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物理学の歴史まとめ

古代の科学

物質の振る舞いといった自然現象は、哲学や宗教を用いて説明するところからはじまりました。また星空を見て星座を作り、占いを考えていく上で天文学が発展し、そのような中で、古代ギリシャでは地球が球体であることが知られるようになりました。以下、物理学の歴史について説明をします

古代ギリシャ

紀元前650年頃から480年頃のギリシャでは、あらゆる哲学者が自然現象を考えていました。
まずタレスは「万物は水から創造されている」と唱え、ヘラクレイトスは「万物は流転する」と唱え、デモクリトスは「空間は空虚な空間と、分割不能な原子からなる」という原子論を唱えました。以上のような哲学者が自然界について考えていきました。    
その後、プラトンが「ティマイオス」を書き、アリストテレスが「自然学」で、火、水、空気、火の混合で全てのものが作られているという四元素説等をまとめ、自然界について哲学的に考察をしました。
また、この頃は観測よりも「なぜ自然現象が起き、その現象の目的は何なのか」の論証が重視されていました。

ここまでを以下にまとめます

ヘレニズム時代

時代が経つと、学問の中心はエジプトのアレクサンドリアに移り、多くの学者が学びに来て、これまでの学問をまとめたり発展させていきました。
紀元前240年頃、エラトステネスは地球の円周の長さを正確に測定し、またアルキメデスはアルキメデスの原理を発見しました。
アリストテレスの地球中心的な見方とは対照的に、アリスタルコスは、地球ではなく太陽を中心に置いた地動説を明確に主張しました。
紀元後150年ごろには、プトレマイオスは、地球が宇宙の中心にあり、太陽やその他の惑星が地球の周りを回るという天動説を唱え、アリストテレスやヒッパルコスなど、それ以前の古代ギリシアの天文学を「アルマゲスト」という本にまとめました。この本はそれまでの天文学を数学的に体系付け、実用的な計算法を整理したことで、何世紀もの間天文学の標準的な教科書としての地位を得ました。
この頃から、数学と自然が結びつくようになります。
ここをまとめると、以下のようになります。

中世ヨーロッパ

プトレマイオスの天動説は、この頃に誕生したキリスト教の価値観を説明するのに都合がよかったために、天動説がヨーロッパの科学で支配的となります。つまり、科学と宗教が結びついていたと言え、それがヨーロッパ社会を支配していました。つまり、宗教が社会を支配しているのであります。
それ以後、ヨーロッパでの科学の発展が停滞し、約1000年間、科学の発展がない暗黒時代に突入します。
それから、科学の中心はイスラム圏に映り、今後のヨーロッパの科学に影響を及ぼすようになりました。
11世紀にはスコラ学が誕生し、アリストテレスの思想をキリスト教の中に取り入れられました。それは、日常経験から、宇宙の構造から人体に関して自然現象を説明をするというものでありました。
このことは自然哲学にも影響を及ぼします。

12世紀になると、イスラム圏で発展した科学がヨーロッパへ伝わり、知的革新の運動が起きると、アラビアで栄えた科学とギリシャで栄えた科学が融合し、それはスコラ学も影響を受けました。これを12世紀ルネサンスと言います。この頃に、コペルニクスが地動説を唱え、後の科学に革命を及ぼす基礎となりました。

16世紀になると、スコラ学への反逆運動が起き、アリストテレスの哲学的な価値観の脱却が図られるようになることで、先入観が入らない科学が構築されるようになります。この時、これまでは「なぜ自然現象が起き、その現象の目的は何なのか」という論証することに力を入れてきた自然哲学が、「数学に基づいた論証をしつつ、実験や観察事実に基づいた科学の追求」をするようになり、ガリレオやケプラー、ニュートンもその手法を使って研究しました。この頃になって実験が重視され始めました。

そのような経緯を得て「観察事実に拠り所を求めつつ、法則を追求する」という、今日の物理学の誕生に繋がりました。このパラダイムの変化を第一次科学革命といい、ニュートンがプリンキピアを出版するまで続きました。この科学革命により、アリストテレス的自然観から古典力学的な自然観へ交代をしました。

ここまで科学が栄えた場所について
古代ギリシャ⇨古代ローマ⇨アラビア等のイスラム圏⇨ヨーロッパ
と流れたのであります。

ここをまとめると、以下のようになります。

古典力学の発展 ニュートンから解析力学へ

近代では、実験による科学の探求の重要性が増した頃であり、書物のみで閉じていた科学が実験を重視するようになりました。その中でガリレオ・ガリレイは当時としては珍しかった実験を行うことで斜面上の運動に関する実験等を行い、理論の実証に務めました。

ガリレオの実験やティコ・プラーエの観察をもとにしてつくられたケプラーの法則等をもとにして、ニュートンは、1687年に「自然哲学の数学的諸原理(プリンキピア)」を著し、自然界の法則をまとめることで、物理学の礎を築きました。ただ、プリンキピアは物理学の本ではなく、あくまでも自然哲学に関する本であることに注意して欲しいです。ニュートンの示した理論は、ガリレイらの発見した法則を一般化し、包括的な説明を与えることに成功しました。その中で注目すべきものが2つあります。それは運動方程式万有引力の法則であり、それぞれ古典力学と宇宙物理学の基礎になりました。プリンキピアは幾何学を用いて自然について説明していて、非常に理解が難しいものでした。そこで、オイラーやライプニッツといった研究者達はそれを代数学の方法を使ってわかりやすくしました。さらに、ラグランジュやハミルトンは、古典力学を応用しやすいように代数学を使って拡張し、新しい定式化や原理、結果を導きました。それにより、ニュートン力学を数学的に厳密な記述をする解析力学と言われる分野が生まれ、20世紀の量子論を考える上での基礎となりました。重力の法則によって宇宙物理学の分野が起こされました。宇宙物理学は物理理論をもちいて天体現象を記述します。

17世紀から19世紀半ばごろまではあくまでも自然学としてのPhysicsであり、それは物理学だけでなく、自然現象に関するあらゆる学問(化学、生物、地球科学、天文学等)も含んでいました。また物理学という分野はなく、解析力学、電気、磁気、熱とそれぞれ別分野の学問であり、それぞれニュートン力学の応用分野として数学的に記述が進みました。またその研究は科学者ではなく、貴族や修道僧が趣味として自然哲学を研究していました。(科学者はこの頃はいませんでした)

この内容をまとめた年表は以下のようになります。

熱力学の発展 熱素VSエネルギー

ニュートンがプリンキピアを出版する前、ボイルやトリチェリが熱分野で研究をしていました。また、19世紀頃は蒸気機関が発明された頃であったことから、社会の需要から熱に関する研究が盛んに行われ、19世紀前半にはボイル・シャルルの法則として、気体の性質がまとめられました。また、熱の正体は、熱素という物質か、微粒子の運動なのかという議論があり、多くの研究者を巻き込んみました。初めは、熱素説が多くの支持を集めました。

19世紀中頃、マイヤーやヘルムホルツがエネルギー保存則を独自に見つけると、次第に粒子の運動の説が有利になり、その後、熱素説は否定されました。その経緯を以下述べていきます。

1789年、ラヴォアジエは化学原論にて、物体の温度変化を熱素という物質の移動により生じると唱え、多くの研究者の支持を得ました

1798年に、ランフォードは力学的仕事が熱に変換されることを示しました。

1822年に、フーリエは熱の伝導について、数学的な考察をし、熱伝導の方程式を導きました。これを解くために、フーリエ解析が誕生しました。

1842年、マイヤーはエネルギー保存則(熱力学第一法則)を発見し、それから1847年にはヘルムホルツも独自にエネルギー保存則を発見しました。

1850年にはクラウジウスはエネルギー保存則(熱力学第一法則)や熱力学第二法則を独自に見つけ、同時にエントロピーという概念を提唱しました。エントロピーとは微粒子の「乱雑さ」を表す量を表し、微粒子が暴れまわっているほど、エントロピーは高くなります。統計力学の場合だと、今の状態から見て今後取ることができる量子状態の数になります。つまり、取ることができる量子状態の数の多さが乱雑さになります。また、エントロピーは時間とともに増大する方向に向かう性質があります。

その中で、1848年にはW・トムソンは絶対零度の概念を提唱しました。絶対零度とは、気体の分子運動が起きない温度であり、セルシウス温度ではマイナス273度になります。

このような流れから、熱の運動は微粒子の運動の説が有利になり、熱素説はやがて否定されました。

19世紀後半には、マクスウェルやボルツマンにより統計力学が創始されました。統計力学とは、分子論の立場に立って、分子の挙動を平均化して扱い熱力学的なマクロの現象を説明する理論です。

19世紀半ば以降になると、これまでの科学は貴族や聖職者の「趣味としての活動」だったのが、「職業としての科学」になりました。これを第2次科学革命(科学の制度化)といいます。これにより、科学者が登場したと同時に大学に理学部が誕生したり、学会が誕生しました。(ちなみに、工学部を世界で初めて設置した大学は東京大学であります)

この内容をまとめた年表は以下のようになります。

電磁気学の発展 電気と磁気の関係

1752年にはフランクリンが雷の正体は電気であることを発見し、電気に対しての数学的な考察を近代では行われるようになりました。

1785年にクーロンは電気と磁気の力が逆2乗の法則に比例することを発見しました。このことをクーロンの法則と言います。

1820年には、エールステッドは電流が磁気を発生させる事を発見し、電気と磁気の関連性を指摘しました。

それを受けて、アンペールは2つの電流が互いに力を及ぼしあうことを発見し、同時に磁気による力は、分子内の電流によって生じると結論づけました。それをアンペールの法則と言います。このことを一般化したものはビオ・サバールの法則として知られています。

1827年に、オームはフーリエの熱伝導の理論を参考にしてオームの法則を立てました。

1821年に、電流の磁気作用の研究をする中で、ファラデーはモーターを製作し、1831年には、その逆作用として磁気が電流を生み出す作用を発見しました。これを電磁誘導の法則といいます。この頃、この法則を説明するために「」という概念が導入されるようになりました。ここで場とは、物理量を持つものの存在によって、その周辺に影響を及ぼす空間であります。その物理量が電荷の時、電場と言います。その空間は、3次元空間の各点で各時刻において何らかの値を持つ質点の集合体であります。

今までの電気と磁気に関する研究をまとめたのがマクスウェルであり、1864年にマクスウェル方程式として電気と磁気を統一的に説明しました。以下の4つの式をまとめてマクスウェル方程式と言います。

上から順番に紹介すると、
1つ目は電場中のガウスの法則であり、電場の源は電荷であることを表します。
2つ目は磁場中のガウスの法則で、モノポールは存在しないことを表します。
3つ目はファラデーの法則であり、磁場の時間変化があるところには電場が生じることを表します。
4つ目はマクスウェル・アンペールの法則であり、電場の時間変化(変位電流)と電流とで磁場が生じることを表します

この理論により、1871年に光は電磁波であると予言され、1888年にヘルツによって電磁波の存在が確認されました。ここで電磁波とは、「磁場とが変化すると電場が発生し、その電場が変化すると磁場が発生する」ということを交互に発生し、電場と磁場が絡み合いながら光の速さで横波として伝わる波動です。磁場が発生すると電場が発生することはファラデーの法則から来ており、電場が発生すると磁場が発生するということはアンペールの法則から来ています。
18世紀から19世紀にかけて、自然学(Physics)から化学や生物が分化し、物質とエネルギーに関することのみが残りました。
明治維新後、日本にPhysicsが入った時、物質とエネルギーに関する学問のみとなったために、「物理学」と訳されました。

19世紀末から20世紀にかけて、力学、電磁気学、熱力学などは、互いに関連性を持つ独立した学問とされ、力学は物理学の分野の1つとされるようになりました。

<まとめ>

原子論の発展 原子とは何か

1803年にドルトンは「すべての物質は非常に小さな、分割不可能な粒子で構成されている」ということを提唱したことから、原子論が始まりました。
マクスウェルが「光は電磁波である」という仮説を提唱しましたが、その理論では説明できない現象がありました。一例として、光の反射と屈折を説明できませんでした。そこで、ローレンツは、物質中には荷電粒子があり、光を受けると荷電粒子(電気を帯びている粒子のこと)が振動して電磁波が発生するということを提唱しました。ここで、荷電粒子は原子の構成要素であることを発表しました。

また、マクスウェルの理論では、電磁波を担う媒質としてエーテルを想定していました。そのエーテルは地球とともに動くのか、それとも静止するのかという議論について、静止する立場をとりました。

荷電粒子について、1888年にヘルツが電磁波の検出に成功したのをきっかけに1895年、ローレンツ力を提唱しました。

この頃、エーテルの振動は縦波か横波なのかの議論されていました。その中で、1895年にレントゲンは強い透過力を持つ未知の放射線を発見し、X線と名づけました。その後、X線の偏光現象が発見されると、X線は横波で波長が短い電磁波であるのがわかりました。1896年、レントゲンがX線を発見したのをきっかけにして、ベクレルは、ウラン塩の蛍光を研究中に、ウランが放出した放射線(アルファ線)が写真乾板を露光させることを発見したことで、放射線を発見し、核物理学の起こりとなりました。

同じ1896年にJ・J・トムソンはX線には気体分子をイオン化させる現象(電離)を発見し、その現象をきっかけに翌年、電子を発見しました。また1904年には原子の最初のモデルを提唱し、それはプラムプリン模型(ブドウパン模型)として知られています。同年、長岡半太郎も土星モデルとして原子のモデルを発表しました。

<まとめ>

前期量子論と相対性理論

前期量子論とは、プランクが量子仮説を打ち出してから、シュレディンガーやハイゼンベルグが量子力学の構築に到るまでの理論をいいます。これから、そのことについて説明します。

アインシュタインの業績

1905年、アインシュタインは光量子仮説ブラウン運動の理論特殊相対性理論についての論文を同時期に発表し、今後の物理学に影響を与えました。

光量子仮説は、「光はプランク定数hと振動数νをかけたエネルギーを持つ粒子として考えればいい」という理論であり、その光の粒を「光量子(こうりょうし)」といいます。この理論により、光電効果を説明することができました。光電効果とは、金属の表面に光が当たると、電子が金属から飛び出てくる現象です。光量子仮説を用いると、金属中の電子が振動数νの光の粒子(光子)を1つ吸収することでエネルギー量をもらい、金属外に飛び出すのに必要な最少限度のエネルギー(仕事関数)より高くもらった時に光電効果が起きると説明しました。この業績により、1921年にノーベル賞を取りました。

ブラウン運動の理論は、原子の存在を明白に証拠付ける事実となり、この論文により、アインシュタインは博士号を取ることができました。

19世紀後半以降、光の媒質であるエーテルについて研究されました。しかしマイケルソン・モーリーの実験ではエーテルの存在を確認できませんでした。アインシュタインはこの事に注目し、光の速さはどの観測者から見ても変わらないと言う光速不変の原理を考えました。これをきっかけに特殊相対性理論が生まれました。その中では、時間と空間は独立した実体とは扱われず、時空という一つの実体に統一されます。

特殊相対論は、相対速度が光の速さに近いときに、古典力学と置き換わる理論であります。特殊相対性理論はあくまでも慣性系であり、加速度系での事はなかったので、加速度系の場合はどうなのかを研究しました。その中で、重力場中ではユークリッド幾何学が成立しないという結果は、加速度系での相対論(一般相対論)の構築に困難を生じさせました。そこでリーマン幾何学を学び、曲がった空間について学びました。そうして加速度系を含めた相対性理論として一般相対性理論が構築できたのが1915年であり、宇宙論に大きく影響を与えました。一般相対性理論は、重力がかなり強い場合、ニュートンの万有引力の法則を置き換えるものになります。

アインシュタインはノーベル賞を取りましたが、それは光電効果を説明できたことのよるものであり、相対性理論ではありませんでした。ノーベル賞を取った時の賞金は、離婚した妻の慰謝料に充てたそうです。

また、アインシュタインは統計力学の分野でも活躍し、ボーズ・アインシュタイン凝縮という現象を予言しました。

ボーアたちの量子力学における確率解釈に関して「神はサイコロを振らない」と批判しました。

量子論の誕生

1900年初頭、離散的なエネルギー準位の導入によってさまざまな特異な実験結果を説明しました。 プランクは、黒体放射のスペクトルを説明するために、量子仮説を打ち立てました。ここで、黒体とは、外部から入射する電磁波を全ての波長に渡って完全に吸収できる理想的な物体であり、黒体放射とは黒体から熱が電磁波として運搬される現象(熱放射)です。スペクトルとは「混ざり合ったものを分ける」という意味であり、ある光の中に、どんな波長の光があり、それはどんな強さになっているのかを調べることを「光の波長を調べる」と言います。黒体放射のスペクトルは調べてみると以下のようになっていて、19世紀当時の理論的な予想とは違っていました。

(佐藤 勝彦「量子論を楽しむ本 」より図を引用しました。)

そこでプランクの量子仮説では、hを適当な定数(プランク定数)、νを電磁波の振動数とすると、電磁波のエネルギーは hν の整数倍になっていると仮定し、光のエネルギーはhν単位の要素だとしました。これをプランクの量子仮説と言います。そうすると、黒体放射のスペクトルをできました。

さらに、アインシュタインはプランクの仮説を改良して、光量子仮説を唱えました。それは、光はプランク定数hと振動数νをかけたエネルギーhνを持つ粒子として考えればいいというものでした。その粒子を光量子と言います。すると、光電効果を説明することができ、また光の粒子性と波動性の二重性も説明できました。

こうして、量子論の基礎が作られました。

原子模型について

20世紀初頭、原子はどのような構造なのかが研究されました。始めに提唱されたのが、J.J.トムソンのブドウパン模型であります。一方、長岡半太郎は正に荷電した原子核のまわりを電子が回っているとする、惑星系に似た原子モデル(土星モデル)を考案しました。

1911年、ラザフォードは実験によって原子核の存在を確認し(ラザフォード散乱)、土星モデルを確立しました。しかし、土星モデルには問題がありました。当時の電磁気学では、荷電粒子が回転運動をすると、電磁波を放出してエネルギーを失い、やがて原子核に落ち込むということでした。その仕組みは、電磁波の発生メカニズムにあります。荷電粒子が運動することは、電場が変化していることと同じであり、すると磁場が発生します。ファラデーの法則より今度は電場が発生し、また磁場が発生するということを繰り返していき、電場と磁場が交互に絡み合いながら荷電粒子より電磁波が放出されます。こうして荷電粒子から運動エネルギーが失われていき、原子核に落ち込むというわけです。(アンペールの法則とファラデーの法則から来ています)にも関わらず、なぜ原子は安定しているのかが議論になりました。

そこで1913年、ボーアは「量子条件」と「振動数条件」という仮説を打ち立て、独自の原子モデルを発表しました。それをボーアの原子模型と言います。量子条件とは「特定の軌道しか取らず、また電磁波を放出しない」というものです。具体的には、電子の質量をm、電子の速度をv、電子の軌道半径をr、プランク定数をh、nを任意の整数とすると

mvr = nh/2π

というものです。振動数条件とは、「原子内の電子が別の軌道へ移る時、光子を吸収するか放出する」というものです。

北村 俊樹 「カラー図解でわかる高校物理超入門 (サイエンス・アイ新書)」より図を引用しました。

しかし、このモデルには欠点がありました。
1つ目はこの時の量子条件について物理学的意味がわからないものであり、なぜ電磁波は放出しないのかを説明しませんでした。
2つ目はボーアの原子模型は水素原子のみしか当てはまらないものでした。

そこで1924年、ド・ブロイは光だけでなく電子や他の物質も波動性を持つということを唱えました。

それは、光量子仮説より得られた式

光子の運動量p =h/λ (hはプランク定数、λは光子の波長)

を電子に応用しました。

運動量がmvである電子は波長がλである波とみなすことで、その波長は

 λ = h / mv

というものです。この時の波を電子波と言います。これをボーアの量子条件の式

mvr=nh/2π (n=1,2,3…)

に代入すると、原子核の周辺にいる電子の波が消えずに残るには、電子波の波長の整数倍が軌道一周の長さになります。

すると、量子条件を以下のようにまとめられます。

北村 俊樹 「カラー図解でわかる高校物理超入門 (サイエンス・アイ新書)」より図を引用しました。

同様に、それはすべての物質にも当てはまると考え、その波を物質波と言います。つまり、電子や物質にも、光と同じように粒子性と波動性の2面性を持つというものです。その2面性を持つ粒子を量子と言います。

波は、「ある一点に存在する」というものではなく、広がりを持って存在しますので、原子の中の電子波もまた、原子核の周辺に広がりを持って存在します。そのことを持ちると、原子核の周辺にいる電子の波が消えずに残るには、電子波の波長の整数倍が軌道一周の長さになります。つまり、先ほど言ったことと同じになります。

こうして、ボーアの仮説を証明したと同時に、水素原子のスペクトルに関しても説明することができました。

この理論に触発されて、シュレディンガーは、流体中の波や電磁波の場合と同じように、物質波にも波動方程式があると考え、試行錯誤の末、以下のシュレディンガー方程式を導きました。

こうして1926年、波動力学が創始されました。

一方、ハイゼンベルグも独自の視点で量子論にアプローチし、行列力学を構築しました。その後、シュレディンガーは、行列力学も波動力学も数学的には同じものであることを導きました。

こうして量子力学が創始されました。

場の量子論の発展

場の量子論とは、特殊相対性理論と量子力学を整合させた理論です。この理論が発展した経緯をこれから説明します。

1926年、特殊相対性理論におけるエネルギーと運動量の関係を量子化することにより以下のクライン・ゴルドン方程式が示されましたが、それはスピン角運動量を含まず、波動関数の確率解釈を適用するには、確率が負になるという困難がありました。

そこで、 1928年の1月にポール・ディラックは確率が負にならない相対論的量子力学を構成し、以下のディラック方程式を導きました。

この方程式は、粒子が存在しないと考えられる真空状態は、実は何もない無の状態ではなく、全ての負のエネルギーの状態が電子によって完全に占有されている状態だということを示していることを突き止めました。その状態のことをディラックの海と言います。

負のエネルギーの状態の電子が光子を吸収することで、ディラックの海に穴が空きます。その穴のことを陽電子と言い、1932年にアンダーソンによって発見されました。(また同じ年にはチャドウィックにより、中性子が発見されます)
ここで、陽電子は電子の反粒子と言われます。反粒子とは、もともとの粒子と比較すると、質量とスピンは等しいが、電荷といった正負の値を持つ物理量の符号が逆の粒子を言います。電子の場合は電荷はマイナスですが、陽電子はプラスになります。

1934年には、フェルミは中性子のβ崩壊を説明するために、フェルミ相互作用を利用した理論を構築し、弱い相互作用を記述する理論の基礎となりました。同年、湯川秀樹はパイ中間子を予言し、1947年にパウエルにより発見されました

一方その頃、場の量子論が発展していく中において、光子などの他の粒子が生成と消滅を繰り返しながら陽子や中性子といった粒子が相互作用をすることにより、計算が面倒になりました。生成と消滅を繰り返すその粒子は仮想粒子と言われます。

そこで摂動法という方法を使い、計算しました。それは、いったん相互作用を無視し、その後、段階的に相互作用による効果を取り入れていくという計算手法です。その計算を視覚的にわかりやすくするためにファインマンは以下のファインマン・ダイヤグラムを考案しました。

以下のファインマン・ダイヤグラムでは、加速された電子は電磁波を放出し、それを電子が受け取ると、電子がエネルギーを得て光電効果を起こす様子を描いています。

吉田 伸夫「素粒子論はなぜわかりにくいのか (知の扉) 」より、図を引用しました。

しかし、摂動計算をする時、相互作用が極めて短い時間に連続して起きた場合、その効果を考慮した物理量を直に入れてしまうと、相互作用による効果を正しく計算できないという問題が判明します。

そこで、1948年、ファインマンや朝長振一郎らは、そのような現象を超ミクロな現象として丸め込んだくりこみ理論を作り、変な計算結果を解消することができました。

つまり、繰り込みスケールで起きたことは実験で確かめられていて、そのデータを結合定数として丸めることです。

朝長振一郎は、繰り込みとはカンニングをするようなものと言いました。

吉田 伸夫「素粒子論はなぜわかりにくいのか (知の扉) 」より、図を引用しました。

こうして、場の量子論の初歩の部分にあたる量子電磁力学(QED)が完成しました。これは、電磁相互作用を記述します。

1954年になると、楊振寧とロバート・ミルズによって、量子電磁力学の理論を強い相互作用にも拡張したものが提唱されました。それはヤン=ミルズ理論と言われ、量子色力学(QCD)の基礎となりました。同じ頃、日本では内山龍雄が同時期に同じ理論を完成させましたが、論文の提出が遅かったため、その執筆をやめたそうです。

1960年、南部陽一郎は、超伝導のBCS理論をヒントに対称性の自発的破れの概念を場の量子論において定式化しました。この理論をきっかけとして、1964年、ピーター・ヒッグスらは、質量の起源を解明するヒッグス機構を定式化しました。

同年、マレー・ゲルマン、ユヴァル・ネーマンらにより独立にクォーク模型を提唱し、クォークの存在を予言しました。

クォークとは、物質を構成する最も基本的な粒子(素粒子)の一つであり、陽子や中性子を構成します。一方、電子やニュートリノはレプトンと言われる素粒子の一種になります。

1967年、シェルドン・グラショウ、スティーヴン・ワインバーグおよびアブドゥス・サラムの尽力により、弱い相互作用と電磁相互作用の理論を統一した電弱統一理論(グラショウ=ワインバーグ=サラム理論)を定式化しました。

1972年、小林誠と益川敏英は、クォークの種類は6種類あることをCP対称性の破れを通じて発見しました。これを小林・益川理論と言います。ここで、粒子を反粒子に置き換える変換をC変換、空間を反転させる変換をP変換といい、その2つを組み合わせた変換をCP変換と言います。ここで、CP対称性が破れるとは、粒子をCP変換しても、結果的にその変換に従わないことを言います。つまり、粒子と反粒子は対等ではないということを示しています。

実際、1964年の実験で、K中間子の崩壊でCPがマイナスになるはずなのに、プラスになることが発見され、CP対称性が破れを見つけました。
このことを標準理論に反映させるには、クォークが6種類なければならないことを、小林・益川理論では主張しています。

1973年、ヘーラルト・トホーフトやデイビッド・グロスらによってヤン=ミルズ理論やクォーク模型、自発的対称性の破れをヒントにして量子色力学(QCD)が完成し、またクォークの漸近的自由性を説明しました。量子色力学とは、強い相互作用に関する場の量子論であります。その理論によると、カラー電荷と言われる物理量を持ち、光の三原色からの類推により「赤」、「緑」、「青」があります。

漸近的自由性とは、クォークなど粒子間に生じる力が近距離になるにつれ弱くなる性質をいいます。

こうして、量子色力学や電弱統一理論、ヒッグス機構といった標準理論が完成をし、今後の実験でも正しいことが示されました。(標準理論が完全に正しいとわかったのは、2012年のヒッグス粒子の発見です)

しかし、重力の量子化や大統一理論、暗黒物質と言った標準理論では説明できない理論があり、現在も研究が続けられています。

参考文献

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朝永 振一郎「物理学とは何だろうか〈上〉」岩波書店 (1979/5/21)
朝永 振一郎「物理学とは何だろうか〈下〉」岩波書店 (1979/11/20)
佐藤 勝彦「量子論を楽しむ本 」PHP研究所 (2000/3/31)
数研出版編集部 「もういちど読む数研の高校物理〈第2巻〉 」数研出版 (2012/12/1)北村 俊樹 「カラー図解でわかる高校物理超入門 (サイエンス・アイ新書)」SBクリエイティブ (2014/2/14)
山本 義隆 「新・物理入門 」駿台文庫; 増補改訂版 (2004/5/1)
大栗 博司「強い力と弱い力 ヒッグス粒子が宇宙にかけた魔法を解く (幻冬舎新書)」幻冬舎 (2013/1/30)
大栗 博司「重力とは何か アインシュタインから超弦理論へ、宇宙の謎に迫る (幻冬舎新書) 」幻冬舎 (2012/5/29)
村山 斉「宇宙は何でできているのか (幻冬舎新書)」幻冬舎 (2010/9/28)
吉田 伸夫「素粒子論はなぜわかりにくいのか (知の扉) 」技術評論社 (2013/12/5)
安孫子 誠也「はじめて読む物理学の歴史 (BERET SCIENCE) 」ベレ出版 (2013/11/1)
南部 陽一郎 「クォーク 第2版 (ブルーバックス) 」講談社; 第2版 (1998/2/20)
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Michael E. Peskin「An Introduction To Quantum Field Theory (Frontiers in Physics) 」CRC Press; 1版 (1995/10/2)

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