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人生というジェットコースターをノリノリで乗りたい

ディズニーランドへ初めて行ったのは、知らない大人たちに連れられてだった。
たしか小学校低学年くらいの頃だったと思う。

別に怖い話とかではなくて、弟が通っていたスイミングスクールの親睦旅行に便乗させてもらったのだ。
スクールのコーチたちが引率となって、生徒の子どもたちとみんなでディズニーランドへ遊びに行く。そこには各生徒の家族が一人まで付いていけることになっていたので、兄である私が名乗りを上げた。
面識のない大人や子どもに囲まれての、楽しみと緊張の入り混じった夢の国。

このときに乗ったビッグサンダー・マウンテンが、覚えている限り人生初の本格的なジェットコースターだった。
絶叫マシンが苦手なのは当初からわかりきっていた私は、事前に父から、ジェットコースターを楽しめる極意なるものを教えてもらっていた。
その極意とはズバリ、「ノリノリで乗ること」であった。

怖いからといって身体をのけぞらせたり、目をつむったりしてはいけない。
いっそ前のめりに「行けー!」という気持ちで乗るのがよい。
さすれば次第に恐怖はやわらぎ、楽しさが勝るであろう。

初めてのジェットコースター。名前も知らないコーチの隣に座らされて不安しかなかった幼い私は、その教えだけを頼りに本番に臨んだ。
前傾姿勢で安全バーに胸を寄せ、目をカッと見開いて前方を見据える。無理やり口角を上げて、いかにも楽しそうな表情を作ってみる。
たまにそれっぽく「フォーゥ!(高音)」みたいな歓声もあげてみた。

初戦の結果は、惨敗だった。
ノリノリを演じてみたものの、楽しいなんて感情よりもシンプルに恐怖が勝った。スピードもそうだけれど、暴走する機械に身体の自由を奪われている恐ろしさ、止まりたくても止まれない恐ろしさがたまらない。最悪だ。とんでもない乗り物に乗ってしまった。

走行を終えて乗降口をふらふらと歩いていると、
「ゆうすけくん、不安がってたわりに結構ノリノリで楽しんでたね!」
と、隣にいた知らないコーチがまるで見当ちがいなコメントをよこしてきた。

冗談じゃない、お前の目は節穴か?
あんな引きつった笑顔をした子どもが本気で楽しんでるわけないだろう。

そんなことも言えないので、私は「えへへ、まぁ…」などと頭をかいて、やっぱり引きつった笑顔をして取り繕う。悲しい気分だった。
私が内心でどれほど恐ろしい思いをしていようが、周りの人間にはそんなもの知ったことではないのだ。
2つ年下の弟はというと全然平気だったようで、無邪気に「もう1回乗りたい!」と飛び跳ねていた。そのことも地味に私の心をえぐった。

初ディズニーの思い出はこれだけ。
今でも私は絶叫マシンが苦手だ。ジェットコースターをどこかで見かけるたびに、このときの惨めな気持ちを思い出して、なんだかそわそわしてしまう。


惨めな思いといえば。
そういえば近年にも、別の情けなさを嚙み締めた出来事があった。
二年ほど前、職場の人事異動をきっかけに適応障害を発症し、泣く泣く仕事を休職したときだ。
自分の仕事を全部丸投げして職場を去ることへの申し訳なさ、情けなさ。

このときも、自分の実情と周囲からの見え方とのギャップに驚いた。
休職を申し出るまでの約半年間、どうやらその職場で私は何の問題もなく平常運転で業務をこなしているように見えていたらしい。
とんでもない。こっちはストレスでほとんど食事が喉を通らない中、死ぬ思いで身を削っていたというのに。

療養に入ったところで、抑うつは治らなかった。
結局仕事は退職することになった。
何か大きな力に人生がぶんぶんと振り回されて、振り回されるままに身体をあちこちにぶつけて、傷だらけになっている気分だった。
少し前まで元気だったはずの自分がどうしてこんな目にあっているのか。どこかで何か選択を間違えたせいなのか。
何がなんだかよくわからなかった。


しかし冷静に考えてみれば、こうした境遇に「どうして」「どうしていれば」と原因ばかり探るのは、あまりセンスがいいとは思えない。
もともと人生は、どう頑張ってもコントロールできないものばかりだ。
私たちは手に負えない他者や社会や自然環境に囲まれていて、そうしたものが相互作用して生まれる大きなうねりみたいなものに押し流されるようにして生きている。その流れはあまりに大きくて強力なので、誰にも操ることなんてできない。
当然だ。自分自身の感情や行動ですら思い通りにならないんだから。

人生は半自動的に、勝手に進んでいく。
必死で努力してようやく得たはずの心地よい環境だって、ほどなくして失ってしまう運命にある。
自分も他人も日々変わり続けて、人付き合いもその相性も、そこからくる悩みも、私たちが望むと望まざるとに関わらず、目まぐるしく入れ替わって落ち着かない。
私たちにできるのは、どうにもできない猛スピードの変化の中で、せいぜい身をよじるか声を上げるかくらいだ。

人生はジェットコースターに似ている。
この世に生まれ落ちたときにはシートに座らされていて、車体はすでに動き始めていた。
え、もう死ぬまで進み続けるしかないんですか?ちょうどいい場所で止めるとかってできないんですか?
最悪だ。とんでもない乗り物に乗ってしまった。

とはいえ、乗ってしまったのだからもうあとには引けない。
怖いからといって身体をのけぞらせたり、目をつむったりしてはいけない。
まずは行く先を見据えて、迫りくる変化を受け入れることだ。そこから始めよう。
乗らされるだけではしんどいので、いっそ人生というジェットコースターをノリノリで乗ってやりたい。

まあ、別にノリノリになったところで、怖くてしんどいのは変わらないのだけれど。
それでも周りの人から見れば、意外と普通に人生を楽しんでいるように見えるのかもしれない。

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