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【掌編小説】妻が脱皮した。/飛由ユウヒ

 妻が脱皮した。多くの自動車整備士が夏場、つなぎのファスナーをへその位置まで下ろすように、彼女もまた半透明の薄皮を脱ごうとしていた。

 日差しを遮ったリビングで、彼女は裸だった。営業先から家までの距離が近く、たまたま忘れ物を取りに帰った俺を大きく開いた目で見た後、すっと力を無くし、次の瞬間には瞼を閉じた。ごめんね、と妻は言った。

「三十になる前に、脱皮しないとだめなの」

 言葉が頭に入ってこなかった。彼女の足元にある物体に、つい目が行ってしまう。表面は乾燥した湯葉に似ていた。俺の視線が気になったのか、彼女は静かに布団をかぶせた。

「脱皮は人生で一度きりだから、隠し通そうと思ってたの。ごめんなさい」彼女は艶やかな両腕で胸と局部を隠す。「でも、それ以外は普通の人間となにも変わらないの。信じてって言ったら、虫が良いように聞こえるかもしれないけど、わたし、あなたに信じてもらうためなら、なんだってする。だから……」

 彼女の潤んだ瞳が、俺を捕らえる。これだから、女はずるいと思った。

「今まで通り、夫婦でいてくれる?」

「……わかった」

 ほかの選択肢もあったはずなのに、目が合った瞬間、記憶喪失にでもあってしまったかのように、俺はそう答えるしかできなかった。

 

 それから一週間が経った。

 彼女に変わったところはない。今まで通り、日中はアルバイトに勤しみ、家事にも手を抜かず、炊き立てのご飯を用意してくれる。

 彼女とは高校の頃からの付き合いだ。脱皮を見てしまったのは偶然の事故で、告げられなかったのは、爬虫類が苦手な俺への配慮だとわかってる。

 忘れてしまえば楽になれるかもしれない。だけど、忘れようと意識するほど、同じ力で反発し、事実として突き付けられた。だれかに話さねば、気が狂いそうだった。

 適当な口実で、友人を安い居酒屋に呼んだ。ネクタイを緩める薬指には、プラチナの指輪が光を放っている。席に着くなり、「なに飲む?」と尋ねると、彼は「実は妊活中でさ、アルコール控えてんだよね」と言った。

「えっ、男も絶たないといけないの?」

「いや、体に影響はないらしいよ。でもサユリがさ、『自分は酒飲めないのにズルいって』すねるんだよ。まぁ、女が頑張ってるのに、自分だけなにもしないのは不公平だよな」

「お前偉いな。そんなことまで考えてるのか」

「一杯くらい飲んでもバレやしないんだろうけど、後ろめたいし、隠し事するのって疲れるじゃん。陣痛と比べたら楽なもんだろ」

 彼の決意に驚かされつつも、妻と重ねてしまう部分があった。出会った時からと考えると、十年近く妻は隠し通してきたことになる。

「そういえば全然関係ないんだけど、思い出した話があって」俺は半ば強引に、話を切り出す。「もし、結婚して数年後に、妻が目の前で脱皮したらどうする? あっ、脱皮は一度きりで、生活に支障はないものとする」

「なんだその数学の問題文みたいな講釈は」

「いいから答えろって」

「脱皮する以外なにもないんだろ? だったらどうもしねぇよ」 

「なんでそんな簡単に割り切れるんだよ」

「逆にどうしろっていうんだ。『隠しててすみません』って謝れってか。謝ったところで、できることはなにもないと思うぜ? 変わるべきは男の方だろ。嫌なら離婚するしかない」

 納得できないでいると、「で、その問に、答えはあるのか?」と絡みつくような視線を向けてくる。説明することが面倒に思えて、そっぽを向きながら「忘れたよ」と返した。

 家に戻ると、豆電球ひとつ灯して待ってくれていた。机に突っ伏して寝ていたらしく、顔を上げると、いつもと変わらない声で「おかえり」と言った。すでにパジャマに着替えており、あとは寝るだけといった様子だ。先に寝てくれても良かったのに。そう告げると、「待っていたかったの」と小さく微笑んだ。

「ひさしぶりのお酒だったんじゃない? 楽しかった?」

「それがさ、飲まなかったんだよね」

 俺は事の経緯を話した。身近な話だけあって、彼女は終始うなずきながら、「優しい気づかいだね」と答えた。

 風呂に入り、寝るための準備をする。髪を乾かしていると、鏡越しに妻がひょっこりと覗いてきた。迷うような表情に、「どうかした?」と尋ねる。なんとなく、彼女がなにを求めているか、予想がついていた。

「ねぇ、今日、しない?」

 ドライヤーの音がうるさかった。答えあぐねていると、彼女が言う。

「……もしかして、まだ気にしてるの?」

「……そんなことないよ」

 俺の声はあきらかに拒んでいた。口にした瞬間、嘘をついたという自覚があった。同時に、彼女を傷つけないためについた嘘だと弁明する自分もいた。

 彼女が俺の肌に触れる。すると、ヘビが木を登るような感覚が全身を駆け巡り、咄嗟に身構えてしまった。やってしまった、と思ったが、どうすることもできなかった。

「ねぇ、わたしどうしたらいい? あなたのためなら、どんなことだってする。直してほしいことがあるなら遠慮なく言って」

「……時間をくれないか」

 そう言って、俺は部屋に逃げた。扉を締めるなり、声を上げながら頭をかきむしる。

机の角に体が当たったらしく、なにかが倒れる音がした。倒れていたのは写真立てだった。結婚祝いに撮ってもらったふたりの写真。節目だからと、わざわざ写真館に行って撮ってもらったのだ。俺はそれを持ち上げる。

気に入っていたはずの写真が、その時ばかりは直視できなかった。



※この作品はフィクションです。実在の人物・事件・団体などには一切関係がありません。

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