20代で両親を癌で亡くした僕が伝えられる事とは
はじめに
はじめまして。僕は今年37歳になる、ゆうじと申します。
母を亡くしたのは21歳の時でした。父を亡くしたのは29歳の時。
そんな僕の死別経験を当時を思い出しながら書いていきます。
まずは母との死別について数回に渡って書いていきます。
母の死別は入院から亡くなるまで約1ヶ月足らずでした。
僕も21歳と若かった事もあり母との死別は毎日がショッキングな事ばかりで精神的にかなり辛かったのです。
■何も言えず泣くことしかできなかった母から告げられたショックな言葉
■告知
■母に嘘をつかなければならなかった日々から解放された事を喜び自分のことしか考えなかったあの日。
■今でも後悔している告知したあの夜。
■母にはすべてお見通しだった僕の嘘。
■生きるのを諦めた母の前で一人悔し泣きをしたあの日の夜。
■延命かそれとも時の流れに身を任せるのか。
答えは出ているのに言葉にできない究極の選択を強いられたあの日。
■誰よりも辛かった父の決断。
■泣きながら心を込めて「おれ幸せだよ」と伝えられたあの日。
■好きな人がいるんだと初めて伝えたあの日。
■なんであんなことをしてしまったのだと未だに後悔している亡くなる前日の行動。
■僕が来るのを待っていた母。
■永眠。
■母が亡くなってから体験したいくつかの不思議な出来事
同じように死別を経験した方など、僕の経験談を読んだ事で一人でも多くの方の何かしらの生きる活力などになってくれたら嬉しいです。
それでは書き記していきたいと思います。
最後までお付き合い頂けたら幸いです。
■我が家の門限
僕の家族は父、母、兄と僕の4人暮らし。
父と母は歳が7つ離れていた。
僕は父が40歳の時に産まれた次男。
母は専業主婦でとにかく心配性。
子供の僕から見ても過保護。
小学生~中学生の時は門限が17時。
高校生の時も部活を1年の夏に辞めて帰宅部になってからは
18時が門限だった。
したがって中学生、高校生の時の体育祭や文化祭の打ち上げに参加した事は1回も無い(苦笑)
なぜ僕がここまで馬鹿みたいに門限を守っていたのかと言うと強烈な経験が小中高と3つあったからだ。
■事件①小学3年生の時
小学生3年生の頃は放課後は同学年の友達と遊ぶよりも3つ上の兄に付いていき兄の友達達と遊ぶ事が多かった。それに楽しかった。
この時から野球をするのが大好きになり、兄達と野球をして遊ぶ毎日だった。
小学生のスピードで自転車で20分ぐらいの所に野球ができる場所があり、人数が多い時はそこで遊んでいた。
そんな時、1つ目の大きな事が起こる。
その日の帰りは雨が降っていたのをはっきりと覚えている。
しかもそんな土砂降りではなく、大粒の雨でもなく、シトシト降るぐらいの。不思議な事にそれぐらいはっきりと覚えている。
雨が降っていたからだとは思う。
母も心配だったのだろう。
家のすぐ近くに傘も差さずに雨に濡れて僕らの帰りを待つ母が立っていた。
僕らを見つけて安堵したのだろう。母が心底ホッとした表情を浮かべ
「良かった、、無事に帰ってきて…」
子供ながらに母との温度差に驚いた。
門限にも間に合ったか、過ぎたとしてもほんの5分ぐらいだったと思う。
まるで生死の狭間から帰還したぐらいの温度感で。
■事件②中学3年生の時
高校受験のために塾に通っていた僕。
その塾に好きな女の子も通っていた。
思春期でもあるし、その子には彼氏も居た。
学校だと話しかけにくいが、塾では話しやすかった。
僕が通っていたのは個別指導塾。
自習スペースで僕の好きな子が勉強している。
僕は自分の授業が終わると白々しく友達と一緒に自習スペースに向かった。
僕にとっては至福の時だ(笑)
1秒でも好きな子と同じ空間に居たい(笑)
勉強そっちのけで他愛の無い会話をする。
すると塾長が僕の所に来た。
「ゆうじ君、お母さんからゆうじ君が帰って来ないって電話が掛かってきたから早く帰りなよ?」
塾長は僕に早く帰るようにと帰宅を促してくれた。
しかし僕は好きな子と一緒に居たい。
その後短時間で2回、3回と母は塾に電話を入れた。
塾長にすれば迷惑な話だ。
それでも時間にして授業が終わってから20分ぐらいだ。
まだ大丈夫だろうと思っていたが、さすがに塾長にも迷惑を掛けているし、
母に怒られると思った。
僕はようやく友達と帰路に就く。
しかし友達がそういった経緯を知りながらもコンビニでおでんを食べようと言い出した。
僕は心の中では母に怒られるのが怖いから1秒でも早く帰りたいと思いながらも、そんな恥ずかしい事は言えないと断り切れず…。
友達がおでんをゆっくりと食べているのを横目に焦り出す。
友達からすればそんな事は関係無い。
それに熱々のおでんだ。
そんな早く食べられる物でもない。
僕はしびれを切らし、友達が最後の具を頬張ったタイミングで
「じゃあ帰るね!」とそそくさと帰路に就いた。
全速力で家に向かって走っていると暗い夜道に母の姿が…。
母は極度の心配性だ。
そしてこういう時に自分の世界に入ってしまう、
というか取り乱してしまう。
「ゆうじが居ない、ゆうじが帰ってこない」
母は独り言をブツブツ言いながら、
まるで徘徊しているようだった。
僕は自分した事の重大さを瞬時に理解し後悔した。
母に向かって「ゆうじだよ、ここに居るから大丈夫だよ」
それでも母には僕の声が届いていなかった。
母はまた同じように、何かに取りつかれたように
「ゆうじが居ない、ゆうじが帰ってこない」
と言った。
僕は母の両肩を掴み、身長差のほぼ無いものの
母の視線に自分の顔が映るように膝を曲げて
「ごめんね…ゆうじだよ。ここに居るから大丈夫だよ」
と声を掛けた。
すると母はようやく僕の事を認識して声を震わせながら
「ゆうじだ…ゆうじが帰ってきた…」と全身の力が抜けたようだった。
そんな母の姿を見て、母に心配を掛けてしまった事、こんなにも大事に思ってもらえている事が嬉しくて、自分のした軽率な行動を深く後悔した。
もらい泣きしてしまい、夜道にもかかわらず、母と抱き合った。
■事件③高校2年生の時
高校生になると門限は中学3年時の17時から18時に変更になった。
僕は当時アルバイトもしていなかったし、部活も高校1年の夏に辞めていたので帰宅部のため17時ぐらいには帰宅していた。
しかしある時、クラスメイトの女の子が入院した。
そこでクラスメイトの何人かでお見舞いに行こうという事になった。
これまで何度かクラスメイトの何人かがお見舞いに行っていたのは知っていた。
何点かはっきりと覚えているのは1つ目にこの日お見舞いに行く事になったのは当日に決まった事。
2つ目は兄にお見舞いに行く事がきまった時点で事前に「今日は帰るのがギリギリか少し遅れると思う」とメールで伝えていた事。
3つ目は何故か友達のお見舞いに行くと目的、理由を伝えなかった事。
理由をきちんと伝えていれば母も理解してくれていたと思う。
しかし恐らく、入院していたのが女の子だったから、詳細を聞かれてた時に
勘違いされたり、冷やかされたりするのが嫌だったからなのだと思う。
父も母も兄もそんな事をしてはこないのに思春期だったからなのかな(笑)
高校生になると僕は携帯を持たせてもらっていた。
母は携帯は持っていない。しかし3つ上の大学2年生だった兄は持っていた。
僕の真意は「帰るのがギリギリ(=17時)か少し遅れる(=18時)」という事で、それも兄にも母にもきちんと伝わっていたと思う。
しかしここでも想定外の事が起こった。
1つ目は病院の場所が友達が居ないとわからなかった事。
当時はガラケーと言われる折り畳み携帯。
現代のようにサクサクと経路を調べる事もできない。
学校から自転車で病院まで友達が案内してくれたので、
帰りもその友達が居ないとダメだった。
その友達はその病院からすぐ近くに住んでいたため、
18時になっても問題無し。
しかしそれは僕にとっても大問題だった。
そう僕には門限があるからだ…。
兄から何通かメールが入る。
母からの伝書鳩のように。僕にはそれがわかった(笑)
「何時ぐらいに帰って来れそう?」
「母ちゃんが心配している」
時間が経つにつれ、早く帰りたい、早く帰らなくちゃと気が気でない僕。
友達との会話も頭に入ってこなければ、ずっと携帯を眺めては兄からの返信を待つ。
やっとの思いで帰路に就ける事となる。
メールでその旨を伝える。
しかし友達が居る手前、恥ずかしくて電話ができない。
かと言って母の声を聴かないと安心できない…。
友達と別れたタイミングでようやく自宅に電話ができた。
しかし電話に出たのは兄だった。
母親に代わってほしいと兄に伝えるも、
「母ちゃんがお前とは話したくないって」と気まずそうに答えが返ってくる。
母にも申し訳ないし、巻き込んでしまった兄にも申し訳ない。
急いで帰宅し、いつもなら手洗いうがいをするのだが、それよりも母の顔が見たい。
リビングに入るとそこにはソファー兼ベットで寝ている母の姿が。
父も仕事から帰宅し晩御飯を食べている。
「ごめん連絡もしないで」と謝るも母は見るからに不機嫌な態度で
まるで僕が居ないかのようにブスっとしていて無反応。
そこでようやく理由を説明した。
今にして思えば何故、お見舞い中~帰宅中に兄とたくさんメールをしたのに、メールで「お見舞いに来ている」と伝えなかったのか(苦笑)
はっきりと覚えているのは、帰宅してすぐのこの重苦しい雰囲気の中、「○○のお見舞いにみんなと行っていた」「友達が居ないと道がわからないから帰りたくても帰れなかった」と言って、そこでようやく母が「なんで最初からそれを言わないの。」と叱られ、その後許してもらえたという事。
最初から素直に言えばこんな事にならなかったと反省したのを凄く覚えている。
■母からのSOS
母の異変を感じたのは忘れもしない2008年11月9日の事だった。
その日は僕の21歳の誕生日。
結局これが母と過ごした最後の誕生日となった。
僕はプロ野球の西武ライオンズの大ファン。
兄はプロ野球の読売ジャイアンツの大ファン。
この年両チームはリーグ優勝し、日本シリーズで対戦した。
そしてこの日は勝ったチームが
日本一になるという大事な日。
日曜日ということもあり、いつものように父、母、兄と4人で
テレビで野球見ながら晩御飯のしゃぶしゃぶを食べていた。
週末のいつもの光景。
しかし母の異変はすぐに起こった。
食べている途中で突然吐き気を催し、
食べるのを止め、流しで嘔吐を繰り返した。
僕は食事中だった事、
テレビ観戦の邪魔をされたことに腹を立て
苦しんでいる母につい酷い言葉をかけてしまった。
「うるさいな!食事中だぞ」
「ごめん・・。鶏肉に当たったのかも」
僕はその時その言葉を鵜呑みにし、
ただの一過性の食あたり程度にしか思っていなかった。
母はその後2階の寝室で横になった。
その時には僕も冷静になり、母の代わりに食器洗いと洗濯をした。
ちょうど母の寝室の前の部屋で洗濯を干していると
襖の奥から母が話しかけてきた。
「ゆうじ、ごめんねせっかくの日本シリーズの時に・・。」
「気にしないで良いよ」
「西武勝つと良いね。でもそうするとお兄ちゃんが怖いか(笑)」
「うん。でも今日は誕生日だし絶対に西武が勝つよ!おやすみ」
そして試合は僕の宣言(?)通り西武ライオンズが日本一になった。
胴上げやインタビューを見届け僕は嬉しくて2階の母の所に向かい、襖越しに
「はつみ(母)起きてる?西武勝ったよ!!!!」
「起きてるよ。良かったね。良い誕生日になったね」
「ありがとう!体調どう?良くなった?」
「うん。もう大丈夫だから、下に行ってスポーツニュース見て来な」
「良かった!おやすみ」
「うんおやすみ」
この時の僕は、本当にただの一過性の
食あたりとしか思っていなかった。
これが母の初めての異変で、母自身も気づかない
「母からのSOS」だっただなんてこの時は知る由もなかった・・・。
いや母はもう気づいていたのかもしれない…。
■遺影にしてね・・
母の無言のSOSから1ヶ月。
あの翌日から母の体調はすっかり良くなった。
この日は親戚の披露宴。
母だけ招待され、母はこの日をずっと楽しみにしていた。
父と兄は仕事へ。
当時学生だった僕は午後からアルバイトだった。
母は正装し、僕に家の前で写真を撮ってほしいと頼んできた。
そして家の玄関前で2枚の写真を撮った。
写真を撮り終え、庭を一緒に歩いていると
突然前を歩いている母がボソッと言った。
「私になにかあったらこの写真を遺影にしてね」
あの時の母の言葉、
母の背中は今でも忘れない。
母は先日の嘔吐した翌日からこのほぼ1ヶ月間、
普通に元気だったので、僕は冗談を言っているのだと思った。
「平均寿命よりは生きれないとしても75ぐらいまでは生きるとして
何十年前の写真を遺影にするんだよ(笑)」
とツッコんだ。
母は無言だった。
本当はわかっていたんだよね・・。
もう手遅れな状態だと・・。
僕に心配かけないようにと。
ごめんねこんなに近くでずっと居たのに
気づいてあげられなくて・・・。
この2ヶ月後、この時撮った写真は
母の言う通り遺影となった・・。
■最後の外出
親戚の披露宴は
赤坂のホテルで行われた。
母は1人では道がわからないから一緒について来てほしいと
披露宴が決まった時から僕にお願いしていた。
僕はアルバイトも午後からだったので快く受け、当日は約束通り、母と一緒に電車で向かった。
この時はこれが母との最後の外出になるなんて思いもしなかった・・。
当時僕は20歳だったということもあり、母と一緒に出掛けることはあったけれど
母親と一緒に出掛けている所を他人に見られたくなかったので
電車で出掛ける際は同じ車両には乗るけれど、
わざと離れた位置に乗っていた。
しかし不思議な事に何故かこの日は違った。
僕は母の隣に座った。しかも自分から母の隣に座った。
もうすぐ15年経過するけれど、あの日のあの車内の光景は今でもうっすら覚えている。
何を話したかは全く覚えていないけれど、ずっと2人で笑っていた気がする。
この2週間後、母に癌が見つかり、余命を宣告される事となる。
しかしこの時は母は元気だったので、「これが母と一緒に乗る最後の電車」とわかっていたならわかるのだが、あの時の僕は何故母の隣に座ったのか、
しかも普段は頑なに、あえて離れた場所に乗っていた僕が何故母の隣に自分から座ったのか未だに不思議に思う。
まるで僕も母との最後の外出になるのがわかっていたような・・。
でもこうして最後の外出した時の光景を覚えられているのは幸せなのかなと時間が経過するにつれ感じる。
「あれ最後どこ行ったっけ?」と思い出せなかったり
「行った場所は覚えているけれど、あの時どんな感じだったっけ?」
などと、あいまいにしか記憶に残っていなかったら
なんだか後悔や、モヤモヤしたような気分だけが残る気がして・・。
そう考えると自分は幸せなのかもしれないと思う。
まあ自己満足だけれども(笑)
だからこそ、やはり目の前の
「この瞬間を大切に、大事に過ごそう!」
と思う。
それが大切な人との時間であればあるほど。
どんな人とでも必ず別れは来る。
残された側になった時、
必ずその人との「時間」が、「思い出」が
自分の中の悲しい気持ちを救ってくれる。
だからこそ、ひとつでも記憶に残る瞬間、時間、思い出を
過ごしたいなと思う。
■突然の腹痛
親戚の披露宴から帰宅した母は
「ゆきちゃんとっても綺麗だった^^」
「とっても幸せそうだった^^」
と嬉しそうに僕らに今日の出来事を教えてくれた。
そんな母を見て僕もとても嬉しかった覚えがある。
しかしその翌日から僕らの環境は、
生活は一変する。
今にして思えば、この日が我が家にとって
家族4人で過ごした最後の穏やかな夜だったのかもしれない・・。
僕はこの数日後、高校の時の友達と
人生初めてのオールナイト、つまり夜から朝方まで遊ぶ予定を入れていた。
我が家は男兄弟にも関わらず、
子供の時から門限が中学生の時は部活や塾が無ければ17時。
高校生の時は18時。大学生だった当時は19時だった。
我が家は超が付くほどの過保護で僕は馬鹿みたいにきちんと守っていた。
なので今回は事前に母に交渉し、やっとの想いでオールナイトの許可をもらい、ずっとその日を楽しみしていた。
しかし・・。
翌日になると母は突然、
極度の腹痛を訴えた。
だが僕ら家族は母が元々体が弱いということもあり、
「いつものことだ。心配ない」
と軽い程度にしか思わなかった。
しかしいつもなら翌日になれば、だいたい治るのに
今回はいつになっても体調が戻らない。
だがそれでも、まだ僕ら家族は
「時期に治る。心配ない」
と危機感など全く持たなかった。
そんな僕ら鈍感な家族であったが、
ようやく初めて
「今回のはちょっと様子が変だぞ?」
と危機感を覚える出来事が起きる。
その日の夜は、父が僕らの為に
夕飯にキッチンでとんかつを揚げてくれていた。
すると突然、リビングで休んでいた母が
鼻を抑え、もうスピードで2階に駆け上がって行った。
父と僕は何事だと心配になり、
急いで母を追いかけた。
僕「どうしたの・・?突然」
母「ごめん・・臭いがきつくて・・・」
僕「臭い?何の・・?全然しなかったよ?」
母「わからないけれど、我慢ができなくて・・」
父「様子が変だな、明日〇〇医院に行こう」
僕は母がこんな状況の時に
オールナイトなどしている場合ではないと
友達に連絡してオールナイトは延期してほしいと伝え了承してもらった。
「ごめんね・・楽しみしていたのに」
「良いよ!また体調良くなったら皆に頼むからさ^^」
こんな時でも自分の事より、
僕の事を考えてくれてなんだか申し訳なかった。
そして次の日、
〇〇医院に父が車で連れて行った。
僕は母が大きな病気だったら怖いと
自分が傷つくのが怖くて家で留守番をしていた。
〇〇医院には母と兄と僕の3人、
20年以上診てもらっていた。とても信頼できる先生がいる町医者だ。
その中でも母は糖尿病に、高血圧を患っていた為、
週一回必ず通院していた。
診察が終わり、家に帰って来たとき、
駐車場に車を入れる音がしたので、
張り裂けそうなぐらい心配な僕は思わず外に出て車の中の母に目をやる。
すると後部座席でものすごく激痛に襲われ、苦しんでいる母が見えた。
そこで僕はようやく事の重大さに気づく。
「これは只事ではないと・・」
僕は運転席から降りてきた父に
「何だった?何の病気?」と
問い詰めるように食い気味でたくさん質問をした。
「まだわからない。明後日、今日の検査の結果が出るから
また明後日来てくれと。とりあえず母ちゃんを早く家の中に」
とりあえず父の言う通り、母を家の中に入れ寝かせた。
しかし僕の不安は募るばかりだった・・。
とても2日も待てるような状況ではないのに…。
そしてこの翌日僕ら家族は
絶望の底に突き落とされることとなる。
■緊急入院、緊急手術
次の日の朝になると母は多少動けるようになっていた。
母からは各自仕事と学校に行って大丈夫との事だった。
僕達はそんな母の言葉を鵜呑みにしてしまった。
検査の結果が出るのは明後日なので、僕ら家族は母を家に残し、
父は仕事に行き、兄は前日の夜から仕事。
僕は朝から大学へとそれぞれ自分の予定通りに行動した。
母の事を気にかけつつ、僕はその日大学で過ごしていた。
そしてあれはたしか午後の講義が始まってすぐだった気がする。
講義中に携帯が揺れる。突然兄からメールが来た。
(あれ?こんな時間にメールって何だろう?)
僕はメールをすぐ開いた。
すると・・
「母ちゃんが手術することになった。母ちゃんがゆうじにも来てほしいって。帰って来れる?」
僕は一気に心拍数が上がった。
(どういうこと?検査の結果は明後日じゃ?なんで手術?)
僕は状況が全く呑み込めなかった。
訳が分からなくなり、講義をしている先生の話を聴きながらノートを取る学生達。そんな中、僕は教室から抜け出し廊下へと出た。
すぐに兄に電話した。
「どうしたの?なんでいきなり手術?はつみ(=母)は大丈夫なの?」
「うん。またお腹痛くなって〇〇医院に行ったら、すぐに病院に行けって言われたんだってさ。でも今は落ち着いているから安心して。
で先生が手術になるから家族にも立ち会ってほしいってことで俺が来てる。
父ちゃんにも連絡したら早退するって。
で母ちゃんがゆうじにも来てほしいって言っている。
帰ってこれる?」
僕は食い気味に答えた。
「うん!!すぐに帰る!電車乗ったらまたメールするね!!」
僕は兄から朝からの経緯と、
現時点では母が落ち着いているという言葉を聞き、一安心した。
そして教室に戻り、荷物をまとめて急いで教室を後にした。
大学から駅まで猛ダッシュした。
普段なら歩いて15分はかかる通学路を
こういう時はやっぱり人間、底力が出るのか
ものすごい速さで駅に着いた記憶がある。
そして大学の最寄駅に着くとすぐに電車が来た。
そして自宅と病院がある最寄駅に着くとタクシー乗り場にタクシーが1台だけ停車しており、それに乗れた。
今にして思えばとんとん拍子で病院に着いた。
そのおかげもあって病院に着き、兄と合流した。
なんとか手術前に間に合った。
ストレッチチャーに寝ている母。
すぐに母の所に向かう僕。
母は僕の顔を見るなり、嬉しそうに
「あ!ゆうじ!来てくれたのね^^」
と笑っていた。
兄の言った通り、僕の目の前には痛みから解放されたような
元気な母が居た。まるで手術が終わったのではないかと思うぐらいに。
兄が先生から受けた説明では、
見た感じだだと手術すれば治ると。
ただし術後1、2週間入院は必要だとのこと。
命の危険はないと言われ、安心したのと同時に
専業主婦の母が家にいない生活は初めてになるので
家事が心配だと気になった。
そして母の手術までにまだ時間があるとのことで、
母と兄から今日の出来事を聞くと「偶然」が重なったと
口を揃えて教えてくれた。
兄は夜勤中で、本来なら会社に泊まる予定だったが、
仕事が早く終わり、家に帰って来て寝ていた。
母は僕が出掛けた後、お腹が痛くなり
〇〇医院に行って、診てもらったところ、
たまたま叔母さんも診察に来ていて
叔父に電話し、車で迎えに来てもらった。
家に一旦寄り、寝ている兄を起こし、
兄も同伴の元、叔父の車で病院まで送ってもらえた。
「もし一人だったらこんなにスムーズに病院に来られていない」
と母は偶然の出来事に感謝するように
僕に話してくれた。
そうこうしているうちに、いよいよ手術の準備が整ったと連絡が来た。
エレベーター前で、一旦別れることになった時、
母は突然僕の手を力強く握りしめてきた。
そして口を真一文字にし、強がるような表情で
「ほな!ひょっとするとこれが最後の会話になるかもしれない。」
と僕らに向かって言ってきた。
先生から僕と兄と叔母は命の危険は無いと聞いていたので笑った。
「ばーか 先生が手術したら治るって言っていたじゃん(笑)
次会うときはこのお腹の痛みから解放されているよ^^」
「そうだよね!では行ってきます!」
と僕らの余裕な態度に安心したのか
手を振りながらエレベーターに乗り、手術室へと向かった。
僕はこの時、これで母は腹痛から解放される、
これで元の母に戻れると信じて疑わなかった・・。
しかし
この数時間後、僕と母の立場は逆転することとなる・・。
■覚悟決めてください
母の手術が始まり、時間にして1時間ぐらいたった頃、父が合流した。
父は兄から一連の経緯を聞き、父もまた安堵した様子だった。
予定では手術は2、3時間で終わるとのこと。
僕はその間、兄と談笑したり、母が入院中、学生の僕が家事をやらなければと思い、自分なりに頭の中で家事についての予習、復習をしていた。
幸い、今日は2008年12月22日。
ちょうど翌日から大学は冬休みが始まる。
母のお見舞いと家事に専念できる。
母の入院中の生活に不安はあったものの、料理が得意な父はいるし、
家事もある程度はこれまでに母から教えてもらっていた。
数日間入院して退院してしばらくの間だけやれば大丈夫だろう、
「なんとかなるだろう」ぐらいに考えていた。
なので母の体調についてはこのまま回復に向かう一方で一切の不安もなければ、病気の可能性や疑問は持たなかった。
そして手術から2時間ぐらいたった頃、僕ら家族の元に看護師の方が来た。
看護師の方は笑顔で「手術が終わりましたので、ご家族の方はこちらへどうぞ」と案内してくれた。
この時、看護師の方は間違いなく「手術は終わった」と僕ら家族に告げた。
僕らはその言葉に何の疑問も持たず、というか疑問を持つはずもなく、
「予定より早く終わったね^^」などと一様に安堵し、母の元に向かった。
しかし、すんなり母に会えるのかと思いきや
手術室の前には来れたものの、なぜかまたロビーで待機することとなる。
そしてそこで2、30分程度待たされた後、先程の看護師の方が、僕らの元にまた現れた。
しかし先程とは打って変わって神妙な顔だった。
(あれ?さっきと様子が違うけど、どうしたんだろ?)
すると看護師の方は、暗いまま
「先生からお話がありますので、こちらへどうぞ」と僕らを案内した。
(なんだろう?さっき手術は終わったって言っていたのに・・)
僕らは訳が分からず、言われるがまま小さな部屋に案内された。
パイプ椅子に3人が横並びになると喫喫な部屋だ。
横幅の余裕はほぼない。
目の前には白い机。
すると奥から小太りの先生が現れた。
先生もまた神妙な顔をしている。
僕はこの瞬間、悟った。
「只事ではない」と。
しかしそれは僕の予想を遥かに上回る
最悪の、衝撃の知らせだった。
重苦しい雰囲気の中、先生が口を開く。
「手術はまだ終わっていません。」
「お母様のお腹を開けたら癌細胞が見つかりました・・。」
「S状結腸癌です。」
「悪性です。」
「末期です。」
「持って3ヶ月です。」
「抗がん剤が効けば、半年は持つと思います。」
「覚悟決めてください。」
訳が分からなくなった。
先生の口から怒涛の悪夢の知らせが告げられ、
とてもじゃないが現状が、状況が呑み込めなかった。
呑み込めるはずなどない。
(なんだよそれ、さっき手術終わったって言っていたじゃないか…)
(覚悟ってなんだよ・・・)
(ただの腹痛じゃなかったの!?)
(え?はつみ死んじゃうの・・?)
いきなり突き付けられた母の余命。
母との別れが近いという現実。
ただの腹痛と思っていたら
母の命はもう手遅れという事実。
突然突き付けられた母と過ごせる時間はあとわずかしか残されていないという現実。
僕は本当に訳が分からなくなり、気持ちの整理ができず、
ただただ混乱した。
先生からの突然のあまりにも残酷な知らせは
21歳の僕には到底受け止められるはずもなかった。
実感が沸かないというか他人事と言うか
僕を本当に混乱させた・・・・。
兄は母から摘出した癌細胞を見てショックを受けたのか
めまいを起こし車椅子に乗せられた。
でもそんな中でも父は冷静だった。
先生からの告知を冷静に聞いていた。
あの時の父の横顔ははっきりと覚えている。
その後、先生から
便が体内に詰まっているため、それを出すために
この後、人工肛門の手術を行うので、再度ロビーで待機しているよう言われた。
その頃には僕はもう放心状態だった。
突然突き付けれられた、予想を遥かに上回る
残酷な現実に、もはや涙すら出てこなかった。
この日僕ら家族は絶望へと堕ちていった・・。
■希望に満ち溢れた母。絶望する僕。
突然の悪夢の告知から数時間後、今度こそ手術が終わるとのことで、
僕ら家族は先に9階の病棟に案内された。
僕は9階のロビーで、
ただただ途方に暮れていた。
重苦しい空気の為、父も兄も誰一人口を開かなかった・・。
そして看護師さんからまもなく母が病室に来ると案内された。
僕ら3人は母に
「末期の癌であること」
「残り時間が残されていないこと」
を絶対に気づかれないようにしようと、急にスイッチのようなものが入った。それは言葉にせずとももはや暗黙の了解であった。
そしていよいよ看護師の方が「今からエレベーターに乗って帰ってきます」
と告げに来て、僕らは急いでエレベーター前に向かった。
僕は
(絶対にはつみにバレちゃいけない)
(普通だ!普通に迎えるんだ!)
(冷静に、冷静に!)
などと「平静を装うんだ!!!」と自分に言い聞かせ、
エレベーターの階数表示を見ながら考えていた。
そして5⇒6⇒7⇒8となった時
僕の心臓はバクバクいっていた。
そしてエレベータが9階に着いた。
エレベーターの扉が開き、ストレッチャーが出てきて
母と目が合った。すると母は開口一番
「ただいま~生きて帰ってきました!!」
と満面の笑みで明るく僕らに話しかけてきた。
僕はその瞬間、自分の抑えていた感情が一気に爆発して涙が一気に溢れてきた。
唇を噛みしめて湧き上げる悔しい気持ちを抑え心の中で
(違うんだ…。違うんだよ、はつみ…。はつみはもう死ぬんだよ、もう残された時間がないんだよ…。)と叫んだ。
母だけは病気が治った気でいた。
というのも
先生から余命宣告を告げられた時、
母には「人工肛門にはなるが、手術は成功した」と告げますと
先生から言われ僕らは了承した。
そのため母1人だけが今後に希望を持っていた。
それが余計に辛かった…。
希望に満ち溢れていて母。
絶望にする僕。
あんなに嬉しそうに太陽のような満面の笑みを見たら
余計に母が恋しくなった。
(死んでほしくない!!)
(生きてほしい!!)
(癌が治ってほしい!!)
(もっともっと一緒にいたい!!)
(親孝行したい!!)
僕は母の時間が残りわずかしかない事を突然突きつけられ、様々な感情が頭の中を駆け巡った。
そして落ち着こうとすればするほど涙が止まらなくなった・・。
病室に着いて、母は父と兄と話した。
2人はしっかりと冷静を装い母と話していた。
僕はカーテンの裏に隠れ、
(落ち着くんだ)
(堪えるんだ)
(はつみに気づかれないようにしなくてはいけないんだ)
など一生懸命、涙を止めようと鼻を摘まみながら
気持ちを落ち着かせようとした。
すると母が「ゆうじは?」と父と兄に聞いた。
父「あ~ゆうじは手術が終わってホッとして泣いているんだよ」
母「ゆうじ、顔が見たいからこっちへ来て」
僕はその瞬間、また一気に泣いてしまった。
母「どうした?もう終わったから大丈夫だから。先生が無事に手術終わったって聞いたろ?」
「ごめん・・。」
母「なんでおまえが謝る?」
僕は何も言えず泣きじゃくり、うつむいていた。
すると見かねた父が
「今日一日ずっと緊張しっぱなしだったから、緊張が一気にほどけたんだよ」
と母に気づかれないように、すぐさまフォローを入れてくれた。
母はそういうことかと納得して、穏やかな声のトーンで僕に顔を見せてと言った。
僕はベットに寝ている母の顔のすぐ近くに自分の顔を持っていた。
すると母は両手で僕の頬を触って
「もう大丈夫だから^^」
と言って励ましてくれた。
僕はまた泣いてしまった。
(はつみと離れたくないよ…。嫌だよ…。)と
次回へ続く
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