「教育委員会に飯盛女の墓を残すようお願いした話」の続き

こちらの記事の続きです。

太田市教育委員会長宛に、飯盛女の墓を残すようお願いする手紙を差し上げたところ、一週間ほど経った10/7、同会文化財課からお返事が届きました。

もちろん手紙一枚で解決するなどとは毛頭思い上がる気持ちはありませんでしたが、予想の範囲内とはいえ残念です。

当自治体に限らず、遊廓があった地域が町興しの一環で、その遊廓に言及するとき「賑わい」や「文化」という文脈で、称揚や美化の響きを含んで伝えることが多くあります。不特定多数が目にする公共性の高い場所・媒体に掲載する文体には限界があることは現実問題致し方ない、と私は理解しています。

ただし、これには前提があります。そうした当たり障りのない配慮的表現であっても、それを入り口にして奥行きを知る「きっかけ」となる意義を情報発信者(多くは行政やそれに近い立場の組織、個人)が理解していること、が前提です。乱暴な言い方ですが、嘘をつく側が嘘であると理解していなければ、それは単なる嘘(虚偽、言葉足らず)のままであり、「方便」「建前」足り得ません。

20世紀半ばまで続いた遊廓ないし赤線は、記憶がいまだ生々しく残る場合も少なくない一方で、近世期の飯盛女は、その時代から2〜3世紀も下って既に記憶は退色しています。宿場町の歴史を活用して町興しを企図する地域が、飯盛女を「賑わい」の一端に引き合いに出すことにも抵抗がないことでしょう。このように私は予想しています。すなわち飯盛女の観光資源化です。

ちなみに木崎宿でも地元有志者が道標を建て、宿場町としての町興しを企図する機運が少しずつとはいえ高まっているような印象を覚えました。

平成16年造。新田町観光協会と「飯盛女供養塔を建てる会」が設置。公道に建つ。(写真・渡辺豪
無断転載禁止)

飯盛女に限らず、どのような歴史分野においても史跡という一次資料が失われる損失は計り知れませんが、前述したような観光資源、観光言説に援用される時代が近づいているとすれば、損失はさらに大きなものです。

私が言うのもおこがましいのですが、歴史を文章で理解することと、物・場所という一次的な情報で体感することは、(本来比較する対象ではないとはいえ)、やはり後者が心に深く染み入るものです。深く染み入った分だけ、愛情が増したり、学習のモチベーションに還元されます。さらには、前者は受け手に知識が要求されますが、後者は受け手の知識レベルに関係なく、心に訴えかけてきます。

その意味で、史跡は、歴史研究者や愛好家といった高度な知識を有する特定少数に限らず、地域社会という広い範囲で継承し、現代はもちろん後世が恩恵を享受する権利を有するものだと思います。

当時をしのぶ史跡もなく、観光言説の文脈ばかりに表れる飯盛女には奥行きがなく、「賑わい」「文化」が、言い換えや配慮的表現であるということが伝わらなくなる。建前が建前と、方便が方便と分からなくなる、そんなことを危惧しています。

教育委員会文化財の担当者様には、多忙なところを丁寧な文面でお返事を下さったこと、感謝しています。一方で、当件に関して無為的な対応が前提にある文面が残念です。机上の丁寧な仕事だけではなく、(何もできないとしても)現地に足を運んで貰いたかったのが正直な感想です。


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