私のセクシャリティが、私の人生に与えた影響について。

私は、セクシャルマイノリティだ。

きっと自分には普通に恋愛して、普通に結婚して、普通に子どもを産む、そういう"当たり前の幸せ"はこないんだろうなと思ったのは9歳。
初めて自分のセクシャリティに名前をつけたのは、13歳。

今はクローゼットとして生きる大学生。


先に自分のセクシャリティについて説明する。

性別は自分の中に性別という概念がない、というのが今は一番近いと思う。
男も女もXジェンダーもクエスチョニングも、しっくりくるものがない。たまたま女に生まれたから、女として生きている。

正直恋愛面では、自分でもよくわかっていない。
人を好きになるのかどうか、性的欲求を持つのかどうか、わからない。
ただ自信を持って言えるのは、好きになるとしたら相手は女性。

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私は子どもの頃から憧れ、どうしてもなりたかった職業を諦めた。

高校生の私が進路を考えるとき、いつもそこにはセクシャリティの問題がつきまとっていた。

将来自分が誰かを好きになるとしたら、相手は女性だろう。
今の法律では自分は好きな人と結婚できないから、配偶者控除も年金も、結婚した男女がもらえるお金や払わなくてもいいお金を、私たちは払い続ける。
そして男性よりも女性はお給料が低いらしい。

お給料が低い女性が二人で生きていくには、私が少しでも多く稼がなくては。

『ハチミツとクローバー』という漫画の中に、
「もし好きな女に何かあった時さ 「何も考えないでしばらく休め」っていえるくらいは なんかさ 持っていたいんだよね」という台詞がある。(ハチミツとクローバー 8巻より引用)

私はこの台詞を読んだ時、自分がこの言葉を言えるようになる為には、いくら稼がなくてはならないんだろうと考えた。

結婚のできない私とパートナーの生活費、家賃、年金、保険料、税金。子どもの私には思いつかないだけできっと他にもあるのだろう。
全部払って、それでも手元に心が貧しくならないだけのお金が残るのは、一体どれくらいだろう。

散々考えた私が選んだ学部は、私がいける中で一番大変で、だけど就職すればそこそこのお金がもらえる可能性の高い学部。

子どもの頃から水族館が大好きで、水族館で働きたかった。
小学生で目指すべき学部やとった方がいい資格を調べた。
時には資格試験の問題を開き、独学で勉強したこともあった。
小6で第一志望の大学を決め、中学の頃にはカリキュラムまで把握していた。
その大学を受験するための条件になっていた英語の資格を取得し、センター試験の点数は余裕でボーダーを超えた。
それでも私は子どもの頃から10年以上憧れ続けた、今も憧れて続けている道には進まなかった。
理由はひとつだけ、私一人が一人暮らしするにも苦しいほど、お給料が低いから。
そのお金で"私たち二人"が生きていくことはできないから。

今でも憧れは募っていく。
全国の水族館のホームページを読み、そこで生まれた珍しい生き物の成長を追いかける。
旅行をする度近くの水族館に行き、10代で過去に行った水族館の数は覚えているだけでも10箇所を超えた。
裏側体験ツアーも餌やり体験も何度もやった。
地元の水族館は館内の構造も、その水槽にいる主要な生物の名前も、そこにいるイルカの名前も把握している。
毎日同じ時間に開かれるイベントで飼育員の方が話す内容はもう覚えてしまった。
それでも開館から閉館まででは時間が足りない。

私にとって水族館は特別な場所だ。
水族館職員になりたいという気持ちは、大切なものだった。

今の学部にいることは後悔していない。
友人もいて、大変だがそこそこ楽しい大学生活を送っている。

それでも時々考える。
私がもしもストレートだったら。
当たり前のように男性を好きになり、付き合い、何年か経てば結婚を意識して、そしてそれを当たり前とも感じていない人生だったら。
自分が金銭的に支えられるようにならなければと強迫観念に近いものを感じずにいられる人生だったら。
自分はきっと今の道にはいないと思う。

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なにかのマイノリティになると、他のマイノリティへの差別や偏見にも敏感になる。

これは私がセクシャルマイノリティとして生きる上で常々感じていることで、間接的ではあるが、人との関係性に大きな影響を与えていると思う。

○○なんておかしい。
○○なんてかわいそう。

○○に私の持つ属性を入れれば、簡単に私を否定する言葉ができる。
そして他の属性をいれれば、簡単に私ではない誰かを傷つける言葉ができる。

入れる言葉を変えるだけで傷つける相手が変わる。
自分を傷つける言葉と同じ言葉で同じように傷つけられる他者の存在は、自然と目に入る。

LGBTsの私はかわいそうなんだろうか。
女として生まれた私はかわいそうなんだろうか。
私がこの失われた30年といわれる30年のことしか知らずに大人になっていくことはかわいそうなんだろうか。
私がアルバイトや飲み会にほとんど行けず必死に勉強する大学生活を送っていることはかわいそうなんだろうか。

私の持つ属性は、私の人生は、そんなにかわいそうなものなんだろうか。

私は、私に満足している。
私は私であることに誇りを持っている。
できないことも苦手なこともたくさんある。
なりたいものも憧れるものもたくさんある。
それでも私はそれなりに楽しく生きている。
私を、私と同じ属性をもつ誰かを、かわいそうだといわないでほしい。

この気持ちは他の属性を哀れむ言葉に対しても感じる。
私にかわいそうと言った人は、同じ顔をして他の人にもかわいそうというのだ。
その言葉はどこまでも人事で、私たちのために動いてくれることも、自分の言動を振り返り改めてくれることもない。
明日もきっと差別表現に笑い、無意識に誰かを傷つけていくのだろう。
私には「かわいそうな人に同情する優しい自分」が欲しいだけに見えてしまう。
マイノリティに対するマジョリティの上から目線の哀れみなんていらない。


そして、哀れみや同情の気持ちの有無なんて関係なく、私たちは日常の中で気づかないうちに差別用語を使ってしまうことがある。
ホモやレズという言葉は、ゲイやビアンという言葉よりはるかに一般的だ。

用語だけでなく、差別的な行動や偏見に基づく発言だってある。
そっち系?と顔の近くに手を持っていく表現や同性愛者は性的に奔放であるという言説は今でもある。

私はセクシャルマイノリティだからこの差別表現に気がつくことができる。
だが、自分が詳しくない分野だったらどうだろう。
きっと自分も同じことをしてしまっている。

だから必死に勉強するのだ。
自分と同じ方法で傷つけられた誰かなんて見たくないから。
自分を傷つけた誰かと同じになりたくないから。

そうして学ぶうち、どんどんと自分の知らなかった差別表現に出会い、その言葉を使わないように、傷つけない言い方を模索するようになる。

そして、そうではない誰が嫌になるのだ。
必死にその場にいるかもしれない誰かを傷つけない言葉を選んでいる横で、差別表現を大きな声で使い笑う人が許せなくなってしまう。

二人きりなら、その言葉はやめた方がいいと指摘できる環境なら、その人が自分にとって大切な人なら、注意ができる。

しかし、大人数の飲み会で、話の中心人物の言葉を遮り、否定できるだろうか。
自分より上の立場の人に注意ができるだろうか。
私のセクシャリティや他の属性を詮索されるきっかけにはならないだろうか。
そして私が勇気を出して伝えたとして、私の言葉は届くだろうか。
そうしてその人に言えないまま、私は一人の知り合いを失うのだ。

その知り合いが、学校を卒業すれば会わなくなる先輩や、ただの同級生ならまだいい。
距離を置くことが難しい職場の人なら。家族なら。大切な友人なら。

哀れみや同情から来る言葉も、差別や偏見から来る言葉も、どちらも自分には悲しく残念な別れのきっかけになり得る。
それが自分や自分の属性に向けられた言葉でなくても。

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セクシャルマイノリティとして生きる私は、バラエティ番組が見られなくなった。

母親と並んで歩く、小学生の子ども。
子どもが何かに気づき、指を指して叫ぶ。
「ママー、変な人がいるー!」
それを聞いた母親は子どもに
「指さしちゃダメ!」と叱り、足早に去っていく。

先日、ゴールデンタイムのバラエティ番組内で放送された再現VTRにあったシーンだ。
子どもが指を指した"変な人"は、婦人服を着た男性だった。
ちなみにそのあと別の人物からのバケモンやないか!というツッコミまで付いていた。

私は何度も似たようなシーンを見てきた。
見るたびに体の芯が冷えていくような感覚を感じる。
そしてそれを嗤う人々を見て、どうしても受け入れられない気持ちになるのだ。
時にそれは家族であったり、大切な友人であったり、尊敬する先輩であったりする。

その番組では、"変な人"は婦人服を着た男性だった。
だけどその変な人は、いくらでも変えられる。

異性装をする人、同性を好きになる人だけではない。
"伝統的な日本人"とは肌や目や髪の色が違う、海外にルーツを持つ、障がいや疾患がある。
離婚歴があることや独身であること、子どもがいないこと。
男らしくない男も、女らしくない女も。
出身地が田舎であることすらも。

バラエティ番組の中では全て笑いどころとして作られる"変な人"になってしまう可能性がある。

テレビの中で作られる変な人に、私もなるかもしれない。そしてそれが自分じゃない時、それはたまたま自分ではなかっただけなのだ。
明日には、明後日には、私と同じ属性を持つ人を指して変な人だ、と嗤う番組が放送される。
この状況で、婦人服の男性を嗤うことなどできない。それは明日の、明後日の自分だ。

先日たまたま家族が見ていた番組の中で、スタッフの女性を映し、
「このコーナーを担当して何年になる、田中(仮名)ディレクター、45歳、独身。」
というようなナレーションが流れ、45歳 独身 と大きなテロップがついていた。
その番組では30代後半、40代の女性のお笑い芸人に対してババアというテロップが出ていることも知っている。

年齢を重ねた女性も、美しくない女性も、結婚しない女性もその番組の中では全て嗤っていいものなのだ。

全ていつかの自分だ。
そしてバラエティ番組のそういった他者の属性に対する嘲笑は、しばしば唐突に描かれる。
結果として、私はほとんどバラエティ番組を見られなくなった。

いきなり誰かに殴りかかり、時には自分も殴られる。
そしてその殴られている人をみて嗤う大切に思っていた人の姿を見て、呼吸が浅くなるのを感じるのだ。
二重で苦しい思いをしてまでみたい番組なんてない。

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ヒールやメイクを強制されることが嫌で、大人になることが怖くなった。

子どもの頃からずっと、大人になることが怖かった。大人になりたくなかった。
なぜなりたくないのか。
大人の何が嫌なのか。
そう考えて浮かんだものは、全て大人ではなく社会人の女性に求められるものだった。

私は女として生まれたから、社会に出たらヒールやメイクをすることを求められる日があるだろう。
オフィシャルな場面であるほど、女性らしさから逃れられない。
年齢を重ねるほど回数は多く、そして"常識"は狭くなっていく。
冠婚葬祭が自己表現の場ではないことも、"常識"から外れた時に迷惑をかけるのが結婚式に招待してくれた大切な友人や、お世話になった故人であることも理解している。
だからこそ辛いのだ。

友人なら事情を説明して個人的にお祝いさせて欲しいとお願いするかも知れない。
それができない相手の時、そして友人の理解が得られない時、私はどうすればいいのだろう。


中学の制服のスカートはまだ良かった。
他に選択肢も与えられず、思考停止することができたから。
制服も靴も親がお金を払って用意してくれたから。

だけど社会人のパンプスもメイク道具も、自分でお金を払って欲しくもないものを買うことになる。
そしてそれは学校の制服とは違い、ある程度の自由がある。
たくさんある中から自分に似合うものを、使いやすいものを選ぶ。
どれを選ぶかは自由なのに、選ばない自由はない。思考停止もできない。
それが嫌だった。

スニーカーひとつ探すのにメンズの棚で30足以上検討しないといけない私の足に合うパンプスを見つけるためには、一体幾つの店を回らなければならないのだろう。
硬い靴では神経が圧迫されてすぐに歩けなくなってしまう私の足にあうパンプスを買うためには、一体どれだけの時間がかかるのだろう。

肌の弱い私が使える化粧品を探すためには、一体いくつ試せばいいのだろう。
肌の弱い私が使える化粧品で全て揃えるには、一体いくら払えばいいのだろう。

そして消耗品である靴も化粧品も、一生買い続けなければならないのだ。
自分に合うものを探すために、強要された苦手なもののためにお金と時間を使い続けなければならない。
それが私の大人になりたくないの正体だった。

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クローゼットである自分は、今日も静かに傷つきながら生きている。

生きているだけで将来は男性と結婚する前提で話をされる。
生きているだけで将来は子どもを産む前提で話をされる。
その度に静かに傷つきながら、私は黙る。

経済的に自立していない、知り合いの多い地元に暮らす学生である自分にとって、セクシャリティを明かすことはリスクが高すぎるのだ。

母は言った。
「あなたはバリバリ仕事したいタイプだから、子育ては任せて!」
私は子供を産みたいなんて言ってない。

父は言った。
「どうせ大学は○○大(地元のお嬢様女子大)みたいなところに行くんだから、付属の女子高にでも行けばいい。」
私はお嬢様女子大にはいかないし、男に養ってもらうつもりも、仕事を腰掛けにするつもりもない。

お菓子を作るのが好きだと言うと流石女の子、女子力高いと言われる。
私は女の子だからお菓子を作るのが好きなんじゃない。
ただ科学と物作りが好きなだけ。

サイクリングが趣味だと言うと女の子なのにと言われる。
私の性別とサイクリングが好きなこととは関係がない。
ただ運動が好きなだけ。

たまたま女の子に生まれただけで、理想の女の子像に当てはまるかどうかという話をされる。私には理想の女の子像に当てはまる趣味も、きっと理想の男の子像に当てはまる趣味もある。

性別に基づく"らしさ"に当てはまるかという話をされるたび、異性愛者で結婚出産することを前提にした話をされるたび、心が削られていくのを感じる。

誰かが悪いわけではない。
まだ、"そういう時代"なのだ。
きっと明日にはそんな話をしたことすら忘れているだろう。
そう思いながら静かに傷は増えていくのだ。


今、自分は学生で、結婚適齢期といわれる年代にはまだ早い。
それでも私が20代後半、30代になった時、結婚しないの?彼氏は?いい人いないの?と言われることが、既に怖い。

私には結婚願望がない。
それは相手の性別や自分の性別の問題ではなくて、ただ単に結婚に夢や希望を持っていないから。
それでも恋人ができたら、この人と結婚したいと思うのかもしれない。

私には子供を持ちたいという願望が全くない。
むしろ持ちたくない。
自分の血が入った子どもなんてお互いに不幸になるだけだとすら思う。
だけどこの人の子どもなら、と思う日が来るのかもしれない。

だけどそれをよく知らない人に根掘り葉掘り聞かれて、しなきゃダメよ!とは言われたくない。

世の中には、子どもを産めない人もいる。
不妊治療を受けている人もいる。
子供を持つことを諦めた人もいる。
子どもを産みたくない人もいる。
結婚に関しても、様々な事情や考え方がある。

その人たちにとって、その言葉は酷ではないか?
その言葉で、一体誰が幸せになる?
私の恋愛事情であなたにどんな影響があるの?
何度考えても、自分を納得させるだけの答えはみつからない。

私が結婚適齢期に差し掛かった頃、
高齢出産と言われる年齢が近くなった頃、
"そういう時代"は終わっているだろうか。

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私が自分のセクシャリティに初めて名前をつけた中学生の頃、インターネットでたくさんの人のインタビューや解説の記事を読み、実際に当事者と話し、とにかくセクシャルマイノリティを取り巻く環境や当事者の抱える問題について片っ端から勉強をして行った。
その中で否定的な意見も読み、当事者ではない人が当事者についてどう思っているかについても学んだ。

セクシャルマイノリティを取り巻く差別や偏見、歴史について知り、当時まだテレビでは一度も聞いたことのなかったLGBTやセクシャリティという言葉はインターネットに教えてもらった。

その時たくさんのことを教えてくれた先輩方の直面していた問題は、今、またはこれから私が直面する問題だ。

そして私の後輩達も。

私はセクシャリティで殆ど悩んだことがない。
いつだって私を悩ませるのは差別や偏見、制度の問題だ。
いつだって私を絶望させてきたのは世間の常識と自分の感情や願望の乖離だ。

もちろんセクマイであることは悪いことではないし、それで出会った人も、作品も、考え方も沢山ある。
全て今の私を構成する大事な要素で、大好きなものたちだ。

だからこそ願っている。

セクシャリティを理由に、夢を諦める子どもがいなくなってほしい。
セクシャリティを理由に、家族や友人と上手くいかなくなる子どもがいなくなってほしい。

私と同じことに悩み、苦しむ子どもがいなくなってほしい。

私にできることは多分ほとんどない。
きっとこの文を読んでくれる人はあまり多くないし、読んでくれた人はもともとセクマイに興味があるような人だと思う。
きっと私が一生かけても同じメッセージを伝えられる人はあまり多くない。
だけど、それでも、少しでも考えるきっかけになればと思ってこの文を書いている。

この世のどこかにいる8歳の子どものために。

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