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10日間の瞑想合宿を終えて

10日間誰ともコミュニケーションを取らず1日10時間ひたすら座り続ける、恐らく我が人生の中でもトップ3に入る過酷な時間であった。だがやってよかったと心の底から今は思っている。

神道と並び自分の国で最も身近な宗教に触れ、他人との関係を断ちじっくりと自分と向き合う経験、そして自分がいかに生きていくかが明確になった。

勘違いしないでほしい。俗にいう「インドで価値観変わったわぁ」みたいな薄っぺらい話ではない、どちらかと言うと今までぼんやりと見えていた自分の生き方を再確認させる経験を与えてくれて、それを言語化させるまでに明確にしてくれたと言う方が正しいだろう。

今までも僕は神という存在については否定的な立場であった。全知全能の神がいるならば何故世の中に災害や戦争などの惨事が起きるのか、敬虔な信者たちも不幸を被るのか。そしてそれらの人間至上主義的考え方も好まなかった。

その点、唯一神にすがらず、起きた事象を自然のあるがままに受け入れ、それを自分自身で消化し、調和を軸とする仏教の考えには自分のこれまで考えと深く重なる部分があり今回の合宿参加に至った。そして、この10日間で確実に物事を反応する自分自身をコントロールし、冷静に対処する能力の基礎を培うことができた。

しかしながら、似てると思えた自分の考え方と仏教の考え方の相違点についても気付くことができた。幸せの定義についてだ。世の中の全てのものは良いことも悪いことも一生続くことはない。そしてそれらに対していちいち反応をすると、物事を渇望する感情を刺激し、それが苦しみや惨めさに繋がり不幸せになってしまう。そこでゴーダマ(仏陀)は、あらゆる事象に対しても一喜一憂せず、常に心を一定に保ち受け入れなさい、と人々に説いた。その先に心の中にピースとハーモニーが生まれる。そして最期の瞬間を穏やかな笑顔で迎え、また来世へ、輪廻転生の旅へと出ていく。これが仏教の本当の意味で幸せなのだ。言わば仏教のベースは完璧なニヒリストになることなのである。(※少なくとも僕が理解した範囲内の話です)

間違いなく幸せ、喜びの対義語は不幸、苦しみ、惨めさである。しかし、人生から苦しみ、惨めさを排除したからと言ってそれが幸せとイコールで結べるかと言うと僕はそう思わない。ましては、喜びを感じること、過去の思い出を懐かしむことも渇望生み、いずれは惨めさ苦しみに繋がるのでするべきでないと言う。つまり苦しみ、惨めさと一緒に喜びをも取り除いてしまうのだ。

さらにその感情的麻痺モードを体得するため厳しい五つの戒律を守り、瞑想の修行に努める。勿論、生半可な覚悟と鍛錬ですぐにそこに達したりはしない。ごく一握りの人達だけが何十年と年月をかけてその域に達するという。彼らの中にはそれらを得るために人との交流を断ち、自分自身に集中するnoble silence(高貴な沈黙) を守る人もいる。

確かに苦しみや惨めさはなるべく感じないで生きていくのは良いに決まっている。しかしその為に俗世を離れ、修行に人生を捧げ、日々の喜びに対しても無反応になる、感情を麻痺させて生きていくことには個人的には賛同しかねる。そんな虚無で白黒な人生など人は本当に幸せなのだろうか。

無論、人によって幸せの定義は違う。だけど少なくとも、これは僕が生きていきたい人生ではない。多少の不幸、苦しみ、惨めさはあっても良いので、幸せや喜びを噛み締めて生きていきたい。

 

むしろ、多少の不幸、苦しみは日々のなんでもない事に感謝させ、幸せを感じさせる事すらある。現にこの合宿ですごく大切なことを学ばせてもらった。

具体的には何が幸せな人生において必要不可欠な要素であるかもこの10日間で見えてきた。この十日間、寝る、食べる、瞑想と娯楽のない生活をしてきた中で心の底から恋しくなった物がはっきりと浮き彫りになったのだ。究極な環境だからこそ見えてきたそれは、TwitterでもInstagramでもジムでも魚でもビールでもなかった。

人とのつながりである。

物事の感想や意見を互いに言い合えること、人と囲む食事が1人で食べるより美味しいこと、ありがとうという気持ちを伝えられること、相手の目を見て相手の気持ちを汲めること、そして同じ瞬間を共有し同じ気持ちを抱くこと。普段、人と過ごし普通だと思っていたこと事こそ僕が思う幸せな人生の基盤であると、この生活を送り気づくことができた。

だからこれからも幸せな人生を築いてゆくためにも、もっと素直に自分の思う事を伝え、つながりを大切に生きてゆこうと思う。中でも特に家族に対しては。僕はどちらかというと意地っ張りなタイプなので、母親にも自分の思う事を素直に言うことがこっ恥ずかしくて出来なかったが、今少しずつ伝えるように意識し始めたところだ。うちの家族にも最近、大きな変化があったとこなのでこまめに気にかけて大切にしたい所存です。


苦しみに話を戻すと、Noble silenceという苦しみがあったからこそ「普通」である事にありがたみを感じ、その大切さに気付き、喜びを見出すことが出来たのだ。その点では苦しみなども絶対悪ではなく、人生においてはあった方が良い要素なのではないだろうか。

寿司で例えるならば、ネタが喜び、サビが苦しみ、シャリがどちらでもない日々だといえよう。確かにサビがネタの味を感じないほど多くあると、ひどくて食えたものにはならない。ネタの味を感じられるが同時にピリッとした辛味を感じる絶妙な量のサビであると全体の味が締まり、より美味しい一貫になる。これをシャリとネタの間のサビを取り除き、さらにサビの少し付いてしまったネタをも取り除いてしまったら、味気のないただのシャリしか残らない。そんなもの面白くないだろう。ネタ、サビ、シャリがあってこその寿司なのだから。

そして10日目の夜にアリエタが僕らに言った、「宗教は自分の生き方を見つける手段であって生きる目的ではない」という言葉が仏教と自分の考えの相違点に気付いてからモヤモヤとしていたじぶんの心を晴らしてくれた。仏教の教えは自分が今まで思っていた事を言語化してくれている部分が多々あり、また参考にして取り入れるべきと思わせる部分も沢山あった。しかしだからと言って仏教徒になる必要は無いのだ。宗教の中でも賛同できるものできないのもの取捨選択し取り込んでいき自分の生きる道を見つけて行くことこそが重要である。


だからこそ、これからも僕は喜びがあれば全力で噛み締めていく。反対に僕の意にそぐわないことに関しては、受け入れ 、”Only observe”(ただ観察し)、そして時が過ぎてそのものが消えていくのを待つ。寿司の話に戻るなら多少は鼻にツーンとすることはありますが、ピリッと程よくワサビの効いた、口の中でとろけるようなトロサーモンを頬張っていきます。



しかしながら、僕が仏教の考え方に100%賛同できなかったのは、ある意味幸せなことでもあるのかもしれない。恐らく仏教に助けを求める人は、大切な人を失っただとか不治の病で苦しんでいるだとか耐え難い苦しみや惨めさに打ちひしがれている人達だと思う。その人達はいち早くこの苦しみから解放されたいと願い、その代償にも喜びや幸せと思うことを投売り、感情的に麻痺したともいえる状態を目指すのだろう。耐え難い痛みにモルヒネを使い感覚を麻痺させるのと同じように。対して今、僕が生きている人生は、嫌なこと苦しいこと、惨めに感じる事も多少はあるがそれ以上に幸せと感じること喜びが勝っている。もしもこの先僕が耐えがたい苦しみに見舞われたら、仏教にすがる日が来るかもしれない。

また僕がぶつけた質問に対して講師が返した「本当の幸せを手に入れ、笑顔のまま最期を迎える。そして来世、再来世、その先でもまた幸せな一生を過ごしていく」という答えも輪廻というものを信じない僕には理解しにくい事だったが、よくよく考えると人によっては理解できるかもと思った。

「何でもないようなことが幸せなんだと思う」

そう高橋ジョージが歌ったように、何事もなく1日を終えることが幸せと考える人は大勢いるだろう。それはきっと明日も変わらず日が昇り新しい一日が始まるという条件のもとそう感じるのであろう。繰り返し訪れる日々ように、一生が終わってもまた新たな一生が繰り返し訪れる仏教では、絶頂もどん底もない平穏な一生を終え、また新たな一生を歩み始めることは仏教徒たちにとっての俗にいう「なんでもない幸せ」なんだといえるのかもしれない。

以上、10日間の瞑想合宿で考えた幸せとは、人生とは、という話でした。

インドの瞑想の話も今まで長々と書いてきましたが、わざわざ目を通していただき有難うございました。


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