退廃抵抗 1-1【お試し版】

 わたしは孤独だ。普通に話す友達はいる。家族ともそれほど仲が悪いわけではなく、それなりに会話する程度には普通だ。そう、わたしは普通なのだ。それゆえにわたしにはわたしという存在を特別足らしめる事柄がない。そしてその悩みを共感してくれる人がいない。話せるような相手もいない。だからわたしは、孤独だ。

 この世界はつまらない。つまらなすぎる。退屈で辟易している。代わり映えのない日常にうんざりしている。家族との他愛無い会話も、友達との世間話も、鬱陶しいとすら思っている。面白いイベントやアクシデントなんてそこいらに転がっているわけがない。かといって自分からなにかをするような気は起きない。
 ごく普通の女子高校生であるわたしにとって、そうした退屈な日常というのは面白みのない映画を延々と観させられているようなものだ。そりゃ中にはためになる話や役に立つ知識もあるだろうけど面白くないのだから興味はほとんどない。心の底から面白いと思えることは中学の頃に観たアニメ映画以来とんとない。そのアニメ映画をきっかけにそっちの道――友人のツグミ曰くオタクに堕ちる道――もあったのかもしれないが、そこまでの熱量はわたしにはなかった。
 なので今のわたしはアニメにちょっと関心がある普通の女子高校生だ。友人のツグミはよくアニメの話をするのでそれに付き合ってアニメを観たりするが、それほど嵌るアニメには出会っていない。わたしはずっとそうなのだ。なにか興味のあることや関心のあることに触ってみたりはするけれど、そこまで熱心に心血を注ぐことはない。どこかちょっと冷めた俯瞰で見てしまうところがあるのだ。あぁ、きっとこれもわたしの心を揺れ動かすほどの力はないのだな、とか。だからきっと、わたしの人生はこのままずっと退屈なまま生涯を終えるのだろう、と思っていた。

 あの日、彼女に出会うまでは。

1-1

 高校二年生に進級した4月8日。わたしは始業式を終えた教室で友人のツグミと駄弁りながら先生が来るのを待っていた。
「クラス一緒になってよかったね」
「ほんとにね。ツグミみたいな話し相手がいてくれてよかった」
「ハルカは人見知りで初めて会う人には話せないだろうから心配してたよ」
 いきなりわたしの図星を突かないでほしい。友人のツグミとは中学からの付き合いでずっと話し相手になってくれているが、わたしにとって親友と呼べるほど心を許しているわけではない。ツグミには悪いけど。
「そんなことないし。わたしだって新しいクラスメイトと友達になったりできるし」
「じゃあ誰かに話しかけてみる?」
 わたしは教室を見回して話せそうな相手を物色し始めた。クラス替えで生徒が入れ替わったのでまだ同じクラスに友達を作れていない子がいるはずだ。と思ったのだが、すでにみんな誰かしらと話して友達になっているようだ。おかしい。友達ってそんな簡単に作れるものなのか。ひょっとして新しいクラスで新しい友達を作れていないのはわたしだけなんじゃないのか。不安になってくる。友達ってどうやって作るの。
 と、わたしは一人の女子生徒に目がいった。その女子生徒は窓際の席に座って窓の外を眺めていた。艶っぽい長い黒髪が風に靡いてとても綺麗だ。端正な顔立ちといい、とても画になっている。絵画に描いたら大賞を取れそうだ。茶髪気味でボブカットのわたしから見れば羨ましい限り。
 わたしの視線がその女子生徒に止まった事に気が付いたのか、ツグミが小声で囁いて来た。
「あの人、一年生の時はずっと一人でいたんだって。変わり者らしいよ」
「一人……」
 わたしと同じだ。あの人も孤独なんだ。きっと心を許せる相手に出会わなくてずっと独りだったに違いない。勝手な決めつけだが、わたしにはあの人の気持ちが痛いほどわかった。だからなのかわからないが、私はあの人にとても関心が湧いた。
「わたし、話しかけてみようかな」
「え、ほんとに?」
 ツグミは意外そうな顔をしていたが、わたしはもう止まる気はなかった。ツグミに話し相手がいないと言われて腹が立ったわけじゃないし、意固地になったわけでもない。ただわたしはこれまでに感じたことがないほどあの人に興味があった。自分から話しかけてみたい、そう思えたのだ。
 これまでわたしはずっと受け身だった。なにか面白いことが、退屈を紛らわしてくれるものを待っていた。でもそれじゃあなにも変わらない。自分から動かなければなにも変えることはできない。自分から働きかけなければなにも変わらない。思い切って、飛び出してみよう。
 わたしは席を立つと、真っ直ぐあの人の席まで前進していった。ツグミは一瞬止めるような仕草をしていたが、わたしが脇目も振らずあの人のところへ行ったので見守ることにしたようだ。わたしはあの人の席の前まで行くと、思い切って話しかけた。
「ねぇ。ちょっとお話しない?」
 わたしは努めて優しい笑顔でそう言った。第一印象を良くしようとしてそうしたが、果たして効果はあっただろうか。するとあの人はわたしのほうを振り向くと、微笑んでこう言った。
「ずっと待っていた、あなたを」
 意外な返答だった。この人はわたしを待っていた。でもどうして? 理由は? 聞かずにはいられなかった。
「待っていた、ってどういうこと?」
「あなたは私と同じだから」
 わたしはまだ意味を理解しかねていた。この人はなにを言っているのだろう。
「わたしとあなたが同じ? どういう意味?」
「あなたは毎日が退屈で、そんな日常がつまらないと思っている。そうでしょ?」
 わたしは自分の内心を言い当てられて身震いした。表面上はそう見えないようにしていたけれど、心臓は高鳴って頬が紅潮して背中を汗が伝っていた。この人とわたしは今日初めて会ったはずなのに、なぜここまでわたしの思っていたことがわかるのだろう。ひょっとして一年生の時にこの人はわたしのことを知っていたのだろうか。だとしてもわたしはわたしの心の内を誰にも話していないのだからこの人がそれを知っている筈がない。わたしは確認することにした。
「わたしとあなたは今日が初めましてだったよね? 違ったらごめん」
「そう、あなたと私は今日初めて会って今日初めて会話した。それで合っているわ」
 だとしたら尚更わからなくなってくる。わたしが混乱しているとこの人は微笑みながら言った。
「私はキョウコ。タチバナキョウコよ。あなたの名前は?」
 そういえばわたしとこの人は自己紹介すらしていなかった。自分の失念を恥じながらわたしは自分の名前を伝える。
「わたしはアライハルカ。よろしくねタチバナさん」
「キョウコでいいわ。私もあなたのことをハルカと呼ぶから。いいわよね?」
「う、うん」
 この人のあけすけな態度に少し戸惑ったが、そのほうが遠慮が無くていいのかもしれない。そんなわけでわたしとキョウコは今日初めて出会い、話した。
「それじゃ改めて聞くけど、どうしてキョウコはわたしが来ることを知っていたの?」
「知っていた、と言うより予感がした、と言った方が正しいかもしれないわね。私はずっとあなたのような人が現れるのを待っていた。そしてもし出会うならクラス替えでクラスメイトが入れ替わる始業式の日だと予測していたの。半分は当てずっぽうだったけれどね」
 なるほど、つまり始業式に初めて会う人を待っていて、それがたまたまわたしだったわけだ。でもそうだとしてもわたしの心の内まで知っている理由にはならないだろう。
「それじゃあどうしてわたしが普段考えていることがわかったの? 誰にも言ったことがない、わたしの秘密だったのに」
「そう、それは悪いことをしたわね。でも私にはわかっていたの。あなたが退屈していて、刺激を求めて私に話しかけてきていることをね」
 それはつまりわたしが面白半分でキョウコに話しかけたみたいじゃないか。わたしはわたしの思いがあってキョウコに話しかけたのに、少し心外だった。わたしが不機嫌そうな顔をしていたのか、キョウコは私を見てクスリと笑った。
「ごめんなさいね。ちょっとあなたを試してみたの。本当に私に興味があって、私の話し相手になれるかどうかをね」
 なるほど、ツグミがキョウコを変わり者だと言っていたのはあながち間違いではなかった。少なくとも初対面の人を試すような言い方をするのは普通の人ではない。
「そうね。今日はホームルームが終わったらすぐに下校でしょ。後でまたお話ししましょう」
 丁度その時担任の先生が教室に入ってきて生徒を着席するよう促した。わたしは自分の席に戻る途中キョウコの方を振り返ると、キョウコはわたしに手を振っていた。また会いましょう、と。その仕草がわたしには可愛らしく思えた。

 ホームルームが終わって放課後、わたしはキョウコのもとへ行こうとしたが、ツグミに呼び止められた。
「ねぇ、ほんとにあの人と友達になるつもり?」
「まだわかんないけど、話した感じいい人そうだったよ。ちょっと変わってるけど」
「気を付けてね。あの人変な噂が立ってて危ない人みたいだから」
 ツグミの忠告は大袈裟なように聞こえたが、一応気に留めておくことにした。キョウコの席へ行くと、キョウコは学生鞄を持ってどこかへ行く様子だった。
「それじゃ行きましょうか」
「行くってどこへ?」
「私達の話を誰にも聞かれない場所」

 わたしはキョウコについて行くと、キョウコは迷いなくスタスタと歩きある場所へと向かっていった。階段を下り、渡り廊下を出て辿り着いたのは誰も寄り付かないような校舎裏の倉庫。キョウコは誰に断るでもなく堂々と倉庫に入っていった。
「一年生の時に下調べをして誰もいないスペースを見つけておいたの。誰にも邪魔されない、五月蠅くされない場所。普段はここで本を読んでるわ」
「本好きなの?」
「読書は好き、というより習慣ね。時間を有効に使うために読書は必須となっているわ。どんな人にとってもね」
 倉庫の中は意外なほど明るかった。窓から日差しが倉庫内を照らし積み上げられた資料やなにに使うのかわからない小道具の詰まった段ボール箱が鎮座している。
「ここって勝手に使っていいの?」
「すでに校長先生の許可は取ってあるわ。私が『教室に居づらいので校舎裏の倉庫に居てもいいですか』と言ったら快く了承してくれたわ」
 そういった言い難いことも臆面なく言えるのはキョウコの長所であろうか。いや短所でもあるだろう。キョウコは自分が孤独であることを臆したりしないのだろうか。
 キョウコは勝手知ったる我が家のように倉庫の机と椅子を運ぶと埃を払って綺麗にした。
「ここがあなたの席ね。自由にくつろいで」
「あ、ありがとう」
 わたしは遠慮がちにおずおずと椅子に腰を下ろした。くつろげと言われても会って間もない初対面の人と二人きりで倉庫の中にいるのだから、居心地は悪い。
「それじゃ本題に入りましょうか」
 キョウコは自分専用の椅子に座ると、机の上で手を組んでこちらを真っ直ぐ見据えてきた。
「本題?」
「あら、私はてっきりあなたが退屈な毎日を少しでも変えたくて私に話しかけてきたのだとばかり思っていたのだけど、違ったかしら?」
 まただ。またキョウコはわたしの心の内をズバリと言い当ててくる。そんなにわたしは隠し事ができないタイプだろうか。表情に思ったことが出ているのではないか。そんなわたしのことは今はどうでもいい。今はキョウコと一対一で対面して話す時間だ。
「そうだよ。わたしはつまらない日常が嫌でキョウコに話しかけた。それで合ってる」
「そう、ならよかった。やっぱりあなたは私と同じね」
「どういう意味?」
 わたしはキョウコと初めて話した時と同じ質問をした。あの時はなんとなくはぐらかされてしまった気がしたが、今なら二人きりだから答えてもらえるだろう。
「私もあなたと同じように、毎日に退屈して、この世界を変えたいと思っているということよ」
 やっとキョウコの本心が聞けた。キョウコもわたしと同じことを考え思っていたということだったのだ。
「私は私と同じ考えを持つ同志を待っていた。でも学校でも街でも誰も私に共感してくれる人はいなかった。あなたが現れるまでは」
 キョウコはわたしに人差し指を向けると、わたしの鼻先をちょこんと触った。
「やっと会えた。私と同じ渇きと飢えを持っている人。それがあなた」
「ずっと気になってたんだけど、どうしてそこまでわたしのことがわかるの? わたしは誰にもそのことを話してないのに」
 気になるついでにわたしはどうしてそこまで言い当てられるのか聞いてみた。するとキョウコは嬉しそうに微笑むと人差し指を自分の唇に当ててみせた。妙に色っぽい。
「言ったでしょ、私とあなたは同じだって。だから感じるの。同じ波長、同じ匂い、同じ雰囲気……同じだからこそ感じられる同調の空気。私にはそれがわかった。だからあなたが私に話しかけてきた時、すぐにあなたが私と同じだと気付いたの」
 なんと空気で同じだと感じることができるのだという。わたしはそれがなんだか恥ずかしく思えてきた。口に出さないでも、匂いとか雰囲気でそれとなく外に発信していたのだと思うと、街に出るのも恥ずかしい。顔が赤くなっていそうだ。
「わたしって……そんなオーラ出てる?」
「大丈夫よ。同じ人間にしかわからないシグナルなんだから、他の一般大衆には感じ取られたりしないわ」
 キョウコに気休めなのかなんなのかよくわからない励ましをされて、少し恥ずかしさが薄らいできた気がする。
「落ち付いて来たならそろそろ本題に入りたいのだけど、いい?」
「うん、大丈夫。始めて」
「そう、なら始めるわね」
 キョウコは姿勢を正して真っ直ぐにわたしを見据えてきた。真面目な雰囲気になってきたのでわたしも緊張する。面接されている気分だ。
「あなたはこの世界が退屈でつまらない日常だとうんざりしている、という認識でいい?」
「はい」
 わたしは率直に頷いた。もう心の内を言い当てられて戸惑ったりはしない。どんなことでもどんとこい、という気持ちだ。
「そう、ではあなたは退屈な生活を変えたい、ありきたりな毎日を変えたい、そう思ってる?」
「はい」
「そう、ではあなたはこのつまらない世界を変えるためならどんなことだろうとできる?」
「う~ん、はい」
「そう、それじゃ……ここからもっと踏み込んだ質問をするわね」
 するとキョウコは学生鞄から一冊のノートを取り出すと、開いて机の上に置いた。今時紙のノートを持っているなんて珍しい。わたしの目線からは逆さまで中身が読めない。キョウコはノートの項目を見ながら質問を続けた。
「あなたは自分が特別な人間ではない、ありふれたごく普通の人間だと言われて、受け入れることができる?」
「え、それはどうかな。それを認めるとわたし自身がつまらない人間だということになっちゃう気がする」
「そう、ならそれでいいわ。では次、あなたはこの世界が私達のような存在を排除する世界だったとして、それを受け入れることができる?」
「うう~ん、それってどういうこと?」
 キョウコはだんだんと質問の意図がわかりかねる事を聞いてくる。キョウコの問いが難解過ぎて今のわたしの脳みそでは理解するのに時間がかかりそうだ。
「そうね、まずはその説明からしなければならないわね」
 キョウコはノートのページをめくると、解説が載っているページをわたしに見せてきた。こうなることを予測して事前に用意してあったのだろうか。
「私達の世界の人間社会は普通の人間とそうじゃない人間に分けられている、っていうのは知ってるわよね?」
「まぁ……なんとなくは」
「そう、でもそもそも普通の人間という線引きは誰がしているのかしら。なにが定義で、なにが決め手なのか。誰が決めたのかもわからない普通の定義に人は悩み、苦しみ、痛みを感じている。誰が言ったわけでもない幻想に惑わされている」
「え、哲学?」
「そう、哲学は常人には難しい学問。けれど誰もが一度は疑問に思うことのはずよ。自分の在り方、生き方、存在論と認識論。答えは簡単には出ないのにいつも考えてしまう禅問答ね」
「はぁ」
 思わず気のない返事が出てしまう。これはまた難しい話になりそうだ。
「ハルカ、あなたはこの世界の日常が退屈でつまらないと言った。間違いないわよね?」
「それは、うん」
「世の中にはあなたのような毎日をつまらなく生きている人間は大勢いるの。でもだからといって悲観する必要はないわ。だって実際に退屈だと感じているのだもの。生きる目的も目標もない、改善しようにもどうすればいいかわからない、そもそもやる気が起きない、だから怠惰にならざるをえない。どこか達観した見方をすることによってあなたは人生ってつまらないものなんじゃないかと気づいてしまった。そうよね?」
「うん、そうだね。大体合ってる」
 わたしはキョウコの推察に肯定した。やはりキョウコはまるでわたしの心を見透かしたようなことを言ってくる。多分キョウコも同じことを考えているからだろう。
「私もあなたも、諦めに似た視線で世界を視ている。だって世界には私達の興味を引くような面白いことがあまりにもなさ過ぎて退屈なのだもの。それは当然の反応であり思考なのよ」
 わたしはうんうんと無意識に頷いていた。キョウコの話はとても共感出来てわたしに合っている。きっとわたしとキョウコは視点や価値観から同じなのだ。
「人間は向上心がなければ退屈から抜け出すことはできない。現状で妥協して、それ以上の目標を持たず、人生が退屈でつまらなくてただ過ぎ去る時間をどうやって暇つぶしするか考えているだけ。でもそれでなにが悪いというのかしら。なにかの罪になるのかしら。そういった自己弁論のような言い訳で正当化しようとしてみても、世間はそう簡単に許してはくれない。人間社会というのは怠惰を許さず、献身と勤労を強いてくるものなのよ。学生時代は遊んでだらけてよくても、大人になれば働かなければならない。そうなると学生時代に勉強して知識と経験を積まない人間は社会から取り残されてしまう。だらけ者の末路はひきこもりかニートへの道ぐらいしかない」
「世知辛いね」
「そう、人間社会というのは生き辛い。遊びたくて働かない人間ばかりじゃない。働きたくても働けない人、心的外傷(Post Traumatic Stress Disorder)があって働けない人、働くことが嫌になった人、働きたくて就職活動しているのに企業が採用してくれない人、家族の介護のために働くことができない人、いろんな事情があって働いていない人が大勢いる。にも拘らず世間の評価は一括して『働かない人間は社会不適合者だ』という。『働かざる者食うべからず』の精神が根付いている人間社会にとって働かない人はお荷物、邪魔でしかない。だから迫害する。おかしいと思わない?」
「うん、それはわたしもおかしいと思う」
「でしょう? 現実の社会は理不尽で不平等で自由がない。彼等のような一般大衆――マジョリティは私達のような少数派の変わり者――マイノリティを迫害して、忌み嫌い、拒絶して、排斥して、彼等だけに都合のいいディストピアを作っている。そうして迫害を受けた人々は自責の念に駆られ、自らを苦しめて鬱になり、そして最後は……死んでいくのよ」
 わたしは背筋がゾッとした。そんなことが現実に起こっているというのか。いや、本当は現実に起こっていることを見ないようにしていただけなのかもしれない。
「そんな社会状況でどうやって将来に希望を持てというの。どんなに夢を持っても現実が厳しいままでは絶望しかない。社会の問題を個人の責任に押し付けるなんて間違っている。私達は抵抗(Resistance)するべきなのよ。私達の自己を守らなければならない。社会に殺されるなんてまっぴらごめんだわ。私達は『退廃』してはならない」
「退廃?」
 聞き慣れない言葉が出てきたのでわたしは聞き返してしまった。そんなわたしにキョウコは優しく教えてくれる。
「『退廃』とは、社会の圧力に屈して自己の同一性(Identity)を退化させて個人の意志(Originality)を廃すること。自分が自分であることを忘れること。普遍的な一般人の一員になること。自分を他人と同じレベルに後退させること。マジョリティに屈すること。社会のために自己を殺すこと。夢を諦めること。それを私は『退廃』と呼んでいる。退廃とはすなわち、社会に敗北する事なの。迫害に屈した者の行き先は地獄よ」
 怖ろしい。わたしは素直にそう感じた。
「退廃した人は生きる目的を見失い、生きる意味すらわからなくなる。自分はなんのために生きているのか。なにをすればいいのか。自分はなにもできない人間なんだ。そうやって自分を追いつめて、自分で自分を苦しめて、殻に閉じこもって、逃げ出したくて、楽になりたくて、最期には自分で自分を殺す。誰だってそうなりたくはないでしょう」
 キョウコの話は現実なのか非現実なのかわからなくなってきた。あってほしくない、あっていいはずがないと自分に言い聞かせて、現実の話じゃないと思い込みたい。目を逸らして見ないふりをしたい。でもきっとこの世界のどこかには同じような悩みを持つ人がいて、わたしは残酷な現実から目を背けているだけなんだ。
「一部の人間が退廃するだけならマイノリティの問題だけで済む。マジョリティにとっては関係のない話。けれど私が危惧しているのは、いずれ人類すべてが退廃してしまう未来の話なのよ」
 キョウコは熱心に自分の導き出した推論をわたしに説いて聞かせる。
「インターネットと携帯端末の普及によってそれまでマイノリティとされてきたナード(Nerd)やギーク(Geek)等の迫害されてきた人種が一般的なマジョリティの中にも現れるようになってきた。いずれマイノリティとマジョリティの境界線は無くなり、誰もが少数派の意見を持ちながら多数派として生きていく時代が来る。そうなると、なにが起こると思う?」
 キョウコからの問いかけにわたしは理解できてない頭をフル回転させて考え出した。
「う~ん、みんなが多数派であり少数派だったら、なんでも同じになっちゃうね」
「そう、境界が無くなるということは怖ろしいことなの。ただでさえ少数派は多数派に流されやすいのに境目が無くなったら少数派の居場所は無くなってしまう。そうなればより退廃が進むわ。個人と大衆の境界が無くなりみんなが社会のためだけに生きる世界。それが退廃が進んだ世界の未来よ」
 キョウコの熱弁にわたしはついていくのがやっとだった。ただでさえ難しい話は苦手なのに専門用語を混ぜられたらちんぷんかんぷんだ。その上まだ不確かな未来の話まで持ち出されたらいよいよもってお手上げである。
「信じられないって顔してるわね」
「……うん、正直まだ飲み込めてないかな」
「そう、じゃあ見せてあげる。百聞は一見に如かずって言うしね」
 キョウコはそう言うと左腕に着けているウェアラブル・デバイス(Wearable Device)を操作し始めた。3Dタッチパネルにスワイプしてウィンドウを選択している。
「WDのVRSJ機能は知っているわよね」
「うん、一応」
 VRとは仮想現実(Virtual Reality)の略称である。コンピュータグラフィックス(Computer Graphics)で造形した現実には存在しない仮想世界を脳内に投影(Projection)して、そこに意識を飛ばす(Sense Jump)ことであたかも仮想世界に自分がいるような感覚を味わうことができる、という機能が仮想現実意識跳躍(Virtual Reality Sense Jump)である。SJをすると人間はうたた寝している状態になり意識が仮想世界へと転送される。そうすることでその人は仮想世界にいる夢を見ている感覚になり、そこでさまざまなゲームやシミュレーションができるというわけだ。
「今からあなたの脳内にVRSJするから、目を閉じて集中して」
「わかった」
 わたしは少し警戒しながらキョウコに言われるがままに目を閉じた。するとすぐにVR世界とわたしの意識がリンクして脳内に投影されていく。意識が虚ろとして微睡みの中で自分が空中に浮いているようなふわふわとした感覚がわたしを夢見心地にさせてくる。光の眩しさを感じて目を開けると、そこはもう校舎裏の倉庫ではなかった。
 わたしは目を疑った。今わたしが見ているのはコンピュータで作ったVR世界のはずだ。それなのにどこか現実的で空気が違う。それもそのはず、わたしが見ているのは空想的なSF世界でも無機質なシミュレーション世界でもない。現実でもありそうな重々しい雰囲気の……葬式の光景だった。
 葬儀に参列している人達は皆黒い喪服を着て悲し気な表情を浮かべている。悲痛にすすり泣く人もいる。とても作り物の世界とは思えない現実的な空気。ふざけているわけでも演技でもない、本当の悲しみに包まれた空間。ここはある意味で日常とはかけ離れた異質な場所だった。
 葬儀場を見渡して、わたしはまた目を疑った。喪主の席にいるのは見間違いようのない、よく知る人物――わたしの両親だった。父も母も悲しみをこらえた顔でじっと座っている。嫌な予感がわたしを襲ってくる。まさか、そんなはずはない。ありえないはずのことが頭をよぎる。怖かったが、確かめなければいけなかった。わたしは意を決して葬儀場の祭壇を見た。
 遺影に写っている人物。それはまぎれもない――わたしだった。
「なにこれ……」
 わたしはただ茫然とするしかない。受け入れ難い光景に言葉が出ない。信じられない。信じたくない。けれどわたしの目に映っているのは見紛いようのないわたしの顔だった。他人の空似ならよかったが、喪主はわたしの両親だし、葬儀に参列している人の中には見知ったわたしの親戚の姿もある。つまりこれはわたしの葬式だ。
「どう? 自分の葬式を自分の目で見た気分は」
 声のした方を振り返ると、そこにはキョウコの姿があった。制服の上着を脱いだ白いワイシャツ姿のキョウコは、喪服の人だらけのこの葬儀の場に一際目立って見えた。
「なんなのこれ……」
 わたしは動揺して答えられなかった。目の前の光景が信じられなかった。誰も自分の葬儀を見せられて冷静でいられる人間なんていない。いたとしたらよほど度胸のある人か、異常者だ。
「これはあなたのありえたかもしれない未来のイメージ。可能性のほんの一部」
「だって、じゃあこれ、わたし死んで……」
「そう、この未来のあなたは死んだ。現実はいつだって理不尽で残酷。あなたは現実の辛さに耐え切れなくなってこの世界からドロップアウトすることに決めた。これはその結果どうなるかを表した未来予想図」
 キョウコは淡々と無感情にわたしに告げる。この非現実的なのにまるで現実のような光景がわたしの未来予想図だというのか。わたしがいずれこうなるとでも言いたいのか。
「でもこれ、VRなんでしょ。キョウコが作った仮想世界なんでしょ。悪趣味なことやめてよ。本当にこうなるわけじゃないんでしょ」
 わたしはわかっていた。この光景はキョウコによる幻で、必ずしも未来で起こる現実ではないということ。きっとキョウコの悪ふざけに違いない。
「そう、これはまだ現実ではない。でもあなたはこれに似た光景を想像したことがあるはずよ。だってこれはあなたのイメージから創り出した仮想世界ですもの」
 キョウコはまたしてもわたしの痛いところを突き刺してきた。そうだ、わたしはこの光景をイメージしたことがある。でもきっとそれは誰しもが一度は想像したことがある未来予想図のはずだ。もし自分が死んだらどうなるか……ありうるかもしれないの未来の姿。死のイメージ。命の終わり。
「これはあなたのイメージした光景を投影した仮想世界。それをあなたのWDと私のWDとで接続(Connect)させてSJさせたの」
 キョウコがWDを操作すると、葬儀の光景は一瞬で消え去りわたし達は現実の世界に帰ってきた。今見たイメージはSJしたVR世界であった証明だ。しかし原理を説明されてもいまいち腑に落ちない。キョウコはわたしの心を見透かしたようなことを言うと思っていたが、本当にわたしの心の内まで覗かれているのではないだろうか。そう考えると少し気味が悪い。
「キョウコはわたしのどこまでを知っているの……」
「さすがにすべて知っているわけではないわ。でもそうね、ある程度の予想はできる。だって私とあなたは同じなのですもの」
 キョウコは左手の人差指でわたしを、右手の人差指で自分の唇を指差した。私とあなた。キョウコとわたし。今日初めて会ったとは思えないほど互いの心がシンクロ(Synchro)している。それはとても奇妙な感じがした。
「言ってみればさっきのはあなたが『退廃した』未来の姿。退廃を受け入れたら近い将来こうなるというイメージ。退廃した者の多くは自死すると研究結果が出ていて、実例も出てしまっている。これは虚構ではなく現実に起こっていること。あなたにも起こりうることなのよ」
 わたしはそれを聞いて怖ろしくなった。ただでさえ死後のイメージを見せられて気が滅入っているのに、退廃した後にこんな未来が待っていると言われたら誰もが嫌だと思うだろう。誰だって死にたくはない。それなのに自死に至ってしまうというのは、どういうことなのだろうか。
「自分で自分を殺すなんて愚かで悲しいことだわ。誰だってそんな苦しみを味わいたくはない。けれどそれ以上に現実が辛く苦しいと、人は逃げ場を求めて自らを傷つけ、自害してしまうこともある。それをよくあることなどと傍観することは決して許されることではないわ。もちろんそんな状況に追い込んでしまうこの世界の環境というものも重大な問題よ」
 キョウコはまるでこの現実の世界に恨みを持っているかのように怒りを露わにしていた。そしてその怒りは自死せざるを得なかった多くの人達に代わって断罪しなければならないと言っているようだった。キョウコは意外と感情的になりやすいようだ。
「この世界のマジョリティは自分達の創った社会にそぐわないもの達を外側(Outside)に追いやり拒絶してきた。社会に馴染まない者は社会不適合者の烙印を押され、退廃した未来を生きていくしかない。私はそんな生き方まっぴらごめんだわ。私は私であり私として生きて死にたいの。マジョリティに屈するなんて絶対に嫌よ」
 キョウコの言葉に徐々に熱が帯び始めてきた。言葉に気持ちが入って語気に力が入っている。
「私達マイノリティは外側の人間(Outer)としてこれからもマジョリティに抵抗し続ける。自分の首を掻き切るくらいならその刃で抗ってやる。ノイジーマイノリティになんてなるものか。私達は退廃に抵抗するもの(Decadence Resistance)として戦うのよ」
 これはキョウコの宣戦布告だ、とわたしは思った。反社会的ともとられるかもしれないがキョウコは本気で社会から逸脱しようとしている。それは迫害されてそうなったのか、それとも自分で想い過ぎなだけなのかはわからない。だが、自分をマイノリティだと卑下し、マジョリティを嫌悪するその姿は、キョウコが現実の人間社会にどれほど忌み嫌われ拒絶されてきたかを物語っているようだった。
「さて、ずいぶん熱く語ってしまったわね。ここまでの話は理解してくれた?」
「うん、一応」
 本当はまだ理解できていない部分もあったが、わたしはうんと答えた。
「では最後の質問。私は退廃したくない。あなたは?」
「わたしは……」
 わたしはここでなんと答えるのが正解なのだろう。退廃するのは正直嫌だ。でもキョウコの言ったことがすべて真実とは限らない。キョウコがわたしを騙してなにかの勧誘に巻き込もうとしているとも考えられる。ツグミが言っていた「気を付けて」とはつまりそういうことだ。でもわたしにはキョウコが嘘を吐いているようには思えなかった。キョウコは本当に同志を求めていて、わたしに自分と同じ素質を見つけた。キョウコは自分と同じわたしを信じてくれた、だから自分の心情を吐露してくれたのだ。その気持ちを、わたしは裏切ることはできない。かといってキョウコの話を鵜呑みにするのは危険すぎる。わたしはキョウコを信じたいけど、まだ信じ切れない。だって今日初めて会ったばかりなのだから。答えを出すにはもう少し時間が必要だ。わたしはそう結論付けた。
「今すぐ決めなきゃ駄目?」
「別にいつまでもいいわよ。あなたの今後を決める運命の選択なのだから」
「じゃあ一回持ち帰らせて。家でゆっくり考えるから」
「どうぞ。じっくり考えて決めてくださいな」
 キョウコはありがたいことに猶予期間をくれた。一度家に帰ってゆっくり考えよう。キョウコの言う通り、わたしの今後を決める運命の選択になりそうだ。それに、今のわたしは冷静な判断を下せそうにない。まだ心臓がドキドキと激しく脈打っていた。

 キョウコと別れて下校したわたしは、寄り道することなく真っ直ぐ帰宅した。他のことを考えている余裕がなかったからだ。その後晩御飯を食べてお風呂に入っている間もずっと頭の中はキョウコの話のことで頭がいっぱいだった。家族に話しかけられても曖昧な返事をするだけで話の内容は耳から抜け出て行ってしまう。家族には悪いが、とてもキョウコのことを相談する気にはなれなかった。この問題はわたし一人で答えを導き出さなければならない。そうしなければいけない気がした。
 お風呂から上がって自分の部屋で髪を乾かしている時、ツグミからわたしのWDにメッセージが届いた。WDに搭載されているチャットアプリ『ツインテイルズ(Twin Tales)』はWDを利用しているほとんどの人がインストールしているアプリだ。メールや通話だけでなく画像や動画の共有、ライブ配信やブログなんかもできるソーシャル・ネットワーキング・サービス(Social Networking Service)の一つである。おそらく世界シェアトップクラスの普及率を誇っている。「私とあなたの二人を結ぶ物語」だとCM(Commercial Message)でそう言っていた。
 ツグミからのメッセージはこんなことが書いてあった。
『大丈夫だった? なにか勧誘されなかった?』
 やはりツグミはそういう勧誘的なものを警戒してわたしに忠告していたのだ。しかしそれは的外れなものではなく、むしろ半分くらいは当たっていた。わたしはキョウコに勧誘されていた。『退廃抵抗の同志にならないか』と。わたしは詳細を省いてツグミに返信した。
『友達にならないか誘われた』
 嘘ではない。キョウコはわたしと友達になりたがっていた。小難しい言い方をしていたが要するにそういうことだ。ツグミからのレス(Response)はすぐに来た。
『やめといたほうがいいって。絶対やばい人だよあの人』
 ツグミのこの文面にわたしは少しムッとした。直接話してもいない噂だけ耳にしたツグミにそこまで言われる筋合いはキョウコにもないだろう。わたしは苛立ちをレスにぶつけようとも思ったがそれでは印象が悪くなってしまい喧嘩に発展する恐れがある。わたしはできるだけやんわりとツグミの忠告を否定しながら返信した。
『悪い人じゃなさそうだから、明日また話してみるよ。友達になるのは悪いことじゃないでしょ』
 送信すると、何分か経った後にツグミからレスが届いた。
『気を付けてね』
 お節介だなぁ。わたしはそこまででツグミとのメッセージのやり取りを止めた。キョウコのことは実際に会って話した人間でないとわからない。それは今のところあの校舎裏の倉庫に入ったわたしだけのはずだ。ひょっとしたらキョウコはわたし以外の人間にも似たようなことを言ったことがあるかもしれない。でも今日のあの様子からして本当の同志とはまだ巡り会っていないはずだ。そうでなければわたしにあんなことは言わないはずだ。はずだばかりでほとんど希望的観測だが、わたしの予想は外れていない、はずだ。
 わたしは髪を乾かし終わって寝る準備を済ませると、ベッドに潜り込んだ。今日はもう寝てしまおう。答えはまだ導き出せていないが、明日また考えればいい。それに珍しく頭を回転させて考え事をしたからか脳が疲れて眠かった。今夜はよく眠れそうだ。
 部屋の明かりを消して瞼を閉じると、すぐに眠気が襲ってきてわたしは眠りに落ちた。VR世界にSJするのと同じ感覚だ。人間が夢を見るのと仮想世界に意識を飛ばすことは理論的には同じなのだそうだ。詳しくはよくわからないけど、感覚でなんとなくわかる。夢を見るのとSJは変わらない。それはキョウコに見せられたわたしの死後のイメージと似たようなことなのだろう。
 わたしはそこで夢を見た。それは今日VRで見せられた葬式のイメージだった。喪服の人達が悲しそうな顔をしてわたしが入った棺桶を見送っている。ちょうど出棺するところだ。喪主であるわたしの両親が先頭に立って遺影と位牌を持って涙を堪えている。これからわたしは火葬場に送られて遺体を焼かれて骨と灰だけになって骨壺に入れられるのだ。それで葬儀はひとまずおしまい。あとは四十九日とか法事があるけれどあとは親しい家族や身内だけでやればいい。
 すると、参列している喪服の人達から外れた所に一人だけ学生服姿の少女がいた。制服の上着を脱いで白いワイシャツ姿の少女。見紛いようのない、キョウコがそこにいた。
「あなたはこれでいいの?」
 キョウコはその場にいる誰でもない、わたしに話し掛けてきた。だからわたしが答えるしかない。
「よくはないよ。わたしだってこんな人生の結末なんか迎えたくない」
 するとキョウコは否定するように首を横に振った。そうじゃない。私が聞きたいのはそういうことじゃない。とでも言いたいのか。
「じゃあなんだって言うの。わたしにどうしろと言いたいの」
 わたしは胸が張り裂けそうだった。キョウコに葬式のイメージを見せられていた時からずっと胸にあった苦しみ。それが今にも胸を突き破って這い出てきそうだった。胸の中のそれは一体なんなのか。それはわたしにすらわからない。
「私が聞きたいのは一つよ」
 キョウコは自分の唇に人差し指を当てて囁いた。
「私は退廃したくない。あなたは?」
 それがキョウコが聞きたいことで、わたしが答えるべき質問だった。それがわかった時、わたしの頭の中で光が輝き出しこれまでの記憶が走馬灯のように頭の中を流れだした。わたしが悩んでいたこと、胸の奥で痞えていたものが解消していくような、そんな感覚がわたしを駆け巡った。たったわずか、今日会ったばかりのキョウコの言葉がわたしを暗闇から救い出してくれた。それはとても幸せなことだった。

 わたしは目を覚ました。すぐにWDの時計を見ると、午前6時を示していた。ちょっと早起きだが、もう朝だ。4月9日。わたしがキョウコと初めて会った日から翌日になってしまった。ベッドから出て洗面所に行く途中、わたしはさっきまで見ていた夢を思い出していた。夢は目覚めると忘れていってしまうものだが、なぜか今日の夢はぼんやりとだが思い出すことができた。わたしの葬式とキョウコ。わたしがVR世界で観たのと同じ光景。偶然とは思えないが、夢はその日見た強い記憶を整理するものだそうだから当然のことなのかもしれない。
 顔を洗って食卓に着くとお母さんが朝食を出してくれた。焼きシャケにオムレツとお味噌汁とプチトマト。白いご飯によく合うおかずだ。わたしが朝食を食べているとおばあちゃんが食卓に着いてわたしに話しかけてきた。
「たくさん食べて大きくなるんだよ」
 おばあちゃんはわたしが赤ちゃんの頃から一緒に暮らしていて、いつもわたしに大切なことを教えてくれる。わたしにとっておばあちゃんは『格言製造おばあちゃん』だ。『亀の甲より年の劫』というやつだ。長く生きているから、わたしの気付かないことにもすぐに気付いて教えてくれる。そんなおばあちゃんだからこそ、わたしの『異常』にもすぐに気付くのだ。
「ハルカ、あんた悩み事でもあるのかい?」
「ん?」
 わたしはお味噌汁を飲み込みながら驚いた。まだなにも話していないし顔にも出したつもりもないが、おばあちゃんにはお見通しなのだ。おそるべしおばあちゃん。そのことをわかっているから、わたしは隠さず正直に話した。
「昨日初めて会ったクラスメイトと友達になりたいって言われたんだけど、なんて答えればいいのかなって」
 するとおばあちゃんは一切の迷いもなくズバリと言い放った。
「ハルカがしたいようにすればええ。友達になりたいならなればいいし、なりたくなければならなければええ。それだけのことさ」
 さすがおばあちゃんは簡潔に的確なアドバイスをくれる。わたしは胸の痞えが取れたようにご飯を飲み込んだ。
「それともう一つ。友達はいるに越したことはない。学生の内に友達をたくさん作っておいて、その中から自分と心が通じる友達を見つければええ。その友達がいずれ親友となるのさ」
「うん、わかった」
 わたしは納得した上で自分の頭におばあちゃんの言葉を深く刻み込んだ。こうしてわたしの頭のメモ帳におばあちゃんの格言が残っていくのだった。

 わたしが登校して教室に入った時、キョウコは教室にはいなかった。まだ登校していないのかと思って待ってみたが、キョウコが教室に入ってきたのはホームルームギリギリ直前で、わたしがキョウコに話しかける余裕はなかった。その後も休み時間に隙を見てキョウコに話しかけてみようとするが、キョウコはいつも姿を消していて教室の自分の席にいなかった。まるでUMAのように神出鬼没なキョウコに話しかけることができたのは昼休みの時間になってからだった。授業終了のチャイムと同時にわたしはキョウコの席に急いで向かい、席を立つ前のキョウコを捕まえることができた。
「話があるんだけど、いい?」
「そう、ここではなんだから、あそこに行きましょう」
 そういうとキョウコは自分の分のお弁当を持ってスタスタと教室を出て行ってしまった。わたしは慌ててお弁当を持ってキョウコの後を追う。そんなわたし達をクラスメイトは奇妙なものを見る目で見ていた。
「キョウコ、わたしのこと避けてたでしょ」
 わたしは早歩きでキョウコに近づいて問い質した。キョウコは薄笑いを浮かべて楽しそうに答える。
「そんなことないわ。ただちょっとあなたが本気かどうか試してたのよ。昨日の話をどのくらい信じてどんな行動に移るか観察させてもらってたわ。ごめんなさいね」
 キョウコはどうやら人を試すのが好きなようだ。どこか悪趣味な面を持つキョウコは間違いなく変人だ。わたしはそう確信した。
「じゃあわたしが授業の合間の休み時間にキョウコを捜してたのも見てたんだ」
「そう、あなたが授業中に私の方をチラチラ見てたのも気付いていたわ。あなたってかわいいところもあるのね」
 それを聞いてわたしは恥ずかしくなってそっぽを向いた。キョウコはいつもわたしを見透かしてからかうのだ。初めて会ってわずか二日でキョウコの変人ぷりをこれでもかと味わうことになるとは思わなかった。それにキョウコのお茶目な部分を垣間見ることができた。かわいいって言われたし。
「さて、せっかくだからここで食べましょう。倉庫は埃っぽくて食事場所には向かないわ」
 キョウコは花壇の側のベンチに腰掛けるとお弁当の包みを開き始めた。わたしもならってキョウコの隣に座る。
「お弁当は自分で作ってるの?」
「いいえ、母に作ってもらってるわ。私が料理するとどうしても無駄と思える工程を省いて失敗することが多いの。味付けを間違ったり火が通ってなかったり」
「あはは、わたしもそうかも。おばあちゃんに教わることもあるんだけど昔の独特な調理法だから現代っ子にはわかりづらくてね」
 お弁当を食べながらわたしとキョウコは他愛ない話で盛り上がった。といってもキョウコの話は普通の女子高生とは少し、いや結構変わっていて、それがまた面白かった。
「料理はレシピ通りに作れば上手くいくと言われているけれどそれは間違っているわ。一般のレシピ本には必要なスキルをマスターしていることが前提で書かれていることがあり過ぎなのよ。じゃがいもの皮をむくだけでも包丁でやるには難しい工程だし、調味料を適量といわれても具体的に何グラムか書いておいてもらわないとわからないじゃない」
「そうだね、難しいよね」
 それからこれは話しをしてわかったことだが、キョウコは自論を確かに持っていて、それに反したりそぐわなかったりすることに反論するのが好きというか論さずにはいられないようだ。それがキョウコのポリシーなのかもしれない。
「つまり今の若者が料理が下手なわけじゃなくて教える側がちゃんとしたマニュアルを提示していないことが問題なのよ。料理研究家が素人の家庭の味を再現できるレシピを作成できなくて誰が作れるというのかしら」
 そしてキョウコは自論を展開する時は熱が入りやすいこともわかった。教室での授業中のキョウコは凛と澄ました知性を感じる美少女だが、わたしと話してくれるキョウコは自分の心を包み隠さず表してくれる。それはキョウコがわたしに心を開いてくれている証拠に他ならなかった。それが今はとても嬉しい。
「さて、結論が出たところで、本題に移りましょうか」
 キョウコは食べ終わったお弁当を畳んで片付けると、隣のわたしに向き直った。距離が近い。春風が心地よくキョウコの長くて綺麗な黒髪を揺らしている。そうだ、わたしはキョウコの質問に答えるために昨日ずっと考えていたのだった。本当はまだ決めきれずに今日もずっと考えていたのだけれど、今朝のおばあちゃんの言葉とキョウコと話したことで決心がついた。
「これが最後の質問。私は退廃したくない。あなたは?」
「わたしは――」
 ここでもう一度確認する。本当にそれでいいのか。後悔はしないか。心の中の自分に問い質す。運命の選択。ここで間違えばどうなるか。おばあちゃんの言葉が思い起こされる。わたしの葬式のイメージ。退廃した未来。絶望よりは希望がある方がいい。わたしの心はもう決まっていた。
「わたしは、退廃したくない」
「……そう、これからよろしくね。ハルカ」
 キョウコは頷くと右手を差し出してきた。
「よろしく、キョウコ」
 わたしはキョウコの右手をわたしの右手で握り返す。ここで改めて同志となった硬い握手を交わした。キョウコの手は冷たさの中に体温の温かみを感じて、キョウコの心そのものを表しているようだった。
「さて、それじゃあ契約を交わしましょうか」
「契約?」
「口約束では後で反故にされると困るわ。きちんと契約書にサインしてもらって初めて私達は同志となることができる。異論はある?」
「ないけど……」
 わたしは了承したが、友達になるだけでそこまで堅苦しい契約が必要だろうか。キョウコにしてみたら待望の同志なのだからそれくらい慎重になるのも仕方ないことなのだろうか。
「ならいいわね。これをよく読んでサインして」
 キョウコは制服のポケットから折りたたまれた一枚の紙を広げて出した。わたしの目が確かならノートを切り取った紙に手書きで書かれた手作り感に溢れる契約書だった。
「これなに?」
「だから契約書よ。安心して。使ってないノートの綺麗なページを鋏で切り取ったものだから」
 やっぱりノートの切れ端だった。仕方なく言われたとおりにわたしは契約書に書かれた文面に目を通す。そこにはこう書かれていた。

『私達は苦なる時も辛き時も二人手と手を取り合い、笑いたい時に笑い、泣きたい時に泣き、このつまらなくて退屈な世界で退廃に抵抗することを誓います。』

 まるで結婚式の誓いの言葉みたいだ。他になにか書かれていないか契約書の隅々まで見たが、署名の欄にキョウコの名前が記されている以外は他になにも書かれていなかった。というかこれでは婚姻届けのようなものではないだろうか。わたしの考え過ぎか。
「読んだ? そんなに難しい文面にはしていないつもりだけれど」
 わたしがなかなか決めかねているのを待ちきれないのかキョウコがわたしの顔を覗き込んできた。距離が近い。わたしはなぜか顔が熱くなるのを感じながら理解したことを伝えるために何度も頷いた。
「そう、ならここに署名して。私の署名の下にね」
 わたしはキョウコに言われるがままにボールペンで契約書に署名する。
「じゃあ次は、契約の印を押しましょう。といっても印鑑は持ってきてないだろうから、これで済ませましょ」
 そういうとキョウコはポケットから小さなケースを取り出すと、そこから細長い裁縫用の針を出した。
「針?」
「そう、針。これをこうして……」
 キョウコはライターを取り出すと針の先端を炙り始めた。針に煤が付着すると、今度は薬品が沁み込んでいるガーゼで針を綺麗にしている。なにをする気なのだろう。わたしがぼうっと眺めていると、なんとキョウコは自分の親指にその針を突き刺した。といっても針の先っちょをほんの少し刺しただけなのでそんな大袈裟なことではないのだが、突然のことにわたしは驚いてしまった。針を抜くと、キョウコの親指から血がじわりと滲み出てきた。痛そうだ。
「そうしたらここに押す……」
 続いてキョウコは血の出た親指を契約書の自分の署名が書かれた横に押し付けた。指を離すと、契約書には真っ赤なキョウコの親指の指紋がくっきりと印された。
「さぁ、あなたもやって」
「え?」
 キョウコはケースから新しい針を取り出すと、わたしに差し出してきた。わたしにもその針で親指を突き刺せというのか。
「これじゃまるで血判書だよ」
「そう、血判書よ。そのほうが契約の効果が固そうでいいでしょ」
 キョウコはそう言って微笑んでいる。本気で思ってそうなのがかえって怖い。わたしは怖気づきながらも恐る恐る針を受け取った。ライターで先端を炙り、エタノールを沁み込ませた滅菌ガーゼで消毒する。なんでこんなことになっているのだろう。契約ってここまでしなければならないものだったとは。それでもわたしはキョウコの言うように退廃したくない。私は意を決して針を自分の親指に突き刺した。
「痛っ!」
 思わず声を上げてしまった。針はほんの少ししか刺さっていなかったが、痛いものは痛い。わたしが針を抜き離すと、親指からじわりと血が出てきた。わたしは思い切って血の出た親指を契約書の自分の署名の横に押し付けた。血が指に広がっていく感触が生々しい。指を離すと、契約書に血判がくっきりと印されていた。
「これでよし。契約は完了したわ」
 キョウコは満足げに契約書を見るとうんうんと頷いている。わたしは望んでも覚悟もしていなかったのに痛い思いをしているというのに。わたしが若干不機嫌になっていると、キョウコはわたしの手を取って血の出た親指を覗き込んできた。
「念のために水で指を洗った方がいいわ。保健室で消毒してもらいましょう」
 キョウコは案外優しいところもあるのか。保健室でなんて言い訳をするのだろう。また顔の距離が近い。指がまだ痛い。複数のことが一度に頭に浮かんでどれを優先するべきか悩むが、まずは先に言っておくことがあった。
「これからよろしくね、キョウコ」
「よろしく、ハルカ」
 今日からわたしとキョウコは友達になった。これはその契約なのだ。


続きはpixivに全編無料公開しています。お暇なら最後まで読んでね。

【追記】
noteのほうにも全編無料公開しました。マガジンにまとめてありますのでこちらもよろしければお読みくださいませ。


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