向いてる仕事と向いてない仕事、やりたい仕事とやりたくない仕事(中編)

前回はなんだかベンチャー企業への愚痴みたいになってしまったんですけど、あくまで僕個人にはあってねーなー、向いてねーなーってことに過ぎないので別にそこの企業で働かれている方を貶すつもりはないです。

就活を初めて出会った人たちはやたらと「軸」の話をしてきます。逆に自分の「軸」を聞かれることもあります。就職活動に限らず仕事をする上で、「やりたいこと、やりたくないこと」「向いていること、向いていないこと」のマトリクスを見たことがあるでしょうか。確か「今でしょ」でお馴染みの林修氏もこの話をしていて、彼の仕事である予備校講師は彼にとっては「やりたい仕事」ではなく「向いている仕事」だと断言しています。余談ですが彼が本当にしたい仕事として、本の執筆、確か料理屋の紹介本?はのちに実現したようですが、売れ行きはよろしくなかったらしいです。向いてなかったのでしょう。彼の話では向いている仕事をしていれば、いつかは「やりたい仕事」もできる的な話だったと思います(うろ覚えですいません。)
話がそれましたが、要するに「やりたい仕事」よりも「向いている仕事」をした方がいい、という話でした。

僕もこの話に大学生くらいの時に出会ってその通りだなと思い、当時のアルバイト先の塾講師が向いている仕事だと思って(人からも言われ)教師を将来像の一つに定めました。大学院生になって二年生の時に教員免許を取得して、幸いなことに仕事を紹介していただき非常勤講師として中学校で働かせていただくことができました。と言っても週に一度の授業なのでそれほどの忙しさではなかったのですが。1年間の仕事の中で徐々に授業の回し方であったり、どのように授業を運営すればいいのかが少しずつわかるようになりました。それとしては自分なりに成長を感じることができていたと思います。

しかし一方で途中から仕事への「愛」がないような気がしてきました。前述してきた「向いている」「向いていない」論議で言えば向いていたように思います。それほど労力を割かなくとも授業を成立させることはできていたからです。とはいえ「やりがい」のようなものはあまり感じられていないような。「向いている」けれど「やりたい」仕事?ではなかったのかもしれないです。当時はそんなこと考えもしなかったので、本当に今思えば。っていう話なんですが。

そんな1年間を経て翌年の修士3年目に半年間のフィンランド留学を経験しました。散々書いてきましたが特にやることの多くない留学生活中の腐るほどある時間で将来のことを考えずにはいられません。友達からも卒業した後は何をするのか?という質問が飛んできます。そのときは毎回博士に進学して研究しつつ教員をやる、と答えていたと思うのですが、だんだんその回答にも自信が持てなくなっていました。留学中に同時進行で修士論文を執筆していましたが、これをもう一度書くなんて無理だという気持ちが募っていき、研究者は自分にとって「やりたくない」し「向いてない」仕事だったんじゃないかと今となっては思います。

一方で教師は「向いている」かもしれないけど、一生続けるほどの「愛」はない。つまりは「やりたい仕事」ではなかったのかもしれません。冒頭の「軸」の話に戻ってきますが、「軸」というのはその人にとっての仕事を考える上で「大切にしたいこと」なんだと解釈しています。よく軸を三つくらいで説明する、みたいなことがありますが、少なくとも自分にとって仕事への「愛」ないし「愛着」は一つの軸だったのかもしれません。自分はよく物をなくします。ビニール傘を買っては失くしていたのですが、最近少し高い傘を買いました。すると不思議なもので全くなくすことはなくなりました。傘への愛着があるからです。これもきっと仕事と同じで愛着を持って、愛を持って出来る仕事はちょっとやそっとのことでは投げ出したりしないでしょう。手放したくない。

それでは何が自分にとって「やりたい仕事」だったのか、っていうのは今でも模索中ではあるのですが、いろいろ調べたり経験したりする中で徐々にですが明確になりつつあります。残りの軸の話ですね。これに気がついたきっかけもあるのでそれは次回書くことにします。

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