡辺豪、無断転載禁止)

一方、木崎節が唄われる盆踊りでは飯盛女が櫓の上で踊ったという、明治28年生まれの男性の記憶を、町史(『第5巻 (特集編 新田町の民俗)』)は拾っています。地域と共生する飯盛女の姿もありました。

本題

さて、私は今取り組んでいるテーマのため、2022年9月、同宿場に残されている飯盛女の墓を尋ねました。ここで、ある場面に出会いました。前置きが長くなりましたが、本稿では、木崎宿や飯盛女の成り立ちではなく、この場面を中心に話してみたいと思います。

同町内の某寺が管理する墓地を調べている最中、作業員さん達が、飯盛女の墓を含むと思われる無縁墓を重機で持ち上げ、トラックに運び始めました。移設か処分か訪ねたところ、処分とのこと。とてもショックでした。これまで具体的に保存活動をとってこなかった自分が、たまたま出くわしただけの場面に心が沈むことは、所詮一時の自慰的な感傷に過ぎないと分かっていても、やはり辛いものです。

墓石の処分がどのようなものが分かりませんが、おそらく粉砕して他の土砂と一緒に扱われるのでしょうか。墓石が失われてしまえば、飯盛女として従事していた女性たちが生きた証、それも限りなく少ないうちの一つが永久に失われます。およそ2〜3世紀年にわたって残されてきた墓石が、今この瞬間に眼前で消えていくこと、それに対して何もできない自分がとても残念でした。

売春の歴史を語り継ぐことは難しい──
よく、そうした言葉を耳にします。私も同意します。

ただし同町では、これまでそうした難しい歴史を残す努力を払ってきたこともまた事実です。地元の努力を調べることなく頭ごなしに「難しい」とし、どこかしら自らを俯瞰する高みに置きたい下心が透ける言葉に、私は多く出会い、その都度、小さくない憤りを覚えてきました。

高崎市の郷土史家・永岡利一氏は木崎宿を始めとして例幣使街道沿道の寺院墓地を実地調査して、飯盛女の墓の所在を明らかにし、昭和50年代にいくつかの論考を残しています。前述のように地元の『新田町誌』には飯盛女が立項され、多くのページを割いています。永岡氏はこの町史編纂にも協力しています。リファレンス協同データベースには、永岡氏を始めとする関連文献の一覧があります。参考まで。

時を同じくして、『中央公論』に『良寛』を連載中だった作家・水上勉のもとに永岡氏から手紙が届き、永岡氏が水上を案内して木崎宿に残る飯盛女の墓を訪れています。飯盛女の墓石を調べると良寛が庵を結んでいた越後蒲原出身の娘が多く、時代も良寛のそれと重なったためです。水上は、良寛が一緒に手まりをついた中から、売られていった娘もいたかも知れないと、思いを巡らします。

結果的に永岡氏は水上に大きな示唆を与えています。『良寛』の他に独立した作品として、『くがみの埋み火』(『海燕』〈5巻6号、1986年初出〉)、『良寛を歩く』(1986年、日本放送協会)を著しており、それぞれ永岡氏も作中に登場するので、興味ある方は読んでみてください。

ちなみに『良寛を歩く』は文庫本化されていますが、取材中の水上や当時現存していた飯盛女の墓や飯盛旅籠を写した口絵(撮影・水谷内健次氏)が収録されている単行本がオススメです。

『良寛を歩く』はNHKの同名番組向けに書かれたためか抑制的な筆致ですが、一方『くがみの埋み火』は、飯盛女や仏教界への水上の目線が強烈に表れており、読書目的ならこちらをオススメします。現在は『秋夜』に収録されており、こちらで読めます。

話を木崎宿に戻すと、先の某寺には平成15年に建立された飯盛女の供養碑があります。石碑の建立者には、地元を代表する古刹と、地場企業、地元の有志者が名を連ねています。

飯盛女供養塔(撮影・渡辺豪、無断転載禁止)

飯盛女の歴史はセンシティブなものには違いありませんが、飯盛旅籠や遊廓(貸座敷)の歴史が幕を閉じた後も、およそ半世紀にわたって地元が先頭になって、歴史を継承する努力が払われてきた事実があります。

門外漢の私が墓石を残すよう要請することは、やり方を一歩間違えれば傲慢な行為に転じてしまいます。少子高齢化で、いわゆる墓じまいの話題も仄聞するこのご時世、お寺の経営もかつてとは異なる難所に差し掛かっていることは想像に難くありません。一方で、先人たちが受け継いできた歴史が無に帰してしまうことにも、やりきれないものを覚えました。

非力な私にできることは少ないですが、自治体の教育委員会宛に、今回の経緯説明と、善処をお願いする手紙を書き送りました。せめて文化財調査だけでも。

追記

墓地で作業中の方に、今撤去中の墓石が飯盛女のものかどうか心当たりがないか尋ねました。答えは「分からない」とのこと。寺院から作業を委託されただけに過ぎず、撤去対象の由来などに興味関心がなくとも勿論仕方が無いことです。ただ、「飯盛女ならこんな立派な墓は作って貰えないよ。ハハハ」と笑われてしまい、私はこの笑いがとても気になりました。

この笑いは見知らぬ者同士の緊張をほぐす他愛のないもので、むしろ作業員さんの気遣いに違いありません。一方でどこかに嘲るような印象も拭いきれませんでした。

言うまでも無く、作業員さん個人を責めたいのではありません。私たちに共通する、遊廓にまつわる歴史・文化に接するときに少なからず現れる態度に重なることを指摘したいのです。

遊廓が話題に上ると、とかく「絢爛豪華な建物」「芸能に秀でた遊女」が持て囃されます。管見の限り、豪華絢爛とは呼びがたい建物が数の上では大半ですし(そもそも大衆史に属す事物の価値を図る物差しに、資力ばかりを持ち出すことがナンセンスです)。加えて、当時の遊女と経営者間における絶対的な経済的格差を前提とすれば、秀でた遊女もまた例外に違いありません。さらに言えば、例外で稀であればこそ、大衆はそれを物語化して伝承してきたのだと私は理解しています。

この〝何となく豪華で優れたもの〟に歴史的価値や文化的価値を見いだし、それ以外は残す価値が低いものと見做すような歴史観に、私は首肯できません。本来、日陰になりがちな大衆史が権威主義に絡め取られて、かえって大衆の生き様を忘却に押し流してしまう矛盾への無自覚もまた、私が指摘したいことの一つです。

名も無き人々の犠牲の上に現代は成り立っている、といった言葉は聞き飽きるほど聞く言葉ですが、同時に容易に忘れてしまいます。(より具体例を示すならば、娼妓(遊女)から徴集した賦金(税金)によって地域の病院が建設されている事例も多くあります)

私は名も無き大衆の一人だからこそ、同じく、名も無き人々が手段が限られるなか残した「歴史のカケラ」を大切したいです。

大通寺管理墓地に残る飯盛女の墓。「妙道善女」の戒名を持つ墓石側面には「越後国蒲原郡三条左 田島村太四郎娘くみ 天保七年九月十日」と刻まれていた。飯盛女を含むと思われる墓石の少なくないものが傾倒しており、保存の難しさが窺えた。(撮影・渡辺豪、無断転載禁止)

この話の続きです。

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