mayk

セクマイとして生きる大学生。

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最近の記事

『すてきな三にんぐみ』

子どもの頃、『すてきな三にんぐみ』という絵本が大好きだった。 幼稚園に置いてあったその本は、カラフルで可愛らしい他の絵本の中で一冊だけ異彩を放っていた。 表紙は不気味で、それでも何故か手を伸ばしてしまう不思議な魅力があった。 ******** 泥棒である三にんぐみは、お金持ちの馬車を襲っては宝を奪い取る。 ある日馬車を襲うと、馬車の中にはみなしごのティファニーちゃんが乗っていた。 ティファニーちゃんを隠れ家に連れて帰ると、ティファニーちゃんは今まで貯めてきた宝の山

    • 「眠った子」だった私が思うこと。

      性教育に反対する意見の中に、「眠った子を起こすな」というものがある。 私は「眠った子」だった。 眠ったまま、大人になった。 ******** 一年ほど前、セクマイのオフ会で出会った方がフェミニストだったことをきっかけにフェミニズムについて学ぶようになった。 フェミニズムを通して現在の女性が抱える問題について学び、性被害や望まぬ妊娠の問題から性教育の必要性を知った。 随分と遠回りして、大学生になって初めて性教育について学び始めた。 私が高校までで習った内容は、男性器と女

      • 私のセクシャリティが、私の人生に与えた影響について。

        私は、セクシャルマイノリティだ。 きっと自分には普通に恋愛して、普通に結婚して、普通に子どもを産む、そういう"当たり前の幸せ"はこないんだろうなと思ったのは9歳。 初めて自分のセクシャリティに名前をつけたのは、13歳。 今はクローゼットとして生きる大学生。 先に自分のセクシャリティについて説明する。 性別は自分の中に性別という概念がない、というのが今は一番近いと思う。 男も女もXジェンダーもクエスチョニングも、しっくりくるものがない。たまたま女に生まれたから、女として

        • 次元の話

          昔、性別は0次元だった。 男か女。 ただの点。 最近、前よりは多くの人が性別を1次元にとらえるようになった気がする。 男 --------------女 のどこかに当てはまるみたいなかんじ。 どちらかに寄る人もいれば、真ん中の人もいて、日によって違う場所に印がつく人もいる。 トランスジェンダーもXジェンダーも仲間外れにならない。 すごい進歩だとおもう。 低次元からは高次元の存在を認識することはできない。 0次元からは1次元なんて見えないのに。 だけど自分は0次元

        『すてきな三にんぐみ』

          過去と未来のこと。

          大学に入学した年の5月、精神的に限界になった。 子供の頃から弟に蹴られながら育った。 痛みと悔しさでいつも一人で泣いている子供時代だった。 泣きながら何度もできるだけ早く実家を出ることを決意した。 最短を18歳として、大丈夫もう半分もきた、あと6年、あと4年、あと少し、ってカウントダウンしながら自分を慰める日々だった。 家出してしまいたかったけど、それによる苦労や危険について考えられる程度には冷静で現実的で臆病な自分の性格が嫌いだった。 年長の秋、兄と一緒に空手を始めた

          過去と未来のこと。

          命綱

          ある時、大好きな音楽が聞けなくなった。 辛くて毎日泣いていた時も、生きていくことが嫌になった時も、いつも音楽に救われてきた。 深夜に窓枠に座って外を眺めて聴く音楽が好きだった。 涙が止まらない夜はいつもそうしていた。 その時間だけはまだ自分も世間と繋がっていられてるような気がした。 自分には普通に結婚して子供を持つ、みたいな当たり前の幸せが来ないと初めて思ったのは小学生だった。 その現実をすんなりと受け入れられたのは幼さ故の現実感のなさが大きかったのではないかと思う。

          「私」

          最近ふと、自分の一人称が「自分」になったのはいつだったのかと気になった。友人とのメールを遡った結果、大学2年の春らしかった。そこから、過去自分が使ってきた一人称たちと、本当は使いたかった一人称について考えた。 きっかけは、少し前に知り合った人の一人称が「僕」だったこと。その人は可愛らしく、女性的なデザインのサンダルやスカートを着て、メイクをして、外見上は女性で性別に悩んでいるようにも見えなくて、でも自分が使えなかった言葉を使えるその人を羨ましく思った。 女の子であるというこ

          「私」

          マイノリティとしての自分

          自分は便宜上FtXレズビアンを名乗っている。 便宜上というのは、未だにしっくりくる表現を見つけられていないから。そういう意味ではクエスチョニングでもある。 自分が"普通"ではないと気づいたのは、小学生の時。きっかけなんて覚えてないけど、当たり前のように自分は(恋愛的な意味で)普通ではないと思っていて、それを受け入れていた。 クラスの女の子がかっこいい男の子の話で盛り上がっている時、自分にはそれが理解できなかった。記憶にある最初は、なんの感動も衝撃もない「ああ、やっぱり」。

          マイノリティとしての自分