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レコード芸術は死んでない話。


MIDEM2015

老舗クラシック音楽雑誌「レコード芸術」が休刊した。
休刊が発表された際には、それに抗う熱心な書き手とコアな読者の懇願による復活への署名運動も展開された。
3000人くらいの方が署名したようだ。全員が3年分くらい年間購読の先払いをしたら復活できそうではある。してなかったけど。
この件に関して、クラシックを録音する業務を行い、またそれについて執筆もする立場から、意見を求められたりしたこともあるが、多くを語ることを避けてきた。
歴史ある雑誌がエンディングを迎えるにあたって、その雑誌に執筆もしていなければ熱心な読者でもなかった私がその終焉を騒がせることは、まぁやめておこうと思っていたからだ。

ともかく先日、最終号が発売され大きく売り上げを伸ばしていたという。
だったら今までももっと買ってくれてたらという編集部の声が聞こえそうだ。
老舗のお菓子店、昔通った天ぷら屋。閉店が知らされると、みな一様に残念がる。文化が失われたと騒ぐ。数十年行ってなかったけど。
最後くらいは行こうかなということを考える。それと同じじゃないか。本当は求められていなかっただけだ。

静かなる終幕を閉じたかと思われたこの雑誌も、また新たに書き手であった方から毎日新聞で発表されて、何やらSNS界隈が騒がしい。
レコ芸に長く執筆されていた片山杜秀さんの記事のことである。
ウェブサイトに付けられたその記事の見出しは、
「レコード芸術」休刊 片山杜秀さんが指摘する「崩壊の兆し」
「レコ芸」休刊の余波 「クラシックは暗闇の世界に」 片山杜秀さん
というものだ。かなり衝撃的なタイトルが付けられている。
どうやら私のいる業界は崩壊が起こるらしく、そして暗闇になっていくそうだ。
この記事は有料記事なので、毎日新聞ウェブサイトに登録して毎月お金を払わなければ読めない。
おそらくこの記事を目にした人の多くは、無料分の最初の導入箇所しか読まないで、あれこれ考えてしまっているだろう。

ちなみにウェブ記事の見出しの多くは筆者やインタビュアーの意向とは関係なく、キャッチーに付けられることが多い。
私の記事でもそうだ。だたし、一応は公開前に確認ができる。片山先生がいちおうはこれでOKしたと仮定して、話を進めたい。

レコ芸にほぼ接してこなかった若い方に向けて説明すると、この雑誌はクラシック音楽に分類されるレコードやCDを完璧に網羅し、ラインナップしてその質を論じたり、また星をつけたりして読者へ指南していく雑誌である。アワードも開催していた。
歴代の音楽評論家がその知見を研ぎ澄ませて、あるいは穏便に評価して、レコードまたはCDという音楽商品の購買意欲を高めたりする。
往年の名盤と呼ばれるものについては、折に触れて特集もされ、新盤だけでなく歴史の中でそのレコードの価値を評価していく大変信頼のできる詳細なる「カタログ」であった。
ご想像のとおり、CDを出すレーベルも熱心に広告を出す。これがこの雑誌の主たる収入源である。
創刊は1952年。LPレコードが初めて日本で発売された年のことだ。
1980年代に入るとCDが主流となり、1990年から2000年代という最も音楽ビジネスが潤ったころを経て、ストリーミングビジネスの台頭から音楽ビジネスの主流が変わっていく。
ここが大きな転換期であった。

今から8年前の2015年、私は(というか弊社は)世界最大の音楽業界見本市MIDEM(フランス・カンヌ)に出展した。自社原盤を海外に売り込むためだ。
この際日本から大量のサンプルCDを携え、海外の買い付けレーベルなどにアポイントを取って商談を重ねていた。
商談相手の海外バイヤーにサンプルCDを取り出すや否や、彼らは口々にこういった。
「もうしわけないがCDを聴くことが今できない。オフィスにもCDプレイヤーを置いてないんだ。悪いけどデータで音源送ってくれる?」
1社や2社じゃない。特にアメリカと欧州の音楽ビジネスの最前線にいる大手レーベル含め、著作権ビジネスのトッププロたちが、当時すでにCDを聴いていなかったのだ。
この自分の不手際と、そして日本の独自な文化に正直反省を通り越して、驚愕しかなかった。
2012年アップルがMacBookから光学ドライブをとっぱらったことを、くどくど面倒なことだと言っていたのは私たちだけだったのだ。

この件は、私にその後の仕事をどうするかを真剣に考えさせるきっかけとなった。
我々のそばにいる方は、当時私がCDは終わる、もう終わると言いまくっていたことを覚えてくださっているだろう。
加えていうなら、すでにクラシックでも当時Instagramをどう使うかを話し合ってすらいた。日本でリリースされたばかりのインスタのアカウントを私はカンヌのエキシビジョン会場で作ることになる。見えている世界がそれくらい違っていたのだ。

CD制作業務を行う弊社としては、もちろん依頼があれば喜んでお引き受けする。できるだけ高品質でお届けできるよう知恵を絞るし、人脈を辿ってなんとか経費を抑えて制作できるようにもする。
一方で、自分で制作費を出してCDを作りたいというアーティストに対しては、CDを売っていくのはもう終わる。この後はコンサートのグッツとしての価値になる。それでも作る意味はあるかと問い続けた。パッケージメディアの価値は変わっていく。それはもうすぐそこだと。2015年のフランスで、私はそれをしっかりと実感していた。

一方で、録音するという行為自体に私は大きな価値を見出してもいた。
なぜなら、時と場所を超え、アーティストが自分の音楽を届けられるのはそこに録音技術があり、その音楽をしっかりと”音楽的に”構築できる卓越したエンジニアたちがいるからだ。
まさしくそれが「レコード芸術」である。
日本では浸透していないが、欧州、特にクラシック音楽の本場とされるドイツやオーストリアでは録音、編集、マスタリングという一連の技術を持つことに加え、音楽的にその録音物がどうかを判断するトーンマイスター制度があり、彼らが音源を作っている。トーンマイスターになるには大学で音響工学や電気分野を学ぶだけでなく、音楽の勉強、演奏も必須だ。彼らはピアノに加え、もう一種類別の楽器をプロ並みに弾けることを求められる。トーンマスターになる大学の専攻を出た方達は、みな一様に演奏が上手い。指揮だってできる。
彼らをバックステージに携えて作られた音源はまさに「芸術」と呼ぶに相応しい。
そのレコードされて作られた芸術は、たとえメディアがなんであろうと、再生技術が変わろうとその本質を違えることはない。
アーティストのその時の演奏を、アーティストの意向をしっかりと受け止めてそれ以上を記録したものは、CDだろうがストリーミングだろうか、そこに確かに存在している。

クラシックは、音楽は崩壊した?いやしていない。崩壊しそう?いやならない。
私はそう言いたい。それを言うのは、今もどんな時代だろうが演奏に生きるアーティストに対して失礼すぎる言い訳ではないか。

雑誌『レコード芸術』がなくなったのは、商品としてのメディアをラインナップできなくなったからだ。だから広告収益もなくなる。
ストリーミングが主流になり、自分の聞きたい音楽を簡単に検索し、好きな時に少しだけ試し、次々と再生できる。かつての私がそうであってように、どのレコードを買うか、お小遣いと相談しながら一枚のCDを慎重に選ばなければならなかった時代が終わっただけなのだ。
高名な評論家のお墨付きを心の支えにして、自分の一枚を選ばなければならない時代は終わった。
しかしそれは暗黒の世界なのだろうか。

たしかに、音楽評論のない音楽業界は不穏である。
人前に何かを発信した際にまっとうな批評を得られることは演奏家にとっても得るものは大きい。
リスナーと演奏家の間にいる評論家の音楽的な解釈と、音楽史的見地からの指摘は聴くものの理解を大きく深める。事実、私自身もそうした音楽評論家の言葉ひとつで新しい発見があり、また次の業務に活かせる糧をもらっている。
そうした意味でも、今書く場所を失いつつある雑誌の評論家の先生がたには、新しい音楽業界の方向性の中で発信してもらいたいと思っているし、すでにそれを実践されている若い世代の方々もいる。録音技術と再生環境の革新に興味をもっていてくれさえすれば、今ここで聴いている音楽がどうやってつくられているか、どうやってリスナーに聞こえているかという説明もふくめ、音楽を語れるだろう。雑誌はなくなってしまったが、新しいメディアは生まれている。生活の糧を得ていた媒体を失ったのはきついが、それはCD業界そのものと同じであり、同時にどの業界も時代が変わればお金の回る場所が変わっていく。それを音楽が終わったと言及するのはあまりに周りが見えていなさすぎる。

次世代の音楽評論家にならんとする人、そしてその評の読者になるであろう人たちに、今現時点で私ができることがあるとすれば、音楽業界はこうなってますよ、これからこうなりそうですよ、演奏家は時代が変わろうがメディアが変わろうが、自分たちの音楽を常に真摯に追い求めてますよと、説明していくことではないだろうか。ただ嘆くだけでなく。
この今現在を暗闇だとは思いたくない。暗闇になりそうなのであれば、私は松明を灯す側でありたい。

クラシック音楽はビジネス市場としては2.5%程度である。それはカラヤンがいた頃からそう変わらない。
科学技術が変わろうが、クラシック音楽を愛する演奏家はいつもそこにいた。

レコード芸術は死んでない。
死んでないんだよ。


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