マイノリティとしての自分

自分は便宜上FtXレズビアンを名乗っている。
便宜上というのは、未だにしっくりくる表現を見つけられていないから。そういう意味ではクエスチョニングでもある。

自分が"普通"ではないと気づいたのは、小学生の時。きっかけなんて覚えてないけど、当たり前のように自分は(恋愛的な意味で)普通ではないと思っていて、それを受け入れていた。
クラスの女の子がかっこいい男の子の話で盛り上がっている時、自分にはそれが理解できなかった。記憶にある最初は、なんの感動も衝撃もない「ああ、やっぱり」。

子供の頃に見た映画の中で、カップルが夕暮れの土手を並んで歩くシーンがあった。そのシーンを見た時、幸せとはこういうものなのかと当時の自分は思った。
"幸せの象徴"の中にいる未来の自分は、今の自分にとっての理想の未来のような気がして、未来の自分を想像した。
"幸せ"の中にいるはずの自分は、一人で寂しそうに歩いていた。無理やり自分の知る"当たり前の家族の形"にしてみたら、自分じゃなくなったように感じた。
自分がマイノリティとして、初めてショックを受けた瞬間だったと思う。

高校に入ってから、同じようなシーンに出会った。こどもの頃と同じように、未来を想像したら、隣には女性がいた。自分は女性が好きなのだと知った。
今はもう考え過ぎて理想の未来なんて見えなくなってしまったけれど、今でも隣には女性が見えると思う。

自分は人を好きになったことがない。正確に言えば、好きになるということがわからない。
自分は恋愛感情は薄いけれど、その分友愛は強い方だと思う。
性的欲求を持たないノンセクシャルでもある自分には、恋愛対象である女性の友人が多くいる。強すぎる友愛と、ほとんどない恋愛。性的な欲求以外でその二つを区分することはできるのだろうか。
そもそも好きの形は友達でも一人一人違う。なのに一つ(もしくは複数)だけを取り出して特別なものとそうではないものに分けることが自分には難しい。
みんなはどうやって異性(正確には恋愛対象になり得る性別)の友人と恋人を分けているのか、だれにも聞けずにいる。

成長と共に自分の周囲にも恋人がいる人が増えてきた。自分はそういう人を羨ましく思う。それは彼氏が欲しいとかそういう意味ではなくて、誰かを好きになって、その人に好きですと言えることが羨ましい。

例えば夜、急に寂しくなって、誰かと話したい、誰かに手を握って欲しいと思った時、そう願いながらも実際に明確な誰かは浮かばない。それで電話をかけられる誰かも自分にはいない。それでも寂しさは唐突に襲ってくる。
今の自分にとって恋をしないことの一番のデメリットはそこだと思う。

いつかこれが恋だと自信を持って言える相手に出会って、その人に好きですと言えたら。

自分のセクシャリティについて考えるとき、終着点はいつも同じで、成長しないなと自分で思う。
未来の自分の終着点がこの人に会えてよかったに変わっててくれたらいいのに。

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