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【短編】憧れていた彼女の誕生日に私は

特に予定はないけれど、一応8時半にかけたアラームが鳴り響く。

分厚い遮光カーテンをつけているため朝の日差しは入らず、タイマー設定で夜中に運転が切れたエアコンのせいで部屋の中はじんわり蒸し暑い。汗を吸ってサラサラを保ってくれるはずのシーツも、力なく湿っていた。夏も終わりに近付いたというのに不快なほどの暑さだ。

まだぼんやりする頭でスマホのアラームを止めると、液晶が目に痛いほど眩しい。

8月25日。

この時期になると思い出す、快活に笑う彼女。

――やになっちゃうなぁ。

それは、彼女の誕生日を表すフレーズ。そのおかげで今も、忘れることができない。


葉月と初めて会ったのは、新卒向けのグループ面接の時だった。

私ともう一人の女子が、量産型就活生よろしく、スカートタイプのスーツ、髪は一つにまとめていたのに対し、彼女はファーのついたグレーのコートにパンツスーツで現れた。スーツの上からでもわかるほど手足がすらりと長く、少し毛先のはねたショートカットもおそろしく似合っている。短く揃えられた前髪の下の目はぱっちりと大きく、誰が見ても美人だった。

誰かと同じになんてなりたくない。でも、個性を貫いてクリエイティブな仕事に就けるほどのセンスも実力もない。

そんな鬱屈とした自意識を抱えた私は、せめてベージュのトレンチコートではなく、黒のコートを身に付けることでささやかな抵抗を試みていた。笑ってしまうくらい、中途半端な意思表示だと思う。

そんな私の前に現れたのが、葉月だった。もう何度目かもわからない面接の内容は覚えていないが、みんなと違う格好で、凛と背筋を伸ばして質問に答える葉月の姿は美しく、そればかりが印象に残った。

それから、なんとか就職活動と卒業論文の提出を終えた翌春のこと。あの面接で訪れた会議室で、私は再び葉月と顔を合わせることになった。

リクルートスーツをそのまま着回している私と、ストライプが入ったダークグレーのスーツに身を包んだ葉月。事前にあった紹介では同級生と聞いていたが、中途採用と言われても納得するほど彼女は落ち着いていた。お辞儀をするのに合わせて、面接の時にはなかった小ぶりのピアスが控えめに光っていた。

この子は、私にないものを持っている。私は、こんな子になりたい。

芯があって、綺麗で、かっこいい。顔色を変えないように努めていたが、内心ではみじめさと憧れがないまぜになっていた。


葉月は美人で愛嬌があって気取らず、あっという間に社内の人気者になった。一方の私はというと、もうすぐ梅雨入りなのにいまだリクルートスーツを着て、みんなと食べるランチが嫌で早々に社員食堂から逃げ出した。見た目も性格も正反対なのに接点ができたのは、彼女も私も帰る方向が同じで、お酒が好きだったからだ。

きっかけは、新人歓迎会でぽつんとハイボールをあおる私に彼女が、もう一軒飲みに行こうよ、と誘ってくれたこと。アルコールには強いがにぎやかな場所が苦手な私にとって、それは嬉しいお誘いだった。

彼女のお気に入りだと言って連れていってくれたバーは、敷居の高そうな外観とは違って居心地がよく、こうして二人で話すのはほとんど初めてなのに、お酒も会話も程よく弾んだ。

会社の人と飲みに行くと、仕事の愚痴や上司の不満が主な話題になったが、この時は違った。今住んでいる街や最近観た映画のこと、この前の休日に何をしたか。仕事の延長のような飲み会には飽き飽きしていたが、こうした人となりが知れる会話は大歓迎だ。

それからというもの、同期との飲み会終わりにもう一軒寄ったり、仕事終わりにどちらからともなく飲みに誘ったりということが増えた。どちらが聞き役ということもなく、好きに話すし、好きに聞く。彼女と過ごすのは楽しかったが、その一方で、どうしたら彼女のような存在になれるのか、どう返事をしたら好いてもらえるのか、とそんなことに頭を悩ませたりもした。

いつも着ている、質のいいシャツはどこで買っているのか。最近始めたことはあるか。あの映画を観てどう感じたか。

聡い彼女のことだ。もしかしたら、「この子は自分に憧れている」と気付いていたかもしれない。でも、やっと見つけた「私の憧れ」になりたくて、近付きたくて。彼女は私にとって大切な友人であり、尊敬の対象だった。


誕生日の話が出たのは、同期との忘年会の時だった。

当初こそなんとなく集まって昼食を食べていた同期達だったが、徐々にそれぞれ忙しくなり、こうして顔を合わせるのも久しぶりだった。

きっかけは、一人だけ中途採用の同期が、30歳の誕生日なのに一人ぼっちだった、と嘆いたことだった。年上の同期を慰めつつ、そういえばみんなの誕生日っていつだっけと誰かが言い出した。夏生まれ、冬生まれ、どう過ごしたか、恋人からのプレゼントが残念だった……と話題が広がる。

「みんなの誕生日、語呂合わせにしてあげる!」

にこにこしながら相槌を打っていた葉月が、突然そう言い出した。頭の回転も速いし気も利く彼女だが、時折このような、無邪気としか形容できないことを思いつく。他の同期もそんな彼女の性格をよくわかっているので、茶々を入れたり一緒に考えたりと、場が盛り上がりだした。

「美奈子ちゃんは3月3日だから耳の日でしょ。吉田は6月5日だから、ムツゴロウ! 12月は……」

そのままじゃん、とかムツゴロウはちょっと、なんてツッコミはスルーしつつ、いよいよ葉月の順番になる。

「私、8月27日。はち、はち……やづ……? はに……?」

私は少し離れた場に座り、グラスの縁をなぞりながら、そういえば誕生日知らなかったな、と今さらながら気付く。葉月という名前からして夏生まれだろうとは思っていたが、今年はお祝いをしないままになってしまった。その頃もいつものように飲みに行っていたはずだが、私と違って、自分の誕生日にこだわらないところも大人に見えた。

「や、やにな……やになっちゃう。これだ!」

ひと際明るい声が聞こえてくる。嫌になる。快活な葉月からそんな後ろ向きなフレーズが出たことが面白くて、場は笑いに包まれる。

やになっちゃうなぁ。

私も自然と笑みを浮かべながら、心の中でつぶやく。来年は、きちんとお祝いしよう。バースデーカードを書くのもいいし、プレゼントを選ぶのも楽しそう。もちろんお祝いは、行きつけのお店で。

同期との楽しい夜は続く。居場所がないと思っていたこのメンバーでも緊張しなくなったのは、そこに葉月がいてくれるからだ。その夜何度目かわからない乾杯をしながら、私はそう思った。


あれから数年。今年ももうすぐ、葉月の誕生日がやってくる。

毎年欠かさなかったバースデーカードもプレゼントも、会う予定もない。それどころか、彼女への連絡手段すらない。今年の春に会社を退職し、会社関係のものは全て処分したからだ。

退職を考えていた頃、家族にも友人にも止められた。そんないい条件の会社、きっともう入れないよ、と。

始めは生理不順だった。一か月二か月来ないのが当たり前になり、予定通り来たかと思えばひどく精神が不安定になる。だんだん朝起きられなくなり、やっとのことで支度ができても、駅のホームまで行っても電車に乗れないことが増えた。

思い当たる理由はいろいろあった。やりがい搾取とばかりに若手に業務が集中し、上層部は事なかれ主義。新しく来た上司との折り合いも悪く、プライベートでも問題を抱えていた。27歳になって、友人の結婚・転職ラッシュが続いたのもある。

けれど決め手となったのは、「治療してまでこの会社に残りたいのか?」という問いだった。答えはノー。

決断してからは早かった。人事課を通しての手続きはあっという間に進み、少しばかりの退職金と自由を手に入れた。

会社で使っていた文房具、ひざ掛け、タンブラー、一年目の頃から使っていたノート、同期のLINEのIDに上司の電話番号。会社を想起させるものは全て処分した。高価な物はないし微塵も未練はなかったが、一瞬迷ったのは葉月の連絡先だった。

彼女は、私が会社を休みがちになってからも何度かメッセージをくれた。「大丈夫?」「無理しないでね」。最後に届いたのは、

「ただの同期じゃない、大切な友達だと思ってるよ。また元気になったら、飲みに行こうね」

既読だけつけて、返事はできなかった。

今は難しくても、もしかしたら数か月後、数年後にまた会いたいと思えるかも。ろくに話さないまま去ったことも、きっと謝れば許してくれるはず。

でも、その迷いも一瞬だった。その頃の自分にとっては、来るかわからない「いつか」よりも、「今」私を守ることの方が大切だった。

さよなら、葉月。私が憧れた人。あなたと過ごす時間が、私は大好きだった。


あれほど体調不良が続いていたのが嘘のように回復し、今は家事と読書を中心にした穏やかな生活を送れている。

自分のやりたいこと、好きなこと、進みたい方向。たっぷり時間がある中でそれらを見直すうちに、いつも私は混乱してしまう。

あの頃、私は葉月に憧れていた。見た目だけでなく内面が綺麗で、それなのに「私本当は性格悪いんだよ」と吐露した彼女。いつだってぴんと背筋を伸ばして、身にまとう物全てがよく似合っていた。

――私は本当に、彼女のようになりたかったのだろうか? 誕生日も知らなかった彼女のことを、どのくらい理解できていたのだろうか?

私が彼女を見る時、常に「理想」「憧れ」という強いフィルターがかかっていたし、それと比較してどこまでも自分のことを見下げていた。自分の持っているものには目もくれず、彼女が絶対的に正しいと思っていた。

自分の道は、まだ見えない。どこに進みたいのか、それは自分の「好き」を積み重ねるうちに、きっと見つかると信じている。

葉月と、私の憧れた人と交わることは、もうない。でも、「いつか」その時に彼女の輝きに目が眩まないように、まずは一歩一歩進みたい。今の私はそう感じている。


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