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これまでの時間、これからの時間

東日本大地震から10年。犠牲になられた皆様に対し、ご冥福をお祈りいたします。また、被災された皆様の復興を、心より祈念申し上げます。



時計を見ながら、考えることがあります。

”時間の感じ方は、人それぞれ違う"ということです。

この10年間を、あっという間だったと振り返る人もいれば、長かったと振り返る人もいると思います。

2011年、3月11日。当時私は卒業式を間近に控える小学6年生でした。当時のことを、今でも鮮明に記憶しています。

14時46分頃は、授業中でした。教室の扉がガタガタと音を立て始めたかと思えば、大きく揺れ、私たちは机の下に入り込みました。教室のテレビが倒れそうになっているのを、担任が半分パニック状態になりながら押さえていました。何が起きているのか、状況をうまく飲み込めませんでした。

一斉下校となり、家に帰宅すると、サボテンや花瓶、写真立てが床に落ちて広がっていました。携帯などは持っておらず、停電でテレビもつきません。頼りは一台のラジオのみでした。

祖父、祖母と一緒に家の一室に集い、ラジオに耳を傾けました。ラジオは、津波の到来を告げ、東北地方の太平洋側が大変なことになっていると語っていました。

幾度と鳴る緊急地震速報、余震。とにかく怖くて、怖くて、焦点が定まらないどこかの何かを、ずっと見ていたように思います。

父が帰宅して、夕食を食べました。電気、ガスが止まっていたため、ガスコンロを持ってきて、うどんを煮て食べました。お風呂には入れず、毛布にくるまって一夜を過ごしました。介護施設に勤めていた母は、家に帰って来ませんでした。

緊急地震速報の音と余震は、夜通し止むことはありませんでした。緊急地震速報が鳴ったかと思えば大きく揺れ、揺れたかと思えば緊急地震速報が鳴りました。

それでも太陽は当たり前のように登り、一見いつもと変わらないような朝を連れてきました。停電は解消せず、ラジオが語る情報を必死に頭の中で想像していました。

その日のお昼過ぎ、停電が解消しました。テレビをつけ、そこで目にしたのは、変わり果てた街の姿、起きてしまった現実でした。言葉を失うとは、まさにこの時のことでした。


予定していた卒業に関するほとんどの行事は中止、もしくは規模を縮小して行われました。


あの日から、10年。中学校、高等学校と青い春を駆け抜け、大学4年生になりました。来月からは、社会人になります。

しかしながら、今度は未知のウイルスによって、卒業に関するほとんどの行事は中止、もしくは規模を縮小して行われることになりました。

"いくつもの困難が、乗り越えては現れるけど、生きていかなくちゃいけない。誰にだって、時間が平等に与えられているけど、それをいつまで使えるか、いつ使えなくなるのかは誰も分からない。"

”だから、今を噛み締めて、精一杯生きていきたい。”

と思います。


時間って、不思議なものだなぁと思います。時計の針が動いて刻む時間は、確かに全員にとって同じはずなのに、どうして感じ方は人によって違うのだろうかと。仮に時間という概念がない世界に生きていたら、震災が起きてから今日まで、人々が感じる長さは同じなんでしょうか。


私にとっての10年間は、特別で、とても濃いものでした。写真を見て振り返ると、こんなにも成長したのかと長く感じるし、頭の中で10年前を思い出すと、一瞬だったようにも思います。12歳が22歳になるまで過ごした10年間。0歳だった子が12歳になるまでに過ごした10年間。同じ時間の長さだけど、きっと体感してる時間の感覚は違います。被災された方が過ごした10年間と、被災しなかった人が過ごした10年間も、きっと感じ方は違います。

ただ、10年間という時間に馳せる思いは同じだと思います。思い、思われ、支え、支えられ、いくつもの場所で交わされてきた思い。

この思いを、ずっと、ずっと伝えていくことが大切だと思います。



今日も生きた。明日も生きたい。

決して当たり前ではない明日が、当たり前に来ますように。


これからの10年間という時間に、大きな希望という名の思いを乗せて。




最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

#それぞれの10年

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