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白球を追い掛けていたあの頃は


#部活の思い出

子供の頃から運動神経は良いほうでした。

現在40代の私の子どもの頃は1クラス40人前後の中で育った世代です。
勿論地域の差はあるかもしれないですけど、第三次ベビーブームの中で青春時代を育った年齢です。

運動会の花形競技と言えばクラス対抗リレー。
1クラスの人数が多いから全員で走る訳にはいかないのでクラスの代表選手が選出されてリレーに挑むのが習わしでした。

私は高校3年生までの12年間必ず代表に選ばれるわんぱく小僧です。
これには父親が元陸上選手であったことに感謝です。

足が速かったほうなのもさることながら、他の協議もそこそこ器用にこなせるタイプでもあったんです。

小学生の頃は特設クラブなるものがありました。
器械体操、バスケットボール、陸上の3競技です。

私はその全てから誘われましたが、なぜか断っていました。
多分その当時の僕の優先順位として1番だったのが睡眠だったのかもしれません。何せ朝起きるのがつらかったですからね(笑)

そんな私ですから当然、体を動かす遊びや体育の授業は大好きでした。
子どもの多い世代ですから、何かに秀でていることでアピールできる場所が一杯あったと思います。

勉強できる子であったら勉強でアピールし、音楽が出来る子であったら音楽のときにアピールできた、そんな風に個性がちゃんと表現できた時代でもあったと思います。

だから私は自分を最大限表現できる場所といえば当然体を動かす事。
そんな小学生時代誰もが認める運動神経のよい子が唯一の運動での挫折を味わう経験をした話です。

部活とはちょっとかけ離れますが、それは少年野球をしていた時代の話しです。

少年野球時代の挫折

私は小学校2年生から小学校6年生まで少年野球をやっていました。
私の子どもの頃はまだまだ野球をする子どもがいっぱいいた時代です。

各地域にチームがあるとかの規模間ではなく、各地区にチームがあるくらい競技人口が多かった時代です。

分かりやすく言うと○○市△△の△△ごとにチームがある感じです。
だから同じ学校の同じクラスに何チームも違う野球チームに入っている友達がいる状況でした。

そして、学校が終わっても違うクラスの友だちと野球対決をするくらい野球、野球って感じでした。

しかし、時代の流れとともに放課後の遊び方が変わっていきました。
それは私が小学校3年生の頃に訪れました。

先ずは「キャプテン翼ブーム」
これによりサッカーをする子どもが出始めて時期です。

それとファミリーコンピューター、通称「ファミコン」の登場です。
ファミコンの登場とともに放課後の遊びが外から徐々に家の中に変わって行ったんですね。

そんな中でも遊び友達と言えばクラスメイトは当然ですけど、野球チームの友だちとも遊びます。

あの当時遊びに行くときは帽子を被って行きますが、その帽子は当然自分のチームの野球帽です。

それくらい野球チームの友だちとは仲良く楽しく遊んだり練習したりで過ごしていました。

しかし、そこで嫌いになって行ったこともあります。

それは、自分のチームで野球をすることが嫌いになったんです。

我がチームは野球の面白さを教えることが無く勝利至上主義なチームでした。

そして僕らの世代の前後の世代は強かったので僕らの世代は常に優勝旗の返還をする役目で優勝に縁のないチームでした。

それでかも知れないですけど、6年生の時に見てくれる監督が僕らの世代だけ匙を投げて5年生のチームを指導するという世代でした。

これだけでもかなりの挫折感ありますけど、僕は更なる挫折を味わっていたんですね。

俺を認めてくれ!

先にもお伝えしましたが、僕は運動神経が良いほうだったんですけど唯一認めてもらえなかったのが少年野球チームでした。

出場しても途中で変えられたり、何よりも応援に来てくれている親御さんたちでさえも、私の扱いに可哀そうって思っている方々がいるくらいでした。

少年野球ってリトルリーグと違い軟球ですし、肘への負担も考えていて投手はストレートしか投げれません。

そんな真っ直ぐのみで勝負する少年野球でなんと我がチームは「待て」のサインがあったんです。

私の打席は必ず2球まで「待て」のサインが出ました。
結構な確率で2ストライクです。

あと1球でどう勝負するってんだって今なら思います。
しかし、当時そこまで荒々しい性格でない私は思い切ったスイングも出来なく結果を出すことが出来なかったと思います。

そうすると代打を出されて終了です。

そんな中でも記憶に残っている経験が2つあります。
その一つはある日「待て」のサインが最初から出ない日がありました。

第一打席から「待てのサインが出ていない」って思い積極性が顔を出しました。
突然絶好調になり、1球目から自由に打てる楽しさから初球からスイングしていき3打数2安打の成績を残しました。

しかも1安打出なかったのは相手のファインプレーだったんです。
その日はボールが止まって見えるくらい集中力が高まっていたのを覚えています。

しかし、そんな自由に打てた日もそれきりです。
またしてもいつも通り「待て」のサインで積極性は失われていきました。

いつしか私は試合の日すら好きではなくなりました。
楽しいのは練習のみです。。。

なぜなら練習日は土曜日と日曜日です。
日曜日の練習では土曜の夜8時からのTV番組の話をするのが楽しかったからです。

「俺たちひょうきん族」
このTVの話をチームメイトとするのが大好きだったんです。
だから、小学校卒業するまで野球を辞めることなく続けることが出来たんですね。

そして、小学校卒業となり中学校へと進学となります。
当然のように野球部に入りと思いますよね?

僕らのチームから野球部へそのまま入った人は3%位の友だちだけでした。
他のチームの友だちは、ほぼほぼ90%位は野球部入る時代ですよ!

思い返してみれば途中でウチのチームにコーチとして入って友達のお父さんが直ぐにコーチを辞めたんです。

大人になってその友達から話を聞いたら、野球の楽しさを教えるチームではないことに方向性の違いからコーチを辞退したことを知りました。

こうして、我が少年野球チームは未来のプロ野球選手を発掘することなく子どもの将来を潰して行きましたとさ。

なんて恨みを晴らす話ではありません。

解釈を変えてみると、、、

しかし、プラスに考えて見るとその当時積極性が私にあれば良かったと思っています。

6年生になったとき、どのポジションをやるのかを決める時に、みんな積極的に自分のやりたいポジションを主張していた時です。

私は自分から積極的に自分から手を上げることが出来なかったんです。
やりたいポジションはどんどん友達に奪われていきます。

そして、イチロー選手が有名になる前には比較的日陰のポジションであったライトに任命されました。

この経験から中学校以降は積極性を自分の中では出して行くことにしました。

中学高校時代はバレー部に入り弱小ではありましたけど、エースのポジションでわがままに自由にプレーすることが出来ましたからね。

そんな挫折を味わった野球人生ですが、もう一つの記憶に残っているプレーがあります。

それは、少年野球の最後の試合です。

1アウトランナー1塁です。
少年野球の大会のグラウンドは広い空き地みたいなところでも開催されます。

その日のグラウンドはライト方向に抜けるとボールの勢いがあれば、ランニングホームランになってしまうコンディションのグラウンドでした。

何回は定かではないですけど中盤くらいだったと思います。
まだお互い点の入っていない拮抗した試合でした。

いつものようにライトで守備に就いていた時です。

ライト方向に強いライナー性の打球が飛んできました。
正確に言うとライト寄りの右中間です。

誰もが抜けたと思うような強い打球です。
1塁ランナーも抜けると思ったのかホームまで帰る勢いで走っていました。

そんな中僕は打った瞬間から打球の落下地点まで一直線に走りました。
そして見事にジャンプしてキャッチ。

頭上を抜けると思っていた1塁ランナーは2塁ベースを回ったくらいでした。
グローブに見事に収めたボールを返す刀で1塁へ返球。

1バウンド、2バウンドで見事に1塁守のグローブに収まる。
「アウトー!」

見事に外野フライゲッツーの超ファインプレーでした。

あの場面僕がライトを守っていなかったら確実に1点入っていたと思います。

あの時の歓喜の輪は未だに忘れられない思い出です。

試合の結果ですが、、、

ファインプレーがきっかけで実を結ぶほどではなかったかな。。。


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