受付嬢京子の日常⑯嵐の前の静けさ

「ただいまご紹介いただきました、長谷川です。館長を拝命しまして…」

ハキハキとした喋り方をする人だ、と原田京子は思った。「美味しいものが好き」と公言してニコニコしていた前館長とは、違うタイプの人なんだろうな、と京子はあいさつの言葉を聞いている。痩せ型で、鋭い目つきだ。最後ににっこりと笑顔になったが、いかにも笑顔を作る、という感じだ。

先月来たマネージャーの山内敏行もあまり笑わない。いつ見ても、何かを考えている様子で歩いている。もう1人のマネージャーの木嶋悟は、不器用で口数が少ないが、声をかけやすいオーラが出ている。何かあると、気づいてさっとフォローしてくれる。館長の優しい佇まいも施設『エキモ』の事務所の全体的な雰囲気を作っていた、と京子は考えている。エキモは、急速に変わるのかもしれない、そんな予感がよぎる。

さらに警備隊長、三島隆志もあと1ヶ月で現場を離れるという。視野が広く、施設の隅々まで目を配ってくれている。噂好きの高田登を始め、なぜか体育会系部のノリがあるおじさん警備集団をまとめてくれる文鎮のような人だ。その隊長がいなくなった後、隊長が高田登と知って、京子は衝撃を受けた。京子にとっては不確かな噂を流して「訳知り顔」をひけらかすおじさんだが、仕事はできるのかもしれない。

嵐の前の重たい雲が胸にあるようだ。京子は、時給もしっかり日数働けるところも気に入っている。環境が変わっても、働き続けられるだろうか。表現しがたい不安に駆られる。

開店準備で醤油の香りが漂う。歩き進めるとカレーのスパイシーな匂い。
エキモにはフードコートはない。個別に別れたお店で食事が取れる。どこのお店もハズレがない。駅直結施設ということもあり、どのお店もお昼には行列が出来る。

「この間ありがとうね」

お昼に定食を出すもつ鍋屋の店長が京子に声をかける。「こちらこそごちそうさまでした」と言いながら、『やっぱりバレてたんだ』と思う。エキモの中で働く吉田洋子と晩御飯に行くことになった。洋子が「前から食べてみたかったんだよ、だめ?」と聞くものだから、お店に入り、目立たないところで食べた。色々聞きたい、と思っていたのに、結局次の日には内容を忘れていた。

楽しかったのだけは覚えている。そう、楽しかったからいいんだよ、と自分に言い聞かせていたけれど、こうして挨拶されると気まずい。聞かれているかもしれないと思うと、仕事も話もできない。もしかしたら、吉田洋子は仕事の話を避けるために、あの店を選んだのかもしれない。

愚痴は言わないのにな…。

京子は無性に寂しくなった。吉田洋子の振る舞いはいつでも正しい、と感じる。だからこそ、もしかしたら予防線を張られたのかもしれない、そう思うと自分が認められていないような気持ちになる。
京子の鼻をコーヒーの香りが抜ける。それでも気持ちは切り替わらない。
出汁の香りが周りに漂う。人気の惣菜店を抜けると、インフォメーションデスクが見えてきた。

インフォメーションデスクは広くはない。小さなスペースなのに、どこにいたらいいのかわからない。

吉田洋子に会って、次のお店はどこに行こうか、施設の店は避けたいと話したい気持ちに駆られる。

なんでこんな日限って洋さんはいないのか。

別のスタッフしかいない時、吉田洋子の働く店を含めて多くの店が遅くに出勤してくる。ようやく電気がついた店を見ながら、京子はため息をついた。


「気づかなくてごめんね」

また食事に行きたいこと、おしゃべりしにくいからエキモじゃない方がいいという話をすると、吉田洋子が驚いた顔をする。「そんなことないでしょう」でも「言ってくれたらよかったのに」でもない、言葉。開店前の時間がない時だと分かっていつつ声をかけたのは、自分の方だ、と京子は思う。

「私ももつ鍋のお店は行ってみたかったんで、いいんです。でもやっぱりおしゃべりしにくいなってこの間思って」

自分でも慌てているのがわかる。話している最中も他の従業員とすれ違う。その度に吉田が笑顔で挨拶をしているのに釣られて京子も挨拶をする。無表情の山内とすれ違う時にも洋子が笑顔で挨拶をした。山内が戸惑いながらも笑顔になった。京子も慌てて一緒に挨拶をする。山内は京子にも笑顔のまま挨拶をする。

「山内さんって笑うんですね」

小声で言うと、吉田が吹き出した。

「緊張してただけじゃないかな。話してたら普通に笑うよ」

そうは言ってても、吹き出すぐらいには洋さんも笑わないキャラクターとして認識していたのは間違いない、と京子は思う。

「洋さんマジックですね。誰でも笑顔にしてしまう」

京子が言うと「まさか」と言いながら、「こっちが笑っていると相手も笑うようになると信じているよ」と笑った。

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