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仮面ライダー、うっかり正義を見失う

「小林くんは、どんなところが自分の長所だと思う?」

そう聞かれたのは、私が地元の高校へ進学してまもなく、新入生面談があったときだった。面談の相手はクラス担任の先生だ。

小柄で茶目っ気のある感じの、40代くらいの女性教諭だった。先生はいつもニコニコと目尻にしわを寄せていて、口調もやわらかく明るいのだけど、それだけになんだか根っこの本心がわからないような印象もあった。
学校全体をひそかに裏で操る黒幕がいるとしたらたぶんこの人だ、などと失礼なことも私はこっそり考えていた。

自分の長所。
見慣れない職員室で緊張していた私は、想定外の質問にうろたえて、やや口をもごもごさせたのちに、
「正義感が強いところですかね…」
としぼり出すように答えた。

それを聞くなり先生がぷっと噴き出して、声をあげて大笑いを始めた光景は、今でも記憶の端にこびりついている。
その笑いがなんだか少し意地の悪いものに見えて、私は身の置きどころのない思いとともに、ちょっとした反発心も覚えた。

そんなに笑うことはないじゃないか。
正義感が強くてなにが悪いんだ、この冷笑主義者め。

内心で毒づく私をよそに先生はひとしきり笑った後、「そっかぁ」とだけ言い添えて、早々に次の話題に移っていった。
面談でのその後のやりとりはまったく覚えていない。


今思い返してみると、いかにも気弱そうな新入生の唐突な正義感アピールは、少し不意打ち的な可笑しさがあったかもしれない。
けれど、このときの「正義感が強い」というのは、まぎれもなく私の本心から出た答えではあったと思う。

思春期を迎えてからの私の頼りないアイデンティティを支えていたのは、ただマジメであること、その一点だった。やんちゃな不良連中がモテ始める中学時代においても、私だけは清くつつましく正義の側へ立っていたかったのだ。
いじめなんてもってのほかだし、教員から生徒への指導にあっても、筋の通らないものにはもれなく憤りを感じた。
平和を乱したり、人を傷つけたり、権威を振りかざしたり、そんな横暴がまかりとおる学校生活に辟易していた。

どうしてみんな正しくいられないんだと、夕方の帰り道でひとり息巻く。
楯突く度胸もないので、決して声には出さないけれど。

いつの間にかそんなふうになっていた。


そういえば私は小さい頃から、仮面ライダーが大好きだった。
平成生まれのくせに、ハマっていたのはもっぱら昭和に制作された最初期のシリーズである。その時期の特撮のプロットは、いわゆる勧善懲悪を体現したような単純なものが多かった。

VHSのテープを巻いては、仮面ライダー1号こと本郷猛の勇姿を目に焼きつける。
幼き小林少年はきっと、正義の名のもとに人を助け悪をくじく、その明快さに魅かれていたのだ。
ひょっとすると、のちに「正義感が強い」などと口走って先生に笑われるあのシナリオも、この頃からすでに始まっていたのだろうか。


ところが大人になるにつれて、「正義」という言葉を使う機会は急激に減っていった。それはべつに今の私が悪の道を歩んでいるというわけではなくて、むしろかつての私が、ただ無知のあまりハリボテの正義感をかざしていただけのことだ。今となってはそう思う。

「私は正義感が強いです」と言うためには、正義とは何たるかを説明しなければならない。そのうえで、自身が正義の側にいると断言しなければならない。
しかし私は色々な知識に触れる中で、それがいかに大変かを理解するようになった。世界はそれほど単純明快ではない。

たとえば、今私たちが生きている社会のシステムは、意外と新しいものであることを知った。
世の中を動かしている"資本主義"も、誰もが認める"人権"だって、近代になってようやく発明されたばかりである。まして現代日本の法体系など、まだまだ導入したてほやほやの、いわばお試し期間のようなものだ。
ルールや常識は決してあたりまえのものではないし、正しいとも限らない。

それから、自由意志と道徳的責任をめぐる問題が、途方もなく難しいことを知った。
犯罪や問題行動を起こす青少年の背後には、しばしば個々の障害や、彼らを取り巻くコミュニティや家庭環境の問題もある。
人間の行動選択が個人の資質と過去の経験によって決まるとしたら、そこに本人の自由意志が入り込むスキマはどれくらいあるのだろう。生まれもった遺伝子が、個人の資質をつくる。生まれた環境が、その後の経験をつくる。どちらも自由に選べるものではない。

自力で泳ぐには広すぎる海原をぷかぷかと漂流して、翻弄される。その先で悪事の島に流れ着いた人。そうではない島に流れ着いた人。いじめっ子、いじめられっ子、どちらにもならなかった子。
いったい違いはどこにあるのだろう。悪事の責任を問うのは正しいことなのか。
正しいってなんだ。

考えても考えても、まるっきり答えは出てこない。
いつか答えが出せそうな気配もない。

私に正義を語る資格はない。


もし今、私の目の前に正義を語る制服姿の青年が現れたら、私はたぶん彼を「未熟だ」と感じてしまう。

君はまだ、世の中の複雑さを知らないからそんなことが言えるのだ。
まあせいぜい正義の道を行くがいい、じきに君にもわかるさ。

笑い声が聞こえてくる。
あの面談でも、先生はそのつもりで私を嘲笑していたのだろうか。どうだろう、さすがにそこまで露骨な悪意は込められてなかった気もする。
今はもうわからない。


2023年、庵野秀明の脚本・監督による『シン・仮面ライダー』が公開された。幼い私をとりこにした仮面ライダー1号の、50年越しのリブート作品である。
あの本郷猛が、無骨な変身ベルトが、私のノスタルジーを刺激する。

これを機に久々に昭和のライダー作品を見直してみようかとも思ったものの、どうも気おくれがして手が出せていない。
なぜなら私は変わってしまった。
ライダースーツに身をつつみ高らかに正義を掲げる本郷猛が、かつての制服姿の未熟な私と重なって見えたらどうしよう。小さい頃に抱いていたキラキラとした憧憬が、たちまち枯れてしぼんでしまう。
それはおそろしい。

対して敵のアジトに控えるショッカー幹部の高笑いはきっと、あの先生の黒幕めいた笑顔に見えてくる。いや、だったらまだいい。よく目をこらせば、正義の道を見失って久しい、くたびれた今の私自身の姿に見えてくるかもしれない。
おのれショッカー、許さんぞ!
無垢な私が、私を殺しにくる。
それはもっとおそろしい。


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